文化

2024年11月22日

【地域の顔】 「攻め」の弥生美術館×「安定」の竹久夢二美術館 「出版文化」と「思い」を伝える

 

 本郷キャンパス弥生門から徒歩1分。レンガ作りの建物が見えてくる。今年開館40周年を迎える弥生美術館。そして、今年生誕140周年を迎える竹久夢二をテーマとする竹久夢二美術館と夢二カフェ「港(みなと)や」。弥生美術館学芸員の内田静枝さん、竹久夢二美術館学芸員の石川桂子さん、そして両館を運営する鹿野出版美術財団代表理事兼「港や」の店長を務める服部聖子さんに、歴史や見どころを聞いた。(取材・本田舞花)

 

弥生美術館40年の歩みとは

内田静枝(うちだ・しずえ)さん(弥生美術館学芸員)

 

鹿野琢見と高畠華宵36年越しの運命の出会い

 1984年6月1日。弁護士・鹿野琢見(たくみ)は弥生美術館を創設した。鹿野の敬愛する挿絵画家・高畠華宵(かしょう)のコレクションが多く展示されている。

 

  鹿野と華宵の出会いは、1965年に遡(さかのぼ)る。宮城県の農家に生まれた鹿野は、陸軍士官学校に入学した。戦後には東北大学の法学部に入学し、苦学して弁護士になった。65 年の春、偶然手に取った『文藝(ぶんげい)朝日』で、幼少期の憧れの挿絵画家・高畠華宵が老人施設の明石愛老園で筆を執っていることを知る。すぐさまファンレターを送ったところ華宵から返事が届き、2人は文通を始めることとなる。

 

華宵の間における華宵(左)と鹿野(右)(画像は弥生美術館提供)
華宵の間における華宵(左)と鹿野(右)(画像は弥生美術館提供)

 

 鹿野の少年時代、すなわち昭和前期は、マスメディアにおいて雑誌が大きく発展した時代だ。「1冊の雑誌が人々に与える喜びや潤いは、今では想像できないほど大 きなもの」と内田さんは語る。大正・昭和時代はブルジョア階級の子弟が中学校や女学校に進学するようになり、「少年・少女」という子どもが大人になる前の猶予期間が生まれた。青春を謳歌する少年・少女の最たる楽しみが、少年・少女向けの雑誌であった。挿絵画家・弥生美術館に高畠華宵は、少年向け雑誌・少女向け雑誌に掲載されたモダンでロマンチックな画風の挿絵で一世を風靡(ふうび)した。鎌倉に「挿絵御殿」と言われる豪華な邸宅を建て、華宵本人も読者の憧れを掻き立てた。

 

 華宵の特異性は、少年雑誌でも少女雑誌でも活躍したことだと内田さんは語る。「華宵の絵は『少年の中に少女が、少女の中に少年がいる 』と称されたように、画風の特徴として、男子の顔も女子の顔も同じ顔つきだということが挙げられます」。当時の学校は男女別学であったため、異性愛に向かう前の段階として、素敵な同性に憧れを抱く文化があったという。特に女子同士の関係は「sister」の頭文字から「エス」 と言われていた。華宵の絵の中性的な魅力は、多感なティーンエイジャーにグサリと刺さったのだろう。「華宵の絵は単に『美しい』『かっこいい』というだけではなく、さらに先の気持ちを喚起させますね。妖しい性的な魅力が、若い世代の心に大きな影響を与えたのでしょう」。鹿野も、華宵の絵に心をつかまれた少年の1 人であった。29年に『日本少年』に掲載された華宵の巻頭イラスト「さらば故郷!」に心を奪われた少年は、36 年の時を超え、憧れの華宵に出会ったのだ。

 

「さらば故郷!」『日本少年』昭和4年3月号口絵(画像は弥生美術館提供)
「さらば故郷!」『日本少年』昭和4年3月号口絵(画像は弥生美術館提供)

 

 戦争を経て日本の出版文化は衰退から復活したが、戦後には華宵は「過去の人」となっていた。しかし鹿野は少年時代の憧れを忘れることはなかった。65 年5月には自宅に「華宵の間」を作り、華宵をもてなした。10月には全国の華宵ファンに呼びかけ、「華宵会」を発足。 66年1月に上野松坂屋にて「華宵名作回顧展」を開催。 出会ってからわずか1年で、展覧会の開催まで実行した鹿野の行動力には驚かされる。しかし、回顧展開催の前日、華宵は心筋梗塞により入院。7月に逝去する。

