「起業」と聞いてあなたは何を思い浮かべるだろうか。億万長者を目指した一獲千金か、それとも全世界へ影響を与える会社を立ち上げることだろうか。しかし、その一方で好きなことを仕事にするための、そしてより自分の生き方に合わせて働くための起業もある。東大工学部船舶海洋工学科(当時)を卒業し、TOTOに入社するも4年目で退職。31才にしてファッションブランドsneeuwを立ち上げた雪浦聖子さんもそのような起業家の一人だ。雪浦さんに「好き」をかなえるための選択肢としての起業について聞いた。(取材・宮川理芳)
「このままやらなかったら死ぬ時に後悔する」
━━幼い頃から「ものづくり」への興味が強く、デザインの仕事に就きたかったそうですね。そんな中で東大工学部船舶海洋工学科に進んだのはなぜですか
元は建築学科に行きたかったんです。ちっともかっこよくないんですが、大学で勉強を頑張れなくて。アルバイトばかりしていました。お金を貯めては好きな服を買っていましたね。その中でも船舶海洋工学科を選んだのは、なるべく自分の生活と地続きの、イメージしやすいものを作る勉強をしたいと思ったからです。材料力学、流体力学といった工学の基本や、システム設計について勉強しました。学んだ内容は今の仕事に直接的にはつながっていませんが、その中で習得した、ものの学び方や文章にまとめる方法、物事を人に伝える方法は今も生きていると思います。
━━TOTOでウォシュレットの開発に携わっておられました。いつごろから起業を現実的な選択肢として考え始めましたか。また、退職し起業をするに当たって決断の決め手になったことは何ですか
仕事にも慣れてきた3年目ごろでしょうか。デザインの仕事をしたいという思いが先にあったのですが、毎年異動願いを出しても社内だと思うような部署に行けませんでした。また、多くの人数で一つの製品を作り上げるのですが、仕事の規模が大きな分やりがいはあっても全体で合意を得ないと進められないことが多かったんです。規模は小さくても、やりたいと思ったことがすぐに形になるような働き方をしたいと思うようになりました。最終的な決め手は「このままやらなかったら死ぬ時に後悔するな」という思いでした。「本当はデザイナーになりたかったのよ」と言っているおばあちゃんになりたくないな、と。
━━TOTO退職後、服飾学校であるエスモードジャポン(以下、エスモード)に入学しました。入学当初からブランドを立ち上げるというのは明確な目標としてあったのですか
はっきりしていました。卒業後他のブランドに参加したり別の形でデザインの仕事に就いたりした友人も多かったのですが、私は初めから「自分のブランドを作る」と言っていました。やはりそれは、会社時代を経て、自分の思ったように自由に物を作れる環境を作りたいと思うようになったことが大きいと思います。就職活動に時間を割かない分「ブランドを立ち上げるためには何をすべきか」ということを意識しながら授業を受けていました。
━━エスモードではどのようなことを学びましたか
デザインの方法ももちろん学ぶのですが、ブランドのコンセプトを考えること、「ブランディング」についても同じくらいしっかり学びました。「あなたが作る理由は何か」ということを何度も問われ続けました。なぜ自分はものづくりをしたいんだろう、自分はものづくりでどんなことができるんだろう、というようなことを原点に立ち返って考えさせられました。先生から指導を受けて、日々考えを深めていって、ときには泣いたりもしながら授業を受けていましたね。真剣に悩む機会を持てたことで自分が本当にやりたいことを見つめることができました。
━━sneeuwの「クリーン&ユーモア」というコンセプトはどうやって思い付いたのですか
卒業の際に掲げた「クリーン&ユーモア」をそのまま使っています。TOTOで開発に携わっていた頃のプロダクトデザインのトレンドがシンプルでミニマルなものが中心で、私もそうしたデザインが好みだったので、形のイメージとしてはつるんと、あるいはすっきりとしたものが作りたいという気持ちがありました。ただシンプルなものって突き詰めると形が似通ってくるんですよね。自分が作る意味をどこに持たせればいいんだろうと悩んで、行き着いたのが「ユーモア」でした。澄ましたものよりも、どこかふざけちゃうとかどこかにゆるさがあるのが自分らしいものづくりだと考えるようになりました。ちなみに「sneeuw」という名前は、オランダ語で「雪」という意味です。自分の名字から一文字取りました。オランダのデザインが好きなのでオランダ語から取っています。
