留学には不安と困難がつきものだが、それは時代も場所も問わないだろう。そこで東大新聞では、北米・東南アジア・中東へ赴いた東大教員・学生からの留学体験記を集めた。第2回となる今回は東南アジア(インドネシア・フィリピン)。教員・学生の2世代にわたって掲載しているため時代ごとの比較にもなるだろう。今後の留学への指針、更には現地の状況を知る手がかりとしてほしい。【寄稿=鈴木雅大・青山和佳(東大東洋文化研究所)】
インドネシアでバンドン文化に驚き!?【鈴木雅大さん】
私は2022年10月から2023年3月までの約半年間、インドネシアのバンドンに滞在しました。留学ではなく、日本語授業のアシスタントとしてSumatra40高校に毎日通いました。私が参加した国際交流基金日本語パートナーズ派遣事業は、平和外交の一環であり税金が用いられる派遣事業です。活動のミッションは、日本とインドネシアの生きた文化交流の場となることです。端的に言うと「現地の方と友達になる」です。インドネシアでは、日本への関心が高く日本語学習者も多くいます。日本製品の輸入や日本での労働など経済的な関心に加えて、サブカルチャーへの興味の大きさは想像をはるかに越えました。高校生はNetflixやTikTokを通じてリアルタイムの流行を楽しみます。私の滞在時には、アニメ・チェンソーマンがとにかく流行っていました。一方でNARUTO、ワンピース、ハイキュー、呪術廻戦などは根強い人気があります。バンドンで盛んなコスプレ大会を日本語クラブ(部活のような放課後クラブ、オタクが多い!)の生徒たちと回ったのは素敵な思い出です。音楽は、藤井風の「死ぬのがいいわ」、HoneyWorksの「可愛くてごめん」、sumikaの「フィクション」などが人気でした。サビを口ずさみながらTikTok用のダンスをマスターしている生徒を見るたび「すごい時代だねえ」と笑顔になりました。
また、バンドンの文化には毎日驚いてばかりでした。いくつか紹介します。まず、ご飯を手で食べること。インドネシア国民の多数を占めるイスラームにとって左手は不浄の手なので、右手で。ルンダンやソトアヤムなど、インドネシア料理自体がenak banget(とても美味しい)なのですが、ご飯とおかずを手でぎゅっとして食べると味が馴染(なじ)んでか、不思議にとても美味しく感じるのです。次に、高校生の恋愛事情。面白いと思ったのは、恋愛相手に惹(ひ)かれる一番のポイント。みんな口をそろえて「匂い」と答えました。バンドンでは赤ちゃんの頃から香水をつけ育ち、3歳の子どもも自分で香水をしてから幼稚園に出かけるのだそう。最後に、異文化の方と一緒に働く上で直面した文化の違いは「予定をfixする」タイミング。派遣後すぐ、日本語クラブの活動でおにぎりを作りたい、2週間後のこの日にしようと話しました。それに合わせて食材も買いそろえました。当日行くと、先生や生徒に「今日おにぎりやりますか?」と聞かれびっくりしました。「え、逆にやらないの?」と。こういうこともありました。ある日1時間目の日本語の授業中、急に全校放送が。「この後TikTok ダンス大会をやるから今日の授業は無しです」と。生徒も先生も初耳でした。しかも出場した生徒のダンスがハイレベル、優勝賞金1万円という本格さ。校長と教頭のサプライズでした。日本の学校では行事日程を1年の初めに決定するのが慣習です。そう先生に言うと「これがインドネシアです」と楽しそうに笑っていました。ゲストに優しいインドネシアでは、たくさんお出かけやご飯に誘っていただきました。それがよく前日や当日に決まるので、目まぐるしい毎日にある程度流されて楽しむことを学びました。少しでもバンドンに行ってみたいと思っていただけたら、友達の輪を広げるという僕のミッションは成功です。
フィリピンを歩いて「ふるまいかた」を学ぶ【青山和佳教授】
経済学研究科博士課程2年目の1月(1997 年)から約2年半のあいだ、フィリピン南部のミンダナオ島にあるダバオ市に留学しておりました。最初の2年間は当時の富士ゼロックス小林節太郎記念基金より奨学金をいただき、低所得層居住区に暮らす文化的マイノリティ、サマ・バジャウの人びとの社会経済生活についてフィールドワークを、最後の半年は収集した資料の整理と確認を行ないました。この間、マニラ首都圏にあるアテネオ・デ・マニラ大学のフィリピン文化研究所に訪問研究者として在籍し、経済学者および文化人類学者の教授2名より指導と助言を受けることができました。
当時、フィリピン留学においてミンダナオ地域を選択する学生はまだ少なく、そもそもフィリピノ語(国語、言語的にはタガログ語)以外の現地語を使える日本語話者も非常に少ない状態でした。それゆえに、わたしの留学先はビサヤ語圏であるダバオ市に決まったとも言えます。以前より政府機関のプロジェクトでビサヤ語圏(ビサヤ諸島およびミンダナオ地域)に派遣されていたわたしに対し、当時の指導教官の中西徹先生とその先生であられる故・高橋彰先生から、博士論文のためのフィールドワークをダバオ市で行なうことを勧められたからです。「フィリピン」、とくに「ミンダナオ」と聞くと、「治安などへの不安」を抱く方もいらっしゃると思います。しかし、それは極端なステレオタイプかもしれません。もちろん、紛争やパンデミックなどの理由により外務省が「渡航中止勧告」を出しているような地域に行くことは、わたし自身も控えてきました。しかし、ダバオ市については、わたしが留学した当時から現在に至るまで治安は安定しております。どのような地域であれ、あなたが安全に過ごすためには、現地情報を集めることと同時に、その社会での言語や文化を積極的に学ぶことが大切です。
ダバオ市において、中西先生が懇意にされていた都市貧困層支援を専門とするNGOを、また故・高橋先生には日本領事館の領事をご紹介いただきました。また以前よりプロジェクトを通じてお付き合いのあったアテネオ・デ・ダバオ大学の先生がたにも下宿先探しや調査の方向性について相談に乗っていただくことができました。また、民族誌的なフィールドワークを行なうためにビサヤ語の習得に努め、最初の数ヶ月はカトリックのメリノール宣教会の語学学校に通いました。
その後、ダバオ市沿岸部にあるサマ・バジャウの人びとの集落に通い、ときには泊まり込んで、フィールドワークをさせていただきました。外国人である自分自身が地域の治安をかき乱さないよう、フォーマル・リーダー(行政の長など)とインフォーマル・リーダー(集落の長老など)に、調査許可と滞在中の保護を求める文書を携えて、ご挨拶にうかがいました。幸い温かく迎え入れていただき、その後はフィールドワークでの体験を通じて「ふるまいかた」を学び、ときには失敗しながらも、現地での生活になじんでいきました。
わたしは今ではフィリピン人の家族もおり、フィリピンとのご縁が続いております。現地訪問や留学に関心のある方は、お声がけください。
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