 

昭和41年1月、華宵名作回顧展。上野松坂屋にて(画像は弥生美術館提供)
昭和41年1月、華宵名作回顧展。上野松坂屋にて(画像は弥生美術館提供)

 

 鹿野は華宵の作品と著作権を譲り受け、華宵の作品を継承する活動に邁進(まいしん)する。華宵の死から18 年の時を経て、自宅に「弥生美術館」を創設。 オープニングパーティーには主賓として田中角栄が訪れたという。「少年時代に華宵の絵に憧れていた方は全国にたくさんいました。鹿野が継承した華宵の思いは全国のファンに響いたのです」

 

出版美術文化を継承する美術館

 弥生美術館は華宵の作品を主なコレクションとしているが、「高畠華宵美術館」ではない。「華宵という素敵な画家が生まれたのは、同時代やそれ以前から素敵な画家が活動していたからです。鹿野は華宵だけではなく、日本の出版美術文化を継承する美術館として建てました」。扱うテーマを広げたことは、弥生美術館が40年続いてきた理由の一つだという。

 

 世間が価値を見出す前にいち早く集めれば、質の高いものを収集することができる。鹿野は出版美術文化を伝える美術館創設に向け、真っ先に雑誌のコレクションを行った。二束三文で売られていた古雑誌を買い集めた。さらには、挿絵画家の遺族たちも「再び光を当ててくれることがうれしい」と賛同し、惜しみなく協力や寄贈を行ってくれたという。また、かつて少年・少女向けの雑誌に熱中したファンからも、雑誌の表紙や口絵のスクラップブックが寄贈された。自分にとっては大事な思い出だが、子供や孫の世代にとっては不用品になってしまうかもしれない。そ れならば、どうぞお役に立ててください。思いが詰まったコレクションは、美術館で出版文化を伝える貴重な作品として保存されている。「私がよく聞くのは、戦時中に防空壕に持ち込んだり、疎開の際に燃えないように土の中に埋めたりした、というお話です。今はたくさん娯楽がありますが、当時の子供達にとってはそれだけ大事なものだったんでしょうね」

 

「攻め」の弥生と「安定」の夢二

 弥生美術館の創設後、華宵を中心とする挿絵文化に影響を与えた人物として、竹久夢二の美術館も開館することになった。男女関係でドラマチックな生き方をしていたり、先駆的なデザインで優れた作品を残したりと、生き様も魅力だという。「夢二は人生も作品もさまざまな 切り口から焦点を当てられるため、夢二個人で多くの展覧会を行うことができます。それに対して、弥生美術館ではさまざまなアーティストを扱うようにしています」。 さまざまなテーマを扱う弥生美術館。毎回夢二をテーマとした展覧会を行う竹久夢二美術館。「攻め」の弥生美術館と「安定」の竹久夢二美術館の両輪で続けてきたからこそ、経営が成り立っているという。

 

 「私たちのポリシーは、他ではまだやっていないこと、価値を見出されていないことをいち早く見つけ出し、世に送り出していくことです。」と内田さんは語る。内藤ルネ (中原淳一に師事。少女雑誌のイラストをてがけ「Kawaii」文化の先駆けとなる)や田村セツコ (少女向け漫画雑誌や名作物語の挿絵を手がける)は弥生美術館での展覧会が大きな反響を呼び、人気向上につな がったという。

 

 弥生美術館には現在4人の学芸員がいる。高畠華宵に軸足を置きつつも、華宵の同時代の画家、華宵に影響を受けた画家、とそれぞれの興味に合った視点から深掘りしているという。!劇画から少女漫画まで、イラストから服飾まで、と幅広いテーマの展覧会を行なっている。2017年には、「命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~ 」展を開催。大正時代の命懸けの恋愛の経緯を新聞記事や写真から紹介し、イラストレーター・マツオヒロミが描くイメージ画とのコラボレーションを実現した。特定のイラストレーターの作品だけではなく、テーマに合わせて展示物や作品を集めていくことに学芸員の仕事の面白さがあるという。 弥生美術館は、個人の小さな力が積み重なってできた美術館だ。!開館当初は、大正・昭和の挿絵文化なんてジャンルでは美術館は成り立たない、と思われていた。しかし今では、挿絵は文学館でも展示されている。「かつては美術館で扱うものではないとみなされていたものも、 現在は文化として認められてきました。そこに至るまでの 40年間を、弥生美術館が支え、なんとか継承してき たのであったら、すごくうれしいなと思っています」

