我々が日々当たり前のように身を置いている「場」も、そこにあるモノの特性やそれが持つ歴史性などに注目すると、さまざまな意味を持って我々の前に立ち現れてくる。この連載企画では、哲学や歴史学、人類学など幅広い人文学的知見を用いて「場」を解釈する文化地理学者ジェームズ・サーギル特任准教授(総合文化研究科)と共に、毎月東大内のさまざまな「場」について考えていこうと思う。第二回は、本郷キャンパスの三四郎池だ。
(取材・円光門)
人工と自然の絶え間ない闘争
水質汚染や温暖化に見られるように、我々人間は自然に対して環境破壊という「暴力」を働いている。三四郎池は、そのような我々と自然の間の支配―被支配の関係性を見直す契機を与えてくれるとサーギル特任准教授は言う。例えば池周辺に位置する岩々は、来訪者の足場を不安定にして、人間の思い通りにならない自然の存在を明らかにする。さらに、人間と自然の距離の近さも注目に値する。「三四郎池の美しい自然を目の前にして、我々は自然を利用する対象として捉えるのではなく、自然そのものの在り方を尊重し、それに親しみを覚えるようになるのです」
だが、これは本当の自然だろうかとサーギル特任准教授は問いかける。「地理学者ドン・ミッチェルは、一見自然のように見える多くの風景も実は人の手によってつくられた『表象』にすぎないという、批判地理学(critical geography)的な考え方を提唱しました」。三四郎池の自然はあたかも昔から存在しているかのような印象を我々に与える。だが実際は草木、岩、滝、池に住む魚や亀、鳥の鳴き声といった典型的な「自然」の要素が、まるで美術館のように人工的に配置されているのだ。
さらに興味深いことは、我々と自然の非暴力的な関係性の構築を促してくれるこのような表象が、そもそも我々が自然に対して働いた暴力を通じて形成されているということだ。三四郎池の美しい環境を維持すること、すなわち池の水を入れ替えたり、雑草を刈ったりと定期的な手入れをすることは、ある意味自然に暴力を働くことである。「あらゆる『維持』は、一定の『暴力』を必要とします」とサーギル特任准教授は指摘する。池の水が汚くなったり雑草が生えることは、自然が人間によって奪われた自分の領地を取り戻すという表れなのだ。
三四郎池における人工と自然の関係は、哲学者ハイデガーの次のような議論によって上手く説明できる。ハイデガーは『芸術作品の根源』という書物で、芸術作品は「世界(Welt)」と「大地(Erde)」の緊張関係の中に生まれると主張した。作品が提示する「世界」は、作品を構成する物体、すなわち「大地」を切り開こうとするが、逆に「大地」は「世界」を覆い隠そうとする。
この議論を三四郎池に応用するとどうなるか。三四郎池という「作品」は、人工的に表象された自然すなわち「世界」と、その構成要素である真の自然すなわち「大地」の緊張関係の中に生まれている。表象としての自然は、真の自然を切り開くことで、言い換えれば自然に暴力を働くことで創り出され、維持されてきた。それに対して真の自然は、表象としての自然を覆い隠すことで、人の手によって奪われたものを取り戻そうとする。このように、我々が尊いと感じる三四郎池の美しさの背後には、人工と自然の絶え間ない闘争があるのだ。
それでは、我々が三四郎池において感じる自然への親しみは、意味のないものなのだろうか。暴力的な背景に支えられた暴力への反省は、空虚なものなのだろうか。そうではないとサーギル特任准教授は言う。「現状がはらむ矛盾をしっかり意識した上で、良い部分は享受すべきです。それが『批判的に考える』ということですから」。三四郎池の自然美を手放しで称賛するのでもなく、それを支える暴力に絶望的になるのでもない。暴力的な背景は認識しつつ、三四郎池が我々に与えてくれる自然への親近感は大事にすべきだろう。それが真の自然保護の精神へとつながっていくのだから。
【英訳版】
Take a Walk through Todai’s Campuses with Dr. Thurgill #2 Sanshiro Pond, Hongo Campus
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