「科学の面白さを多くの人に知ってもらいたい」という思いを原点に、サイエンスコミュニケーションの研究をする内田麻理香特任准教授(東大教養学部附属教養教育高度化機構科学技術コミュニケーション部門)。結婚と子育てのため、一度博士課程を中退したが再び大学院で学び直し博士号を取得。主婦時代の経験が基となり、研究の傍ら、ウェブサイト「カソウケン」の執筆や多数の著作などを出版するサイエンスライターとしても活躍する原動力や、科学の魅力を聞いた。(取材・峯﨑皓大)
「駒場らしさ」と無限の可能性
──東大を受験したきっかけは
中学2年生の頃にガンダムの映画を見に行き、映画の中でスペースコロニーの場面が出てきました。それを見て感動してこういうものを作ろうと決め、そのためには国の大きな機関に入らないとだめだろうと漠然と思いました。国の大きな機関に入るには東大だろうと思って、東大を目指すことにしました。
──駒場時代はどのように過ごしましたか
勉強の思い出より友達と遊んだりサークル活動に明け暮れたりした思い出がたくさんあります。今、駒場Iキャンパスにある教養教育高度化機構に勤めていますが、駒場に来るたびにあの頃もっと勉強しておけば良かったなと後悔しています。駒場は教えている分野が多様で教員の数も多く、他の大学にはないような授業がたくさんあります。いろんなものを吸収しようと貪欲に勉強していれば良かったです。
──工学部応用化学科に進学された理由は何ですか
幼稚園生の頃、『学研の科学』(Gakken)シリーズを読み、それを基に自分で実験をやってみるのが好きで理科への興味は子供時代からありました。高校時代の化学の先生の授業が、教科書を使わずに先生オリジナルの教材を基に毎授業実験をするというスタイルで、化学への興味が一段と湧きました。ガンダムの映画を見て夢見た宇宙開発の仕事に化学の面から関わりたいと思い、応用化学科に進学しました。
──教員の立場から考える駒場キャンパスとは
駒場はとても雰囲気が良いなと感じます。「教養学部」という名の通り学問があれもこれもあります。専門分野の違う研究者たちと話していると、面白いことに同じものに対しても全く切り取る視点が違います。本郷にいた頃は周囲にいる人はほとんどが自分と同じ専門の人でしたが、駒場は同じ建物でも別の部屋に行けば全く違うことをしている、という環境です。全く違う学問があるということを常に意識しながら研究できる環境が「駒場らしさ」を形作っている一つだと思います。
──駒場祭での思い出は
所属していた二つのサークルの模擬店とクラス出店の思い出が混在していて記憶が曖昧なんですが、友達とたくさんの企画を回ったことが思い出です。
──駒場祭のテーマ「あそびがみ」(本の前後に入った何も印刷されていない紙。「なくても、いい」からこそ、代えることのできない魅力を持つという意味。)についてどのように思いますか
とても良いテーマだと思います。一見要らないようなものに見えても回り回って何かの役に立つかもしれないというものが個人的に好きです。あそびがみは存在すらも気付きにくいものですが、「どんな色にしよう」や「どんな紙質にしよう」と考える本の作り手もたくさんいて、彼らの思いがたくさん詰まったものです。自分にとって「あそびがみ」って何だろうと考えた時にすぐに思い浮かんだのは、本にサインをもらう時は大体あそびがみにもらうことが多い、ということです。あそびがみにサインをもらうと、その本はその人にとって本当に特別なものになりますよね。だからあそびがみは「そのものが唯一無二になる時に必要とする場」だと私は思います。
──役に立つか立たないかはその時にならないと分からないということは学問にもつながるように思います
マイケル・ファラデーが電磁誘導の法則を発見した時に、「これは何の役に立つのか」と問われました。それに対する彼の答えには二つの説があるそうです。一つ目は「今は何の役に立つか分かりませんが、電気に税金をかけることになるのは間違いない」で、二つ目は「生まれたばかりの赤ん坊が何かの役に立つとお思いですか?」です。ファラデーの言う通り、回り回って役に立つものもあります。よく言われる「役に立つ」ものは大抵用途が決まっているものですが、役に立たないと思われているものは役に立ち方が分からないもので無限の可能性があります。どう役に立つか分かるものだけに注目するのはもったいない気がします。
家事経験がきっかけとなり再び学問の世界に