 

「命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~ 」チラシ(画像は弥生美術館提供)
「命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿~ 」チラシ(画像は弥生美術館提供)

 

 

 

竹久夢二美術館 夢二の「思い」を感じて

石川桂子(いしかわ・けいこ)さん(竹久夢二美術館学芸員)

 

夢二の偉業をひろく世に伝えるために

 弥生美術館の創設者・鹿野琢見は、1990年に竹久夢二美術館を創設した。元々弥生美術館で夢二作品のコレクションを公開してきたが、「夢二の偉業をできるだけ深く究明し、永くたたえ、ひろく世に知って頂く」という志を抱き、 新たに美術館を開館した。

 

 竹久夢二美術館は館の夢二コレクションを軸に、さまざまな切り口で企画展を行っている。2人の学芸員で過去の展示とのバランスを考慮しながら、芸術、旅、恋愛、など夢二の人生を切り取る。企画展の軸に沿った作品展示に加え、 来館者が期待する夢二の美人画も必ず展示に組み込んでいるという。「お客様にとってはたった一度の来館かもしれない。このことを忘れずに、マニアックなテーマの展示の際にも関連コー ナーを必ず設け、いわゆる夢二的なイメージの強い美人画をご覧いただけるようにしています」

 

『水竹居』(竹久夢二の美人画)(画像は竹久夢二美術館提供)
『水竹居』(竹久夢二の美人画)(画像は竹久夢二美術館提供)

 

 昨夏は、関東大震災から100年という節目に「夢二が見つめた1920年代―震災からモダンガールの表現まで― 」という企画展を行った。関東大震災で被災した夢二は、当時渋谷に住んでいたが、震災の翌日から被害の大きな下町を歩き、変わり果てた街をスケッチしたという。「都新聞」(「東京新聞」の前身)でルポルタージュ「東京災難画信」を連載する など、夢二の目線から震災の記憶を残した。「大正時代の事件や災害、風俗と夢二を絡めた展示は、マスコミからの注目度も高まります」と石川さんは語る。昨春行った企画展「竹久夢二 描き文字のデザイン―大正ロマンのハンドレタリング―」は来館者による SNS への写真投稿が多く、反響が大きかったという。フォントはゴシックや明朝が基本だった時代に、夢二は個性的な文字をデザインし楽譜や本の表紙のタイトルに生 かした。夢二は美人画のイメージが強いが、デザインにおいても大きな影響を与えた。「当館の学芸員は、夢二の仕事や業績を紹介していくことが使命だと思っています」

 

自警団遊び(「東京災難画信」より)(画像は竹久夢二美術館提供)
自警団遊び(「東京災難画信」より)(画像は竹久夢二美術館提供)

 

「夢二が見つめた1920年代―震災からモダンガールの表現まで― 」チラシ(画像は竹久夢二美術館提供)
「夢二が見つめた1920年代―震災からモダンガールの表現まで― 」チラシ(画像は竹久夢二美術館提供)

 

「竹久夢二 描き文字のデザイン―大正ロマンのハンドレタリング―」
「竹久夢二 描き文字のデザイン―大正ロマンのハンドレタリング―」チラシ(画像は竹久夢二美術館提供)

 

才気に溢れた恋多き画家・竹久夢二

 石川さんは、夢二の魅力を「画風の幅広さ」と「恋多き波乱の人生」 と語る。 夢二は美術学校の出身ではなく、独学で絵を学んでいた。旅に出て各地をスケッチし、外国の画集をスクラップして作画のヒントを得た という。妻・他万喜(たまき)をモデルに、黒目がちで白い肌にうりざね顔を特徴とする「夢二式美人」を誕生させ、人気を博した。夢二は美人画のみならず、デザインや出版においても流行の最先端となった。夢二が活躍した時代の雑誌はテキストが中心であり、ファッション雑誌はほぼ見られなかった。若い女性は夢二の描く女性のファッションに魅了され、百貨店に夢二の絵のデザインの着物と注文する女性もいたという。夢二の「かわいい」をコンセプトに動植物をモチーフとしたデザインや、漫画の前身とも言えるような少女のイラストレーションは、多くの女性の共感を呼んだ。「ノスタルジックな雰囲気や、アールヌーヴォー調の美術様式により、ロマンチックな雰囲気が随所に感じられます」。さらに夢二は「港屋絵草紙店」という自身のファンシーショップを開店。夢二がデザインした便箋や千代紙といった紙製品、手拭いや着物の半衿(着物の下に着る「長襦袢」につける襟)などの和装の小物を販売した。「デザインやイラストレーションにも才能を発揮できたのは、夢二が美術学校の出身ではなく、画壇にも属していなかったからではないでしょうか。自由に活動できたことが、夢二の幅広い活躍につながったのだと思います」と石川さんは語る。

