PROFESSOR

2024年12月20日

ウェルビーイングの実現のために 政治参画と学校教育でのトレーニングを 村上祐介教授インタビュー

  

 

 ウェルビーイングは、ヘルスケアによって実現されることが期待される一つの目標だが、教育はウェルビーイングを実現する上で非常に重要な機能を果たしている。ではどのように教育によるウェルビーイングが実現されているのか。政治と教育の関係を研究している村上祐介教授(東大大学院教育学研究科)に話を聞いた。 (取材・峯﨑皓大)

 

手段としての教育、目的としての教育

 

──教育によって実現されるウェルビーイングとはどのようなものがあるのでしょうか

 主に二つあると思います。まず一つ目は俗物的なものです。良い教育を受けることにより、良い仕事、収入、そしてそれを元に物質的に豊かで健全な生活を送ることができるようになります。二つ目は学びの意義や楽しみを享受できるということです。前者は教育を手段として、後者は教育そのものを目的として捉えた見方です。教育によって実現されるウェルビーイングもある一方で、教育を受けることそのものがウェルビーイングの実現であるということも言えます。

 

──教育の主体は学校や地域社会、家庭と多岐にわたります。とりわけ学校によって行われる教育の特徴は何でしょうか

 学校において行われる教育は、他の教育主体によって行われる教育に比べても意図的、制度的、計画的な教育だと言えると思います。それは指針として教えるべき内容が決まっていることが多いためです。学習指導要領(文部科学省(文科省)によって定められる、全国の教育水準を一定に保つための教育課程の基準)に基づいて体系的な学びが施されています。学習塾でも同様に体系的な学びが施されますが、学習塾との違いは、学校には生活集団としての学びを与える機能が備わっているという点です。一方で、地域社会や家庭にも生活集団としての学びを与える機能があります。しかし地域社会や家庭との違いは、学校はユニバーサルに大多数の人に教育を行うという部分です。

 

 昔と比べると地域社会による教育というものが先細りになってきており、地域社会が生活集団としての学びを与える機能を果たせなくなってきています。その結果として、例えば過去には子どもが学校外で何か悪いことを行った時に地域社会の一員である近所の住民が指導をするということがありましたが、現在では何か子どもが悪いことをすると苦情が学校に行くというようになっています。そのため学校の機能がかつて以上に、また必要以上に肥大化していることを問題視する声もあります。

 

──数ある教育主体の中で最も行政の施策が反映されやすいのが学校における教育だと考えます。実際にはどのように行政の施策が教育現場に反映されてきたのでしょうか

 行政の施策が直接的に反映される部分と反映されにくい部分があります。例えば教育基本法というのがありますが、これは理念法にすぎないので現場にはあまり関係ないという見方があります。しかし、教育基本法の改正に伴って指導要領や学校教育法が改正された場合は、実際に現場にその変更が反映されます。一つの例として挙げられるのが道徳の教科化です。道徳が軽視されている現状を危惧した内閣直属の有識者会議の声を受けて、政治主導で道徳の教科化が行われました。これは行政の施策が直接的に現場に反映された例です。一方で反映されにくい部分は、教員という職業の特性によってもたらされていることが多いです。教員や警察官といった、市民と直接対峙(たいじ)する公務員にはその時々の状況に応じた裁量があります。それは市民と対峙するときにその時々の判断を上司に仰ぐことなく自ら行うからです。実際に教育現場で教育を行うときに教員の上司である校長は同席しませんし、警察官が見回りをするときに課長などの上司が同席することはまれです。それゆえに教育現場で教育を行う教員はその場の状況に応じてある程度「即興」で教育を行う必要があります。その即興、裁量性があるために行政の施策をそのまま杓子(しゃくし)定規に当てはめて現場に反映させることは適切ではありません。そのため、直接的に行政の施策が教育現場に反映されないことがあります。

 

(表)学習指導要領の方針と特徴(文科省の資料を基に東京大学新聞社が作成)

 

──文科省によって決められたことが各自治体の教育委員会に通達される場合に、その内容は裁量性を考慮して解釈しやすいように幅を持ったものになっているのでしょうか

 内容によりますが、現場で教員が裁量を持って判断できるように現場で柔軟に読み替えられるものになっているものもあります。例えばICT教育の普及の際に使うタブレット端末の選定や学校の施設設備の充実などについては、各自治体や学校がある程度裁量を持って決めることができるように幅を持たせた通達になっています。一方で、教員の働き方改革などの問題については教育公務員特例法(教員の法的な地位が定められた法律)が関わってきます。国の法律レベルのものが関わってくるものになると現場の裁量権は狭まり、幅を持ったものではなくなります。

 

──学習指導要領はどのように決められるのでしょうか

 学習指導要領はおおむね10年に1回見直しが行われることが慣例となっています。教育基本法や学校教育法などの国レベルの法律に影響されて変更をする、というような大きな方針変更については国が関与しますが、10年おきの見直しは主に文科省の手によって行われています。しかしながら、近年の傾向として社会の変化が過去に比べて著しく早く、スパンが短くなっているということが言えると思います。また2009年、12年には政権交代が行われたこともあり、政権交代によって例えば教科書検定の基準の変更などの大きな変化がもたらされたことも事実です。

