留学には不安と困難がつきものだが、それは時代も場所も問わないだろう。そこで東大新聞では、北米・東南アジア・中東へ赴いた東大教員・学生からの留学体験記を集めた。第3回となる今回は中東(トルクメニスタン・イラン)。教員・学生の2世代にわたって掲載しているため時代ごとの比較にもなるだろう。今後の留学への指針、更には現地の状況を知る手がかりとしてほしい。【寄稿=鈴木朝香・森本一夫(東大東洋文化研究所)】
未知の世界トルクメ二スタンへ!【鈴木朝香さん】
私は、2019年10月から2020年7月まで、旧ソ連から独立した中央アジアの一国・トルクメニスタンに留学していました。学部時代に在籍していた、東京外国語大学の交換留学制度の下、選んだのは国際人文開発大学(IUHD)。日本とトルクメニスタンの間での派遣留学は未知の世界に飛び込んでいく「前例のなさ」が一番の魅力でした。加えてロシア語が通用する国にある、英語で全ての講義を行う唯一の協定校でもあったため、外大でロシア語を学んでいた私には、これまでの語学の成果を十分に発揮できる場にも思えました。
しかし準備期間から帰国するまで、トルクメニスタン留学は困難の連続だったと言っても過言ではありません。情報の不足はもちろんのこと、不安を共有できる友人もおらず、恐らく自分が認知していた以上に、心身へのストレスは大きかったでしょう。特に新型コロナウイルスの感染拡大で国境が封鎖された時には、医療資源の乏しい不慣れな土地で、ろくに現地語も話せなかったため、とても不安でした。
今、振り返ってみて、留学中の困難を乗り越えるために心掛けておいて良かったと思うことは、現地での人脈づくりです。私は留学初期から、現地コミュニティにも現地邦人コミュニティにも、積極的に参加しました。人との関係を良好に保つ上で必要なことは、世界中どこに行っても、そう大きくは変わりません。相手の文化を知り、自分を形作る自国文化を再認識し、相手の喜ぶことをして、その地でタブーとされていることを避ける。現地文化に溶け込めない人は、なかなか現地で歓迎されません。これは留学前にできる限り多くの二次資料に当たりなさい、という意味ではありません。現地で、相手文化を学ぶ姿勢をみせて、それを実践してくださいということです。人間関係が構築されれば、自然と必要な情報が入ってきて、困ったときには助けてくれる人が現れます。反対に、心を閉ざしたままだと、良くない誤解を生むかもしれません。
ただ、これは珍しい国に留学した私個人の特殊な事例です。私は欧米への留学経験がないため、そこでの困難は分かりません。しかし予想される困難と、自分がとり得る最善の対処法を思考することは、その後の人生でも大いに役立つスキルだと思います。留学中は(普段からそうすべきではありますが)経験すること全てが学びだと思って、楽しんでほしいです。
現在、私は学際情報学府で、トルクメニスタンを対象とした比較政治学・地域研究分野の研究に取り組んでいます。よく最初から学者になるつもりで、トルクメニスタンに留学したのだと勘違いされますが、実は自分がアカデミアの道に進むとは夢にも思っていませんでした。思いがけず歩み始めた道ですが、今後も、博士課程に進学し、研究者を志していきます。これから渡航される学生の皆さんにも、留学中に、良い出会い、良い学びがあるよう、祈念いたします。
百聞は一見に如かず イランの魅力【森本一夫教授】
私がイランに長期滞在したのは、20代後半、1996年秋から98年秋にかけてのことだった。文部省(当時)のアジア諸国等派遣留学生制度(復活が切に待たれる)を利用し、テヘラン大学大学院と宗教都市ゴムにあるイスラーム史・イラン史専門図書館に籍を置いていた。私は10世紀頃から15世紀頃までのイランやその周辺の歴史を専門としている。歴史研究者の常とて、イランでの日常生活は実に地味なものだった。大学の図書館に通って写本目録を繰る。見つけた写本をテヘラン、ゴム、マシュハドの写本図書館に見に行く。うまく写本の複写がもらえたならばそれを読む。そういった仕事と並行して、新本・古本の収集、研究者とのネットワーク作りとそれを通じた情報収集、テヘラン大学での授業への出席といったことをやっていた。ペルシア語とアラビア語を鍛えることも目的だった。イスラーム史の研究者として職業的にやっていくだけの実力をつける、それを目指して頑張っていた日々だった。
イランに初めて行ったのは長期滞在開始と同じ年の春。1ヶ月半ほど滞在し、東京の大使館を通じて送っていた留学申請書類が高等教育省のある部署で滞留していたのを突き止め、必要な役所を回り、秋から来てもいいという話にどうにか漕(こ)ぎつけた。イランにはそれ以前にも何度か行こうとしたことがあったが、その度に中東で何かが起き、安全を心配して取りやめていた。しかし、この最初の滞在で、そうした色々な心配、特に親米国日本から来た自分は街で取り囲まれたりするんじゃないか、というような杞憂(きゆう)は完全に払拭された。実際、2年間の滞在の間、本当に危ないと思ったことはなかったように思う。まあ、そもそもその地域の研究を仕事にしようとしていたわけだから、少々心配なことがあったとしても飛び込んでいくようでなければどうにもならなかったわけなのだが。
いざテヘラン大学に在籍することになったとして何がどうなるのか、事前にはあまり分かっていなかった。1988年にイラン・イラク戦争が終わってからすでにかなり経っていたが、当時はまだ同じような形でイランに行ったという先輩もほとんどいなかったし、先方からの情報提供も、推して知るべきという状況だったからだ。しかし、これがイラン風なのだが、必要なことはその時になれば明らかになる。また、真に「おもてなし」を信条とするイランの方々の好意的で柔軟な配慮にも何度も助けられた。
もちろん、それぞれの国には、それぞれの政治状況・社会状況に伴う制約がある。留学生に対する見方が一般市民と公安関係とで違うことも言うまでもない。注意しないといけないことは注意しないといけない。しかし、自分の眼で見もしないで心配したり臆したりしていては、真に異なるものに迫ることはできない。無責任に煽(あお)ることはしたくないが、ある程度の山っ気のようなものも、イランのような国に勉強に行ってみようという際には必要なのかもしれない。
なお、テヘラン大学と東大の間には私の留学中に締結された協力覚書があり、今では全てがはるかにスムーズに(=つまらなく)なっています。ご相談があれば私まで。大学附属のペルシア語学校もあります。
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