 

 夢二の恋人は、妻・岸他万喜、最愛の女性・笠井彦乃、 若きモデル・お葉の3人がよく知られている。2歳年上の他万喜は、夢二との間に3男児を設ける。しかし、気性の激しい他万喜と恋多き夢二はけんかが絶えず、同居と別居をくりかえす。夢二が彦乃と愛し合い始めたことで、2人の関係は修復不可能となる。夢二は彦乃と京都で同棲を始めるが、まもなく彦乃は結核に倒れ、短い生涯を終える。夢二は悲嘆に暮れるが、モデル・お葉との出会いにより再び創作意欲を取り戻していく。3人の女性との波乱に満ちた恋は、夢二の美人画の確立や画風に大きな影響を与えた。

 

竹久夢二の恋人たち。左から、岸他万喜、笠井彦乃、 お葉(画像は竹久夢二美術館提供)

 

 その恋多き人生から、夢二は華やかな人物という印象を持つ人が多いだろう。しかし、最初に発行した画集『夢二画集 春の巻』では、旅人の後ろ姿や川で洗濯する女性なども描かれ、日常の一場面を捉えたイラストも多い。 石川さんは、「夢二の作品には技術や表面的な華やかさだけではなく、人の心を打つ『趣』がある」という。単なる絵のうまさではなく、夢二はその一歩先を目指していた。色に、線に、言葉に、自分の心のうちを表現しようとした。「『涙で絵の具をとけ。そうすることによって はじめて技巧も生きるのだ』という言葉を残して制作に 力を注いだ夢二の思いを感じてみてほしいです」

 

『夢二画集 春の巻』より(画像は竹久夢二美術館提供)
『夢二画集 春の巻』より(画像は竹久夢二美術館提供)

 

 

夢二カフェ 港や コラボメニューで世界観を楽しんで

服部聖子(はっとり・せいこ)さん(鹿野出版美術財団代表理事・「港や」店長)

 

 店名の「港や」は、竹久夢二が東京・日本橋に開店し た小間物店「港屋絵草紙店」が由来。「夢二ブレンド」「夢 のあと」など夢二をモチーフとしたドリンクメニューを 提供している。「夢のあと」は夢二のカット絵が描かれ たカプチーノ。何の絵柄が出てくるかは、注文してからのお楽しみ。看板メニューは、「野菜の甘みぎっしりカ レー」。オリジナルのチキンカレーに季節の焼き野菜を トッピングした人気メニューだ。

 

 カフェは美術館開館当初からあり、コーヒーと軽食を提供していた。11年から服部さんが継ぎ、カレーと展覧会のコラボメニューの提供に力を入れている。現在は 「上條淳士展 LIVE」(弥生美術館)のロゴ入りカプチーノと「竹久夢二美術館と読売新聞」(竹久夢二美術館))の「黒猫の休日」を提供している。「黒猫の休日」は、 夢二が好んだガルバルディ(干しブドウなどを加えたビスケット)を基に作ったオリジナルケーキ。夢二が描いた黒猫をイメージしたチョコ羊羹がケーキを彩る。「美しくて、見た目が良くて、味も良い、を目指しています」と服部さんは語る。

 

 コースターや内装にも夢二の世界観が込められている。ミュージアムショップでも販売している夢二柄の小 風呂敷を利用して、服部さん自らコースターを手作りし ているという。壁には、夢二柄の壁紙が飾られている。 受験当日には受験生を迎えにきた家族が、卒業式の日 には袴姿の学生が訪れることも。一方で、平日には昼食にカレーを食べる教員や学生の姿も見られるという。東大に、弥生に寄り添う港や。美術館を訪れた時には、展覧会にまつわるメニューを楽しみ、「夢のあと」の世界観に浸ってみては。

 

 

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