「人に迷惑をかけてはいけません」。「茶道は日本の文化です」。我々は日常生活の中で何気なくこのようなフレーズを口にする。だが、現代人になじみ深い言葉の用法は、明治以降政治的な意図によって形作られたものも多い。「迷惑」と「文化」という二つの言葉が持つ意味の変化と関連するさまざまな政治的要因について、近代日本を研究対象とする民俗学者の岩本通弥教授(総合文化研究科)に話を聞いた。
(取材・円光門)
私的な迷惑から公的な迷惑へ
「迷惑」の由来は「道理に迷うこと」という仏典や外典(儒教・道教以外の教えを説く書物)の用語で万葉集や平家物語でも「戸惑う」「どうしてよいか分からない」という意味で使われていた。加えて室町時代には「苦悩する」「被害を受ける」など多くの意味を背負うようになる。現在でも多少意味の振れ幅はあるが、「迷惑」が主に公衆マナーを示す際に使われるようになったのは、いつからなのか。岩本教授いわく、決定的なのは日本が近代化を迎えた明治末年以降だ。
戦前の道徳教育の科目である修身の教科書を見ていこう。1892年には「黒犬の迷わく」という小説が登場するが(図1)、悪友の行動が原因で黒という犬が殺されたという内容から分かる通り、ここで「迷惑」は単に「被害を受けること」という意味で使われている。1904年になると、道路で遊んだり塀や垣にいたずらをすることは「世間の人の迷惑となる」と記述されており(図2)、かなり現代的な用法に近づく。しかしここでいう「世間」とは、近所の顔見知りなどといった「社会」より狭い集団を指すので、公共空間での振る舞いとして「迷惑」は使われているわけではない。
それに対して11年に文部省(当時)が制定した「作法教授要項」には「街路の人に危険及迷惑を及さざるやうに十分注意を拂ふべし」といった「公共空間」への言及(図3)、13年には「訪問ハ急用ノ外成ルヘク早朝・夜分・食事ノ時其ノ他先方ノ迷惑トナルヘキ時ヲ避クヘシ」といった「公共時間」への言及(図4)が出現し、「迷惑」は公共の時空間における振る舞いのキーワードに。20年に文部省内で生活改善同盟会が設立されたことを機に、「迷惑」は公衆マナーを示す文言に頻出するようになる。
背景には、日本の産業構造の大きな変革とそれに伴う政治的な動きが見られると岩本教授は言う。第1次世界大戦後、大都市には従来の雇用形態とは質の異なる月給取りが大勢集まるようになった。その結果東京におけるサラリーマンの割合は、08年には5.6%だったのに対し、20年には21.4%に増加。それまで各村落の「風俗」を把握することで民衆を統治していた政府にも、新たな方法が求められるようになる。その結果生まれたのがlifeを邦訳した「生活」という新たな概念で、政府はサラリーマン家庭の家計などを計量的に調査することで「生活」の質を把握し、統制しようとしたのだ。統計調査に基づいた研究をもっぱら行う東京帝国大学経済学部(1919)の誕生などもその表れであるが、「生活改善運動」も同様の文脈から生まれる。こうして、通勤電車などで騒がないことや時間を厳守することなど、「公共空間」において他人に「迷惑」を掛けてはならないことが強調されるようになった。
このように、元来多義的であった「迷惑」が現在使われているような意味に絞られていったことには、戦間期という激動の時代に社会を対応させんとする政治的意図が多分に含まれていた。似たような語義の変化は「文化」にも見られる。
発展の文化から固有の文化へ
中国渡来の「文化」という語は元々「文によって化する」という武力によらない教化を意味し「文明開化」とほぼ同義だった。大正期になるとドイツから現在の人文科学に当たる「文化科学」という概念が日本に紹介され、芸術など人間の高度な精神的産物を指すKulturが「文化」と訳されるようになる。
そこから派生して、「文化住宅」「文化鍋」といった接頭語としての「文化」が「ハイカラな」「西洋風の」という意味を持った。加えて歴史学などの学問分野では「人間の精神的産物」という定義が拡大され、やがて「文化」は「弥生文化」「東北文化」というように、ある時代や地方という境界線の中で人間が生み出した共通項を表す概念として接尾語的に使われるように。こうして「文化」は多義的な言葉となっていく。
現代では「日本文化」のように接尾語的な用法が主だが、これはいつごろから定着したものなのか。国会図書館デジタルコレクションで「日本文化」と検索すると、書物のタイトルとして登場するのは20年代が初めてで、30年代には数が倍増している。また書物の中のキーワードとして登場することも10年代まではまれだったが、30年代から爆発的に増えている。一体、30年代に何があったのか。
岩本教授によると「文化」の接尾語的用法を決定づけたもののうち一つが、37年に文部省が編さんした『国体の本義』だ。本書では、日本文化は古来より中国文化やインド文化などの外来文化を吸収し混交、止揚(異なるもの同士の衝突や矛盾を通じてそれらを高めること)していく文化であり、日本は他の文化を統合、指導する立場にあるのだと唱えられる。この文化論の背景には、京都学派の哲学者三木清が日中戦争を契機にして掲げた「東亜協同体論」が見られる。
日本はそれまで琉球やアイヌ、台湾、朝鮮を、古い意味での「文化」、すなわち文明開化させる対象として同化させ、植民地化していったが、その時相対していた中国は強大で高度な文明を有するため、従来の手段では通用しないと三木は考えた。そこで三木は「文化」を各地域に固有の、ある種の本質を表す言葉として使い、日本と中国という互いの民族文化の違いを認めながら、それをさらに融合、指導できるとする新たな日本文化の建設をうたう議論に共振していった。
さらに41年になると、この考えにのっとる形で大政翼賛会が「地方文化運動」を始め、日本には東北文化や九州文化といった地方文化がまず存在し、それらを統合する形で日本文化があるのだとした。このようにして「文化」という言葉の多義性も「迷惑」と同様、政治的な意図により狭められていき、現在の用法へと至ったのだ。
◇
日常的に使われる言葉の歴史性に目を向けることには、どのような意義があるのか。「歴史を『国や政府の歴史』として他人事と捉えるのではなく、今ここにいる自分たちに引き付けて考えることが民俗学の基本です」と岩本教授は語る。我々が何気なく使っている言葉の多くにも、歴史的、政治的な意味の重層性がある。あなたも「迷惑」や「文化」といった言葉を今後口にする時、いったん立ち止まり、それについて考えを巡らせてみてはどうか。
「文化」の用法の変化は修身書にも反映されている。図5では「文化」が中国的な「文明開化」とドイツ的な「高度な人間精神(ここでは理性)の産物」という意味で使われているのに対し、図6では「文化」は接尾語的に用いられ、三木ら京都学派の文化論の影響が色濃く見られる。(図5、 6の出典は国会図書館デジタルコレクション)
この記事は、2019年2月12日に掲載した記事を加筆修正したものです。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。
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