 

政治について学校で積極的に議論を

 

──政治は人々のウェルビーイングを実現する上で不可欠な存在です。政治と教育はどのような距離を保つことが適切なのでしょうか

 政治と教育の距離について「このくらい」と端的に言い表すことは難しいです。バランスの問題だと思います。教育はある程度現場の工夫や裁量に任せるべきではありますが、それを全て現場の教員に任せてしまうことは民主主義国家として適切ではありません。国民の意思で選ばれ構成された「政治」によって教育が適切に行われているかのチェックがなされることも必要です。

 

──ここでいう「政治」とは一体誰を指すのでしょうか

 「政治」とは誰か、という質問は「教育に関する決定を下すのは誰か」という質問だと思います。日本において、国レベルでは文科大臣、自治体レベルでは教育委員会が決めるということになっています。自治体レベルにおいては市町村長や知事が全て一人で決めるということには危険性が伴うため、教育委員会を設置して合議体で決めることになっています。国レベルではさまざまな有識者会議が存在する一方で、国レベルの教育委員会のようなものは存在しないので、個人的には設置するべきだと考えます。

 

──教育が政治に与える影響はどのようなものなのでしょうか  

 トータルとして教育が政治に与える影響は分かっていません。実際に教育学や政治学の研究の分野では各論として、「主権者教育がどのように投票率に影響を与えるか」などのことが研究されています。例えば日本人は政治的有効性(自らの政治的行動が政治に対して影響を与えられる、もしくは与えているという感覚)や政治的関心が国際的に比較して異常に低いです。そこに教育の影響が果たしてあるのでしょうか。その要因として一つ考えられるのは、日本の教育現場においては極めて消極的な「政治的中立性」が重視されているということがあります。政治的中立性というのは教育において極めて重要なことですが、その実践の方法には二つの方法があります。一つ目には政治的なさまざまな意見を教員が挙げて、さまざまな見方を教える積極的な政治的中立性があります。二つ目にはとにかく、何か政治的な「意見」、それが教員自身の意見であろうとなかろうと、それについては話してはいけないという消極的な政治的中立性があります。日本の教育現場において実践されているのは後者です。実際に私が教職大学院で教員が参加するゼミを持っていたときに、ゼミの内容が政治的内容を帯びてしまうものになると、自由に意見を発することができるゼミであっても教員が口を閉じてしまうということがありました。教員は中立性が求められる存在でありながら、1人の市民でもあります。日本の教育現場のように「脱政治化した教育」が政治的無関心を招き、最終的には政治参画を遠ざけウェルビーイングにネガティヴな影響をもたらす可能性はあると思います。

 

──例えば先日の東大では学費値上げ反対運動が起こっており、それを見ていた1人の東大生として感じたものとしては「多くの人は無関心」だということでした

 確かに東大生は日本全体の平均的な家庭に比べて裕福であるという統計があります。また、現在在籍している学生の学費が変動するものではないので「自分には関係ない」と感じている学生もいるでしょう。一方で東大生の中に年収400万円〜600万円世帯が無視できない数いるのも事実です。また東大の学部を卒業後、(数年後に)東大の大学院に進学する学生にとっては影響があります。しかしながら「多くの人が無関心」ということを感じた背景には政治的有効性の低さというのがあるかもしれません。学生たちの間には「何かやっても変わらない」という気持ちが大きかったのではないでしょうか。また、「何かやっても変わらない」という気持ちの深層には「諦め」があるのかもしれません。実際に何かの運動をすることはエネルギーを必要とします。その意味でも教育において何かの意見を持つ重要性や教育現場において学生自身が何らかの意見を持って議論することが重要なのではないでしょうか。

 

──日本において主権者教育はどのように行われているのでしょうか

 日本においては選挙についての知識を教える、模擬投票を行うといった表面的なものは主権者教育として行われていますが、一方で実質的に重要なものは行われていないと感じます。それは先ほども述べた通り、教員自身が政治的な議論を避けており、それによって学生が真に考えることを抑えつけられているという現状に起因していると考えます。実質的な議論を行わず表面的な手続論に終始するために教育の場において生の議論が行われません。その意味で日本における主権者教育は肝心な部分がなされていないと感じます。端的な言い方をしてしまえば、教育は政治に関する何らかのトレーニングを施さずに、そのまま学生を社会に放り出しています。その中で、では実際に「本番」として選挙があるので投票してください、投票率を上げてください、と言われたところでそれはうまくいきません。そして国民の政治参画の意欲や政治への関心の低下を招き、国民が政治に参画することが難しくなり、最終的にはウェルビーイングにネガティヴな影響をもたらすと考えます。

 

村上祐介教授(東京大学大学院教育学研究科) むらかみ・ゆうすけ/04年東大大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。米カリフォルニア大学バークレー校客員研究員などを経て23年より現職。著書に『教育行政の政治学—教育委員会制度の改革と実態に関する実証的研究—』(木鐸社)などがある。

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