東日本大震災から5年。震災が起きたときに東大生だった、もしくは震災の起きた2011年に入学した学生は東大内に少なくなった。ボランティア活動に取り組んだ11年度入学生へのインタビューと東京大学新聞が撮った写真で、震災が東大に与えた被害や影響を振り返る。(構成・横井一隆)
気仙沼は「第二の故郷」
学生で構成されるボランティア支援団体「東大―東北復興エイド(UT-Aid)」が11年6月にできた。12年9月から13年3月までUT―Aid代表を務めた青木建吾さん(文Ⅰ・2年=当時)にUT―Aidの活動と被災地の今後について聞いた。
震災が発生したのは、前期試験の合格発表があり、私の合格が決まった翌日でした。地震の直後は、そこまで大きな災害だとは思わなかったです。合格が決まったばかりで将来へ希望を抱く気持ちの方が強かったですね。大変な事態だと自覚したのはその夜、かつて訪れた岩手県に津波が押し寄せる映像を見たり海岸に多数の遺体が打ち上がったと知ったりしてからです。
ただその後、私も周りも普段通りに近い生活を送りました。入学式は小規模化され出席できませんでしたが、大学生活を楽しんでいました。新生活の忙しさから、東北について具体的にどう行動するかまでは考えが至っていなかったです。
震災後初めて現地へ行ったのは11年の8月中旬。高校同期に誘われてUT-Aidのボランティア派遣に参加し、宮城県石巻市で側溝から泥を掃き出す作業を行いました。UT-Aidは、参加しやすいボランティア派遣を実施して、より多くの人に東北復興支援活動のきっかけを提供することを目指した団体です。金曜夜に東京を出発し土曜のうちに帰ってくるというプランで、学生を中心とするボランティア部隊を毎週現地に派遣していました。
石巻はまちの原形を留めておらず、震災当日に映像を見たとき以上の衝撃がありましたね。短時間の作業を終えた帰りのバスで「もっと行動しなければ」と感じ、そのとき震災が「他人事」から「自分事」に変わりました。自分の周りにもきっかけを提供し支援の輪を広げることで東北の助けになりたいと感じました。
同年9月には宮城県気仙沼市へ。現地の方々が明るく前向きに「ここをこう復興したいんだ」と力強く話す様子を見て、「この方々の力になりたい」と思いましたね。「東北のために何かしたい」という曖昧な言葉がやっと具体化されました。その後も気仙沼は何度も運訪れており「第二の故郷」だと感じています。
まずは気軽に東北へ
UT-Aidの活動で意識したのは、事前講習で目的を認識した上で作業してもらうこと。目的なしではただの単純作業になります。それでは支援活動にならない。「雰囲気を考えた方がいい」と言われ反省したこともありました。
12年の9月に代表となったころには、復旧がある程度進み、一次的な作業のニーズは減ってきていました。そこで教育支援や事業者支援を始めたり、食や温泉など現地の魅力を伝えるプログラムを加えたりするなど工夫しました。
しかし、13年3月まででUT-Aidは活動を終了することに決めました。活動継続に向けさまざまな可能性を探りましたが、資金不足等の問題もあり、ニーズの変化に対応することが難しかったです。このままただ続けることは現地のためにならないと判断しました。1年半でのべ2100人を東北へ送り、団体の当初の目的はある程度達成したという思いもありました。
活動停止後も東北へは個人的に足を運び続けています。社会人になった今も同じです。それは「助けたい」というよりも「行きたい」という思いが強いから。そう感じるほどの魅力が東北のまちや人にはあります。その魅力がもっと知り渡れば復興もより進むはず、と考えています。
そこで、旅行でいいので東北に行ってほしいし、それによって自分事に近づけてほしい。全員が「ボランティアをしないと」と気負う必要はありません。現地を見た結果としてボランティアをしたいと感じたのなら、それはそこで感じたことを踏まえて行動すればいいけれども、まずは気軽にでも現地へ行くということをたくさんの人にしてほしい。あれだけの大災害からの復興に時間がかかるのは仕方のないこと。それぞれの人がそれぞれの立場で東北と関わり、皆で前へ前へと進んで行くのが大事です。僕も、自分にできることを続けて行きます。(談)
震災時の東大、避難と救命の場に
地震発生直後、避難場所として指定されている本郷キャンパスには周辺のオフィスから避難バッグを持った会社員が集まった。電車の運行に乱れが生じて帰宅が難しくなった学生らに対して、本郷キャンパスでは法文2号館にある文学部三友館や小柴ホールを開放。三友館では非常食や水などが配布された。御殿下グラウンドは緊急災害用ヘリポートに指定され、重症患者が附属病院へ搬送された。駒場Ⅰキャンパスではコミュニケーションプラザなどが開放された。
キャンパス各所の建造物には大きな被害が出た。工学部11号館前の広場では、スターバックス正面にあるジョサイア・コンドル像が台座から十数センチずれた。他に、工学部1号館裏にある「ヘビ塚」と呼ばれる灯籠が倒壊したが、11年3月16日に復元された。
安田講堂では窓ガラスの一部が割れたため、駐輪場向きの窓の下に立ち入り禁止区域を設置。安田講堂地下にある中央食堂では、ガスが止まったため急きょ営業終了に追い込まれた。
総合図書館では約2万冊の蔵書が書架から落下。一部の水道管が破裂し、書庫の増設部分にゆがみが見つかった。利用者と職員にけが人はなかった。柏図書館で約1万冊、法学部図書館で約2万冊の蔵書が落下したのをはじめ、各部局の図書館で蔵書が落下したが、建物への大きな被害は総合図書館以外ではなかった。
付属施設の中で最も被害が大きかったのは、大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センター(岩手県大槌町)だ。人的被害や建物の倒壊はなかったが、2階以下の設備が津波で全て流された。現在は被害の少なかったセンター研究棟3階部分を仮復旧させて活動を再開している。
11年度学部入学式は11年4月12日に挙行。震災を考慮して例年より規模を大幅に縮小し、会場は例年使用されている日本武道館(千代田区)ではなく本郷キャンパス小柴ホールとなった。学生は、総代と無作為に選ばれた32人の代表者のみが出席した。
この記事は、2016年1月12日号からの転載です。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。
2016.3.15 タイトルを変更しました