──一度専業主婦になってから、再び学問の世界に戻るきっかけとなったのは何ですか
専業主婦をして家にいた時、科学の世界と縁が切れたと寂しさを感じていました。同時にその頃、家事で失敗をすることがよくありました。あんかけを作るときに片栗粉を使うべきところを間違って小麦粉を使ってしまい、全くとろみが付かなかったんです。何でだろうと思い調べてみると同じデンプンでも粘度が違ったり、糊化(こか)する温度が違うことが分かりました。この時、縁が切れたはずの科学が身の回りにあふれていることに気付きました。それがうれしくて、科学はこんなにも身の回りにあふれていて面白いでしょっていうことを伝えたくて、「カソウケン」というウェブサイトを始めました。今まで科学は苦手だったけどこんなに身近なものだったなんて面白い! と思ってくれるような人に私は読んでほしいと思っていたんですが、面白いと言ってくれる人は理系のバックグラウンドがある人ばかりでした。そこでサイエンスコミュニケーションの勉強を始め、勉強する中であれも知りたい、これも知りたいということがたくさん出てきたので本格的に研究をしようと思って、東大大学院情報学環学際情報学府の博士課程に進みました。
──学問の世界を一度離れてから学び直すのはハードルが高く、学び直したいと思っていても踏み出せない人も多いと思います
ずっと学問の世界にいたわけではなく一回学問の世界を離れたからこそ持っている感覚や知見も絶対にあるはずです。確かに今は学び直しをする人はいわゆる本流ではなく傍流かもしれませんが、一度社会に出て経験をし本流じゃないからこそ貢献できることが必ずあるはずです。私もそう思いながら研究をしています。
私の所属している教養学部附属教養教育高度化機構科学技術コミュニケーション部門にはサイエンスコミュニケーションを学びたいという学生たちが集うのですが、みんなそれぞれバックグラウンドが違います。物理や教育学、科学史など学んできたものが違いますが、違うからこそ多様な視点を得られて学生との学びや研究がとても楽しいです。社会人経験をした人がもっと増えれば多様性が増し、研究現場に異質な視点がたくさん入り、研究が活性化すると思います。こんな年になって大学に行くなんて、という社会じゃなくて学び直しを奨励するような社会になってほしいです。
──東大の本年度の入学者数に占める女子の割合は21.8%で過去最高となりましたが、一方で工学部では女子学生の割合は11.8%、理学部では12.6%と理系分野での女子生徒の割合の低さが目立ちます
自分の時代も少なかったですがこんなにも増えるのが遅いものか、という印象です。理系科目については向き不向きが男女間で有意な差は見られないという研究がたくさんあるため、これほど女子の割合が低いのは社会に問題があるのだろうと思います。私は学生の頃、自分は数が少ないが故に目立つし顔や名前を覚えてもらえるので、マイノリティの理系の女子学生であることは有利なことだと考えていました。これは差別の裏返しで普通に扱ってもらえないということですが、当時は気付かなかったし、今となっては、居心地の悪いマイノリティとして居心地の良い場所にするために過剰適応した末の発想だろうと思います。マイノリティはマイノリティであるが故に不合理を受けているということを常に意識し続けるのは苦しいですから、無意識の中でそれを意識しないようにしてマジョリティに適応していこうとするのでしょう。マイノリティをマイノリティにさせなくすることが必要だと思います。
──マイノリティをマイノリティにさせなくするための方策として近年はクオータ制が話題です
私はクオータ制に賛成です。しかし、話を聞いてみると「私たちは東大合格を能力で勝ち取ったのに、下駄を履かされて東大に入学できた人と同じにされるのは困る」と答える現場の女子学生は多くいます。数年前の東大の入学式の祝辞で上野千鶴子さんが「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください」と言いましたが、私はまさにその通りだと思います。東大に入学できる人のほとんどが勉強をすることを阻害されない環境に身を置いてきた人ですが、それは決して当たり前のことじゃないんです。そのことにはまだ若い学生のうちだと気付かないことがあり、私も学生の頃は気付きませんでした。
──理系の学生にメッセージをお願いします
