お笑いを通して子どもにも分かりやすく社会問題の発信を続ける「お笑いジャーナリスト」たかまつななさん。慶應義塾大学在学中にブレークし、同大在学中に東大情報学環教育部に入学するなど、異色の経歴を持つ。2016年には「笑下村塾」を創設し、全国各地の学校へ芸人による出張授業を提供してきた。環境問題や政治問題などの発信・教育を志した経緯や、ジャーナリズムの手段として「お笑い」を選んできた理由など、進路への思いを聞いた。(取材・丸山莉歩)
社会問題の発信方法を模索し「お笑い」と出会う
──小学生時代はどのような進路を想定していましたか
当時はサッカースクールに通っていました。サッカーばかりしていて、将来のことは考えていなかったです。そんな中で小4の時に参加したのが、アルピニストの野口健さんによる環境学校でした。富士山の麓で数日間キャンプし、不法投棄問題について学ぶんですが、散乱している注射器や捨てられたバスを見るうちに「政治はこのような社会問題を解決するためにあるんじゃないか」という思いが芽生えて。それでも、ジャーナリストという将来は当時の自分には思いもよらなかったと思います。家庭の方針で中学受験もしたのですが、勉強を好きになれなくて。
──中学校からはフェリス女学院に入学しました
中高と、発信の仕方を模索していました。不法投棄の問題を伝えたいと思い始めた小4当時、みんなの前で話す機会をもらったんです。ですが、人前で話すのは向いていないと気が付きまして。壁新聞を作って掲示板に貼ってもらったんですが、考えたのは「どのくらいの人がこれを読むんだろう」ということでした。さらなる発信力を求めて、中1で読売新聞のジュニア記者になりました。現役環境大臣が富士山の視察に行くということで、同行取材する企画を立てて。それを記事にしたんですけど、反響がなかったんです。同世代の人はこんなに新聞を読まないんだ、という落胆がありました。
──「お笑い」に舵(かじ)を切ったのは
お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんと、人類学者である中沢新一さんの対論による『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)を読み、お笑いを通じて発信するという方法に衝撃を受けたんです。高校時代には演劇を見に行ったり、エンタメを通じて社会問題を提起する作品を鑑賞したりするようになりました。
──そこで手段としての「お笑い」に魅せられた
そうですね。中高時代は落ちこぼれで、できない人の気持ちがよく分かっていました。それなら自分には分かりやすく伝えることができるのではないかと。いわゆるジャーナリストは優秀な人に任せて、自分は社会問題や政治参画の敷居を低くしたいと思ったんです。そこにお笑いがはまりました。
──ネタでもよくフェリス女学院について触れていますが、当時「お笑い」に対して周囲からの反応はどうでしたか
学外の高校生向けグランプリでネタを披露しようとした時は、学校から許可を取るのが大変でした。担任の先生に聞いたら私では判断しかねますと言われ、何カ月か教職員会議にかけられまして。「清く正しく品格あふれるお漫才」「お友達の悪口を言わない、学校名を出さない」ならよしと、ようやく許可が下りました。結果的に全部破ってしまった気はしますけどね。
校内では冷遇されることもなく、お笑いの可能性を再確認しました。中2か中3の時にお笑い同好会を立ち上げたんですが、校内英語スピーチコンテストの幕間にネタを披露する機会があって。ネタを始めた途端、コンテスト中はほとんど寝ていたような同級生たちが起きて見始めたんです。私の英語力自体は学年ビリレベルでしたから、余計に感激しました。
AO入試で見えた「自分は何がしたいのか」
──中高生の頃から「お笑いジャーナリスト」の道を歩み始めているのが分かります。芸人になるなら大学進学は不要とも考えていたそうですが、大学受験においてはどのように進路を定めましたか
お笑いと教育を結び付けることがしたかったので、社会科の教育免許を取れる学部というのは条件としてありました。それから、学問領域を狭めたくなかったんです。分野横断的な話題についても語れる人でありたい。環境問題一つとっても、対策を技術的な面から考えるなら理系の知識が必要になりますし、実際に政策が施行されるとなったとき必要なのは文系の知識です。それでも進路はかなり揺れていました。いろいろな大学のいろいろな学部を受けたのもそうですし、そもそも「自分は何がしたいのか?」と。
私の受けたAO入試って自分を自分で推薦する入試なので、何十回も志望理由書を書き直すんです。その中で嫌ってほど自分と向き合いました。初めはだいぶ揺れていましたし、迷走していたんですよ。笑うと免疫力が上がるという話もありますし、自分は笑いと健康を結びつけたいのかな? とか。介護にも使えるのかな? とか。
──今の活動内容からすると、確かに迷走ですね
「お笑いを通して社会問題を伝えたい」「お笑いは敷居を低くする手段だ」という結論に至れたのは、やはり50回以上志望理由書を書き直した結果だと思います。慶應義塾大学のAO入試ではこの目標を正直に言いました。真面目に取り繕った志望理由を述べた大学もありましたが、「お笑い」でも慶應はちゃんと合格をくれました。
慶應のAO入試の面接では、7分の自由プレゼンの時間を使ってフリップ芸を披露しました。「さて問題です、なぜ私はNSC(吉本総合芸能学院)でなくSFCに入りたいのでしょうか?」って、クイズ形式のネタでした。その時の面接官の先生に「君はもっと自信を持ってください」と褒めていただいたんです。「それに、面白かったですよ」と。当時はお笑いで結果を残せているわけでもなかったので、かなり励みになりました。
いくつか受かった大学の中でどこに入学するかも一旦は迷いましたが、結局慶應にしました。慶應一家だったので最後の親孝行という意味もありましたし、当時の芸人の先輩に相談したら「つーか慶應しか知らない」と言われたので。くだらないようですが、芸人が活動していく中で知名度は不可欠ですからね。そして、やはり芸人になりたいという自分の夢を認めてくれたのがうれしかったこと。それが一番大きな理由です。
──在学中の思い出は
教員免許を取るための勉強とお笑いの両立に忙しかったです。大学1年生の時、アマチュアとして最年少(当時)でR−1ぐらんぷりの準決勝まで行って。さらに大学2年生の時、日本テレビのお笑いグランプリ「ワラチャン!~U−20 お笑い日本一決定戦~」で優勝してからは本格的に忙しくなりました。特に「高松豪とたかまつななのオールナイトニッポン0」は午前3時からの生放送だったので、深夜12時に放送局入りして、翌朝9時には授業という生活でした。帰宅していると寝る時間がない。だから生放送後の5時半か6時には慶應の三田キャンパスに行って、教室で寝ていました。それなら寝過ごして遅刻する心配はありません。起きたら授業が始まっていた時はありましたが……。
──想像を絶する忙しさです
勉強も手を抜かずにやっていたので、3時間睡眠の日が続きました。芸歴1年で売れたのもよくなかった。大体のお笑い芸人には下積み期間があって、その間に百本くらいネタを作りためておくんです。でも私にはそれがない。「この番組では他でまだやっていない新ネタを披露してほしい」なんて言われると、ネタ作りから始めなきゃいけない。それが何件も重なると、プレッシャーもあってきつかったです。
【後編へ続く】
【記事修正】2022年10月25日15時10分、経歴部分について、「慶應大学大学院博士課程修了」となっていた部分を「慶應大学大学院修士課程修了」と修正しました。お詫びして訂正いたします。