2015年、安保法案反対運動や18歳選挙権の実現が大きな話題になった。1970年代以降の学生が社会運動に参加することが珍しかった状況が変化を迎え、いま再び学生と政治の関係が注目されつつある。そこで今回、元衆議院議員の辻恵(つじ・めぐむ)弁護士に話をうかがい、自身が身を投じた60年代の学生運動を振り返ってもらった。(後編はこちら)
辻さんは1973年に法学部を卒業したのち、長年弁護士として働き、2003年から2005年及び2009年から2012年まで、衆議院議員を二期にわたって務めた。2009年に成立した民主党政権では副幹事長や法務委員会筆頭理事として活躍した。現在も弁護士業の傍ら、TPPや安保法反対の運動に尽力している。
1967年、大学1年生時の第一次羽田闘争で、辻さんは大手前高校の同期生だった山﨑博昭さんを亡くした。山崎さんは日本がアメリカのベトナム戦争に加担することに反対して、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようと羽田空港を目指し、機動隊との衝突の際に命を落とした。現在、事件から50周年を前に「10.8山崎博昭プロジェクト」が進んでいる。これは、山崎さんを追悼する鎮魂碑を建てるとともに、ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館に日本のベトナム反戦闘争の資料を展示するもので、辻さんはその発起人でもある。
今回のインタビューで、いま60年代学生運動の経験をどう捉えているのか、そして今年の学生運動をどう見ているのかを尋ねた。
注:60年代学生運動の一つの象徴である東大紛争は、医学部研修生の待遇改善運動がきっかけとなって始まった。これが1968年1月に医学部の無期限ストライキに発展し、学生と大学当局の対立が深まった。大学のあり方を問うこの運動はやがて他学部や他大学にも波及し、6月に安田講堂前で行われた一日ストライキ総決起集会には、東大中の学生およそ7000人が集まった。翌年1月18 -19日の安田講堂事件では、バリケードを築いて立てこもる全共闘と機動隊の2日間にわたる攻防のすえ、機動隊が講堂内に突入して数百人の学生が逮捕された。この混乱の影響で、1969年の入試は中止された。
――辻さんは、どのように学生運動に関わっていったのですか。
大手前高校3年のとき、ベトナム反戦デモに多くの同級生が参加するのを見て衝撃を受けました。自分は官僚になろうと思っていたので勉強を続けて、とりあえず東大の文一に入りましたが、入学後はすぐ自治委員になって5月と7月の砂川基地拡張反対闘争に参加しました。大学に入ったら目の前にある現実に対応する中で自分の生き方を考えようと思っていたからです。
(第一次羽田闘争については)ベトナム戦争に日本政府が加担するということで、当時の愛知揆一外相がアメリカの戦略の下で東南アジア各国に働きかけていて、それに反対する7月、9月のデモに参加しました。そのうえで、10月8日に佐藤首相本人が南ベトナムに行くということだったのですが、愛知外相の時と同様の反対デモをするのだろうという認識しかなかったので、当日の闘争には参加しませんでした。
――山崎さんが亡くなったのは、衝撃だった訳ですね。
そう。その時私は、このまま学生運動に深入りしていくべきかよく考えようと思って、デモには参加せずに東北地方を旅行していました。前日の7日の夜行で福島の五色沼に向かい、8日は仙台に泊まったんですよ。
9日の朝、松島に向かおうと思って仙台駅頭で新聞を買ったら、10月8日の羽田闘争で山崎が死んだという記事が一面に載っていて、これは衝撃そのものでした。山崎の死亡後に知ったのですが、10月8日の闘争は学生たちが初めて角材を持って機動隊の壁を突破しようとしたいわゆる実力闘争で、羽田空港に突入して佐藤首相の出発を物理的に阻止しようとしたのでした。
高校時代に勉強の競争相手だった山﨑は気になる存在でしたが、その山崎が死んだわけだから、本人が目指した戦いの方向からずれるような生き方はできないな、と思いました。学生運動に深入りしていくきっかけになったというか、後ろから押された感じでした。
翌年の1月には、佐世保にアメリカの原子力空母エンタープライズが入ってくるということで、反対運動に参加しました。佐世保の駅前でカンパをお願いしていたら、「がんばれよ」と多額のカンパをしてくれる人がたくさんいたし、駅前のうどん屋のおやじさんから「うどんを食べて行け」とタダで食べさせてもらうこともありました。ベトナム戦争に加担していく日本の政治を変えるということに対しては、当時人々からの支持も強かったですね 。
――(1969年1月18-19日の)安田講堂攻防の時は、何をされていたんですか?
1月10日に7学部集会というのがありましたが、これは、正規の自治会を無視する反全共闘の学生たちと加藤総長代行とが談合して、東大の「正常化」を図るためのセレモニーでした。これを粉砕しないと東大闘争はつぶされると考えて、駒場から200人くらいで開催場所の秩父宮ラクビー場に押しかけて行ったんだけど、その手前で前と後ろから機動隊に囲まれて逮捕されました。
3泊4日と言われますが、警察が48時間、検察が24時間拘束する権限があって、その後10日間の勾留処分を受けたけれども、10日間の勾留で釈放されました。18日に法学部研究棟と工学部列品館で逮捕された学生が都内の留置場に入れられ、19日には安田講堂が落ちてさらに700人以上が入ってきて、「ところてん方式」で押し出されて出ることができたんだ。結局、ラグビー場で捕まった人のうちリーダー格の学生だけが起訴されました。
安田講堂落城の後、全共闘運動は全国に広がっていきましたが、東大では5月頃から授業が再開され、夏には大学立法が成立して、運動の勢いは潮が引くようにさーっと弱まっていきました。70年安保闘争のときは、もう勝てるとは思えない状況でしたね。機動隊に圧倒的に抑え込まれてしまい、無力感から武装しなくては勝てないというところで、赤軍みたいなのが生まれてきたんです。
(取材・写真:井手佑翼)