PROFESSOR

2024年10月5日

【著者に聞く】常に社会にあり続ける優生学 ──生の多様性を追求して 市野川容孝教授インタビュー

 

 2024年7月3日、障害や疾病等を理由に不妊手術を強制することを容認した旧優生保護法に対し、最高裁判所が違憲判決を下した。96年に旧優生保護法が改正され、不妊手術が行われなくなってから26年。『優生学と人間社会──生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(講談社)は2000年に刊行されて以降今も多くの人に読まれているロングセラーだ。著者の1人である市野川容孝教授(東大大学院総合文化研究科)に話を聞いた。(取材・峯﨑皓大)

 

 

━━キリスト教徒が多数を占める北欧諸国において、いかにして「神の領域に踏み込む」優生学的政策が可能になったのでしょうか

 

 北欧諸国はキリスト教徒が多数を占めると言っても、保守的なカトリックの影響は強くありません。それを踏まえた上で、一つ目の理由として、北欧諸国はルター派(プロテスタント)が多数であることが挙げられます。カトリックの教えは人間の生殖に介入することに極めて批判的ですが、プロテスタントの教えはカトリックと比べてさほど強いタブーがありませんでした。二つ目の理由は、既に生き始めている胎児を「直接的」に殺生する中絶と、胎児を身ごもる前に胎児が生まれないようにする「間接的」な身体侵襲(不妊手術)は異なるという認識が特にプロテスタントにあったことが挙げられます。

 

━━民主主義体制がいち早く成立した北欧諸国において、民主主義の下で断種法の制定がなされたのは、国民に優生思想が広く行き渡っていたからなのでしょうか

 

 北欧諸国には19 世紀から20 世紀にかけて社会民主主義、福祉国家の考え方が広く浸透していました。障害者福祉の必要性も認識され始め、国として障害者福祉のための政策を推進していました。

 

 そんな中、少なからぬ国において、福祉の充実のために優生政策が必要だという考えも見られました。例えば、デンマークのステインケは社会福祉と優生学を対立するものとは考えておらず、むしろ限られた財源で社会福祉を充実させるために、社会福祉を必要とする人間の出生を優生政策によって減らすべきだと考えていました。

 

 福祉国家として国が国民一人一人の面倒を見る代わりに、一人一人の人生についても国が口出しするという論理です。民主主義体制が確立していたことを踏まえれば、この考え方は国民にも広く同意されていたと思います。ドイツのM. シュバルツという研究者は『社会主義の優生学』(1995年未邦訳)で、優生政策のある種の展開はナチスドイツではなく北欧諸国に見るべきだと提言をしましたが、正しい主張だと思います。

 

 戦後の日本で成立した旧優生保護法も、反対した党はほぼなく、一部のカトリック系の人々が反対したにとどまったことを見ても、日本でも優生政策推進にはある程度の国民の合意がとれていたと思います。

 

━━20世紀以降各国で推し進められた優生政策に悪意があったように思えず、むしろ「善意」で行われたような気がしました

 

 戦後の日本で旧優生保護法に基づいて行われていた強制不妊手術は今から見れば深刻な人権侵害ですが、旧優生保護法が成立した時には「子どもを産んでもまともに育てられない」「生まれる子どもがかわいそう」という、親となる本人はもとより、子ども本人の意見を無視したパターナリスティックな議論が行われていました。当時の視点から見ると「善意」のもとで行われたと言えると思います。このような「善意」が優生政策を呼び込んだり、優生政策と共犯関係を結んだりしていた側面はあると思います。

 

米本昌平、ヌデ島次郎、松原洋子、市野川容孝『優生学と人間社会━━生命科学の世紀はどこへ向かうのか』講談社、税込み1100円
米本昌平、ヌデ島次郎、松原洋子、市野川容孝『優生学と人間社会━━生命科学の世紀はどこへ向かうのか』講談社、税込み1100円

 

━━出生前診断や遺伝子検査など、優生学的行為を行うのがますます容易になりつつあります

 

 旧優生保護法の下で行われた強制不妊手術について、マスメディアは「なんて酷い人権侵害だ」と報じています。旧優生保護法が廃止されてから20 年余りの間に、日本の人権意識が向上したから価値観が変わったという見方ももちろんできます。その一方、不確定要素があるものの、出生前診断で胎児の情報がある程度得られるようになり、もはや優生学が「不妊手術」を必要としなくなっているという見方もできると思います。

 

 科学技術の進展に伴って、優生学そのものが自らが活用する技術を乗り換えたということです。今となっては、優生学は「野蛮な」不妊手術無しに、出生前診断とそれに基づく選択的中絶で、その目的をほぼ達成できるようになったと考えています。優生学が不妊手術の技術を「捨てた」からこそ、強制不妊手術が人権侵害と言われるようになったという側面もあると思います。

 

 一方で出生前診断全般を禁止することはできないし、すべきでないと思います。何かを禁止することについては、慎重で抑制的であるべきと考えるからです。出生前診断を優生学に通じるからといって禁止するよりも「障害者は不幸である」という決めつけをやめることが大事だと思います。

 

 そのための重要なアクターはくしくも福祉国家だと考えています。確かに20 世紀には福祉国家と優生政策は非常に親和性があり、福祉国家が優生政策を補強してきました。しかし、これからの福祉国家には、障害者を減らそうとすることではなく、障害者一人一人の生活の可能性を開くことが求められています。

 

━━この本が刊行されて24年、NITP(新型出生前診断)のような従来の出生前診断よりもリスクが低い診断方法も登場しています

 

 優生学を人間が克服することはそう簡単でないと思います。最高裁判決で旧優生保護法に対して違憲判決が出ましたが、だからといって優生学がなくなるわけではない。優生学はなくならないという前提で、どのように私たちが付き合うかを考えるべきだと思います。

 

 その中で「障害」を生の多様性の一つとして認めることが重要だと思います。「〇〇ができないのは障害のせい」と言われがちですが、障害のある人に何かができないのは周囲の配慮の不足によるところが大きい。だから障害者差別解消法(2016年施行)などによって「合理的配慮」ということが言われるようになった。

 

 また、パターナリスティックな考え方をやめ、当事者と同じ目線に立ったり、当事者研究をしたりすることも重要だと思います。まずは本人の声を聞いてみてください。実際の声を聞くことの積み重ねが、障害者を減らそうとする国家ではなく、障害者の人生の可能性を開く福祉国家につながると思います。

 

市野川容孝教授(東京大学大学院総合文化研究科) いちのかわ・やすたか/93年東大大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。修士(社会学)。東大大学院総合文化研究科准教授などを経て09年より現職。

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