人の縁がつないだ起業
━━資金調達はどのように行いましたか
会社員時代の貯金とアルバイトです。足りない資金を補うために何かする、というよりも、今あるお金の中で何ができるかということを考えました。小規模でそれほど大きな資金は必要なかったので、どこかから融資を受けることは一切しませんでした。とりあえずデザインの仕事のためのお金を稼ぐことを目標にして、赤字にならなければいいや、くらいのスタートでした。
━━服や生地を作る工場はどのように見つけましたか
最初の頃は自分で手縫いしたものも置いていました。アトリエにあるミシンは学生時代からずっと使っているものです。今でも一点もののかばんは自分で縫ってしまうこともあります。工場はこれまで十数カ所と取引してきましたが、多くは紹介で見つけました。生地や服を作っている会社が集まる大きな展示会があって、そこに行って直接お願いすることもあります。仕事を依頼するにはある程度まとまった量のオーダーが必要になるので、立ち上げたばかりで注文が来ない頃は大変でした。エスモード時代の同級生が働いているブランドの生産の枠に混ぜてもらったり、アシスタントとして働いていたブランドの取引先の方を紹介してもらったり。本当に人のご縁に助けられました。運が良いんです。
━━2022年12月現在、東松原の直営店の他に日本全国に23もの卸先があります。どのように取引先を拡大していったのですか
自分が洋服を置いてもらいたいと思うセレクトショップを調べて、その店のバイヤーさんに連絡をして服を見てもらうことを繰り返しました。自分が好きなブランドを置いている店や、実際に行って雰囲気が合うと思うお店を探しながら地道に広げていきました。あとは年に2回展示会を開き、春夏コレクション・秋冬コレクションと分けて見本を作ってはバイヤーさんに連絡を取って来てもらいました。いくつかのブランドが合同で行う展示会に参加し、他のブランドの縁で来たバイヤーさんの目に留まるということもありました。3年前に直営店をオープンしました。
━━現在ほど拡大するまでにどれくらいかかりましたか
最初のシーズンは友人が買ってくれただけで、1店舗も決まりませんでした。2シーズン目に唯一決まったのが、偶然にも一番置いてほしいと思っていたお店でした。これも本当に人の縁によるところが大きいのですが、自分が展示会をしていた隣の部屋で洋服の展示をしていたブランドの方がそのお店のバイヤーさんを紹介してくださったんです。ファンもかなり多いお店だったので「そのお店が置いているなら」ということで関心を持ってくれる方がじわじわ増えていきました。5、6年目くらいで現在とほぼ同じくらいの規模になりました。
━━うまくいかないとき、どのように軌道修正しましたか
先輩デザイナーに相談することで解決する場面も多くありました。例えば、デザインの展開数についても迷う局面がありました。デザインの種類が豊富であればあるほど相手に気に入ってもらえる確率は上がりますが、1型あたりの注文数が減れば1枚あたりのコストが上がる可能性が出てきます。合同展示会で先輩デザイナーさんにたくさん会えるので、その場でコレクションを見させてもらったりお話しさせてもらうことで商品展開の感覚をつかんでいきました。
━━中国、香港、台湾にもそれぞれ一つずつ卸先があります。これはどのようにして見つけたのですか
中国は、日本のブランドで集まって、向こうの大きな合同展に出展するプロジェクトに参加したことがきっかけです。香港は日本で開催していた合同展示会で、台湾は知り合いのデザイナーさんの紹介で、それぞれつながりができました。今では全体の売上の1割ほどを占めています。
━━狭い世界である分実力勝負という面が強いのではと思いますが、不安や怖い気持ちはありませんでしたか
もちろん怖かったです。ただそこはあまり考えてもしょうがないので、自分が新鮮だと思えるものを作っていくしかないのかな、と。自分でも飽きるようなものを作っていたらお客さんも飽きてしまいますよね。