自分が理系であるということにとらわれすぎないようにしてください。自分が理系であることにとらわれて自分の可能性の幅を狭めていってほしくないです。「自分は理Iに合格した」「私は数学が得意だ」というような自分の達成できたことに誇りを持つだけでなく、一歩進んでだから私はあれもできる、これもできるという気持ちになっていろいろなことに挑戦していってほしいです。
科学を身近に感じてもらうために サイエンスコミュニケーションの力とは
──サイエンスコミュニケーションの研究者になり日常に変化はありましたか
生活者として科学のことを考えるようになりました。私の今のキャリアの原点は家事をしている時に料理や掃除といった家事を全て科学的に語り得るということに気付き、それに感動したことですが、今も生活する中で「これはなぜだろう」と考えることがあり、毎日が楽しいです。常に生活の中の科学を考え続ける日々です。
──科学と私たちの生活の関わりを教えてください
例えば欠如モデルというものがあります。分かりやすく言うと「あの人が科学を好きじゃないのは科学の知識が少ないからだ。だから科学の知識を増やせば好きになるだろう」というような考え方です。この例は比較的害は少ないものですが、問題となるのは安易な欠如モデル的押し付けで問題解決を図ろうとする時です。ほとんどの場合は、多くの要素が複雑に絡み合って問題が発生しているので、単純化した思い込みの押し付けでは問題解決に至ることはできません。欠如モデルは人間なら誰しも陥ってしまうもので、完全になくすことは不可能です。しかし自分の傾向に名前が付いているという知識があるだけで「今の自分は欠如モデルに陥っていないかな」と反省する事ができ、意識することがブレーキになります。科学を知ることは自分を知ることにもなります。
──過去のインタビューで「認知バイアスの存在を意識する事が陰謀論に対するワクチンになる」と仰っていました
これもまた、認知バイアスという人間の傾向を知ることで自分を客観的に見つめる事ができ、陰謀論を信じるブレーキになります。
──それは個人レベルでのことだと思いますが、社会全体として陰謀論に陥らないようにするためにはどうすべきだと思いますか
不安や不信感から生まれるのが陰謀論です。近年は新型コロナワクチンの陰謀論が話題になりましたが、古くから、ワクチンには陰謀論が付き物でした。ワクチンが社会で機能するためには社会全体である程度の数のワクチンを打つことが必要なため、ワクチンのことをよく分かっていなくても半ば強制的に打たせるということがありました。このようなことが不信感へとつながります。
不信感の生まれる背景には透明性がないことがあります。一つの例として、ワクチンを打つ時に患者が医師に「このワクチンは本当に大丈夫なのか」と聞くと、医師がその問いを嘲笑するということが実際にあるそうです。これも「科学を知っていればワクチンを不安に思うことなんてないのに」という欠如モデル的発想なのですが、医師のこういう態度が患者の不信感につながりますよね。情報の不透明性を解消するために、誰もが情報にアクセスできることが必要です。あらゆる情報を詳らかにすることで、政治や医療を行う側は悪いことをしていないだろうと全員が思えるような社会にすることが必要です。サイエンスコミュニケーションの立場からは、既存の科学への不信感をなくすためには科学が身の回りにありふれていることを知り、科学への心理的な距離をなくすことも有効な手立てであると考えています。
──新型コロナウイルス対策では政治と科学の関係も話題になりました
たとえ科学に対する信頼が高くても、科学的に「正しい」判断が自分の大切にしている信条を上回らない、という状況はしばしば起き得ることだと思います。その信条というのは政治の意思決定レベルではその国の文化や文脈によるものです。重要なのは、科学に依拠しながら社会全体としてコンセンサスの取れる判断を取ることです。サイエンスコミュニケーションの研究でも、科学的な助言を政治にどのように生かすかについての議論はよくなされています。政策に関連する科学的助言はたくさんありますが、どの助言を選択してどのように政策に生かすかを決めるのは政府です。政治の下す判断はその国の文化や文脈が反映されるもので、科学的に見ると最善とは思えないものもありますが、そういう時にこそ政治に対する不信感を高めないために政治がなぜその判断をしたか丁寧な説明をすることが必要だと思います。