「自分らしさ」を保つためのデザインを
━━今後の展望をお聞かせください
「生活全体をsneeuw流にプロデュースしてワクワクしてもらうこと」でしょうか。最近夫が勤めていた会社を退職して喫茶店を始めたんです。洋服、喫茶店、そして洋服の直営店の三つでいわば衣食住がそろった形になるので、インテリア雑貨のデザインなどを通じて空間全体で「sneeuwらしさ」を表現していければと思っています。洋服にしても喫茶店にしても、自分の普段の生活から少し離れて「自分らしさ」を保つという役割があるのではないでしょうか。「今日仕事しんどいな」というときでも、洋服を着たり喫茶店でお茶を飲んだりすることでほっとしたり、気が晴れたりしますよね。そういう形でなら人の役にも立てるかもしれない、と。
━━「自分の好きなことを形にしたい」が出発点だったのが「人をワクワクさせたい」に変化してきているということでしょうか
そうだと思います。余裕が出てきたのでしょう。そういう仕事だと気付いたんです。19年に渋谷PARCOに初めてお店をオープンさせたときに、知り合いではなく一般のお客さんと触れ合えたのが大きかったように思います。純粋に自分の服に価値を見出してお金を出してくれる人と話すうちに、自分の服が実際に誰かの生活の中に息づいているんだと実感できるようになりました。その頃からデザインを通じて「自分らしさ」を保つ手助けがしたいという気持ちが強くなりました。
━━自身の経験を振り返って、起業にはどのような人が向いていると思いますか
良く言えばフットワークの軽さ、悪く言えば軽々しさのようなものは経験上とても重要だったと思います。あまり考えすぎて動けなくなるよりとりあえずやってみよう、という気の持ちようです。計画を立ててみても、最後はやってみないと分からないことってやはり多いので。失敗してもめげないでそこから学ぶことは何かを考え、吸収しようという姿勢が重要だと思います。
━━話の中で何度もご縁や人とのつながりについて言及していました。これはどのようにして得たのでしょうか
フットワークはすごく軽いと思います。人に興味があってすぐ会いに行くので。助けてもらおうと思って動いたわけではないですが、会いにいったことが結果的につながりを作ったとはいえるかもしれません。
━━東大までの、あるいは東大での学びが起業をする上で生きた経験はありますか
受験勉強で「自分がやりたいことのために何をすればいいか」といった思考や自律心が育まれたほか「あのときこんなに頑張れたんだから今回も頑張れる」という自信が生まれました。また、大学で出会った友人たちの活躍を見て、良い意味でリミッターが外れたんです。同じ空間で学んでいた近しい人が何か成し遂げているのを見て、やりたいことを形にするのはとてつもなく難しいことではないんだ、誰かができているんだから自分もやってみよう、という発想になった気がします。やっぱりなんだか軽々しいかもしれません。
━━起業して一番良かったことは何ですか
全部良かったと思います。天職です。嫌なことがあっても自分がやりたいことだからと納得できて乗り越えられます。事務仕事とデザインをどちらもやることで心のバランスもうまくとれています。
━━好きなことを仕事にしたくても決断できない人にメッセージをお願いします
あまり考えすぎないで、まずはできることからやってみたらどうでしょう。やりたいことが見つかっていないという人も、時間が一番ある時期ですから、幅広く何かを見に行ったりたくさん人に会いに行ったりすることをおすすめします。私の場合はよく海外旅行をしていました。イギリス、フランス、インド、マレーシア、ハワイに行きましたね。もっとおおらかな世界があると肌で感じたことは「とりあえずやってみる」という考え方にもつながっているような気がします。起業は「失敗するのが怖い」と思うかもしれませんが、人生は一回きり。やらないで後悔するよりやって後悔した方がいいはずです。「好き」を仕事にするのに一番必要なのは、やりたいという強い思いです。ぜひ積極的にチャレンジしてみてください。
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