インカレ(日本学生選手権水泳競技大会)へ数多くの部員を出場させている強豪運動部・東大水泳部競泳陣。本企画では前編に引き続き、競泳陣から全国大会への切符を勝ち取った現役東大生に潜むドラマを追う。
(取材・川北祐梨子)
二つの水泳部
「水泳って、勉強と同じようなところがあると思うんです」。そう語るのは大川和真、水泳部競泳陣3年生。「勉強と同じように、水泳も最初は人から習う個人競技。水泳をする東大生には、勉強に没頭するのと同じように水泳に没頭している人が多いと思います」。大川自身も、日本一の難関と言われる東大の理IIIに合格した後、水泳部競泳陣と東大医学部鉄門水泳部という二つの水泳部に所属し、練習に明け暮れる日々を送っている。
そんな大川だが、実は高校卒業までは水泳に熱を上げてはいなかった。中学1年生の頃から水泳クラブの選手コースに入っていたが、練習が厳しく、理由をつけて休むこともしばしば。「当時はそこまで熱が入っておらず、競技者としての真剣さはありませんでした」。高校1年生の終わりにはクラブを辞めた。だが「泳ぐこと自体は好きなんです。クラブを辞めた後も、だらだらと自分でジムに通い続けて毎日泳いでいました」
東大理Ⅲに入学後、医学部鉄門水泳部に入部した。ちょうどその頃、高校時代に仲が良かった後輩が、インターハイ(日本高等学校選手権水泳競技大会)の参加要件として設定されている標準記録を突破したことを聞いた。「高校生の頃の自分にとっては、インターハイは全く届かない目標だった」という大川だが、この知らせを聞いたとき、わずかながら向上心が生まれた。「自分の専門種目である自由形で、インターハイの標準記録を目標にしてみよう」。とはいえ、大学卒業までにこの目標が達成できればいい、そんな軽い気持ちだった。ところが、現実は彼の予想を意外な形で鮮やかに裏切った。「1年生の夏には、もうインターハイの標準記録をほとんど切ってしまいました。良いタイムが出て嬉しかったです」
目標を達して気持ちがひと段落した8月のある日、医学部鉄門水泳部の先輩からある誘いを受けた。「水泳部競泳陣に入ってみないか」。水泳部競泳陣は、科類を限らず東大生全体を対象にしている水泳部。練習が早朝にあることで有名である。朝に弱く、競泳陣は自分には合わないと思っていた大川だが、先輩に勧められ「真剣に選手として活動するなら、レベルの高い競泳陣に入るしかない」と、二つ目の水泳部への入部を決めた。既に、それほど水泳に没頭していたのだ。
二つの運動部を両立しようとする学生は、なかなかいないだろう。だが大川は「一度熱中したことはとことん追求するタイプ」だと自他ともに認める気質。その勢いは誰にも止められない。水泳部競泳陣に入ると、大川の水泳への情熱にはさらに火が付いた。「生活が水泳一色になり、真剣にならざるを得なくなりました。練習量が増えるとともに、水泳への意欲もさらに増していきました」。5時45分に起床し、水泳部競泳陣の朝練へ。7時半から9時まで泳ぎ、大学の授業を受ける。そして授業が終わると今度は医学部鉄門水泳部の練習へ向かう。帰宅は22時半頃になる、そんな日もしばしばだった。
快挙、そして挫折
インカレ出場を目指す。そう決めたのも、水泳一色の生活を送り始めたこの頃のことだった。「せっかくやるなら、とことん突き詰めたい」。二つの水泳部に入って突出した練習量に加え、ウエートトレーニングにもこだわり、自身を追い込んでいく。「誰よりもストイック」と部内の仲間にたたえられる練習スタイルが功を奏し、1年生の12月には50m自由形のインカレ標準記録を切った。ついに出場権を得たのだ。インターハイにも出たことのない大学1年生が、インカレへ──。とてつもない快挙だった。
「挫折」。大川には、それがないように見えた。灘中・灘高を卒業し、現役で東大理IIIに合格し、大学1年生であっさりとインカレへの切符を手にした。周囲からは「天才」とも呼ばれた。無論、彼がインカレで立派に泳ぐ姿を、誰もが想像した。
だが、禍は訪れる。大学2年生となった8月、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、大川が出場する予定だった20年10月のインカレの出場者の人数が約45%削減されたのだ。出場を決めていた50m自由形では、公式大会の記録の上位40人のみが出場を許された。上位40人に入れるか否かをかけて、大川は東京都特別水泳大会へ出場した。50m自由形のタイムは24秒04。「まずまずのタイムだ」。だが、結果は57位。「40位の壁は高かった。仕方ないことだとは思いましたが、悔しかった」。夢の大会への出場権は、いとも簡単に奪われた。
「花形種目」への挑戦
一つの挫折を経験した大学2年生の8月。絶望と同時に訪れた転機を、大川は逃さなかった。東京都特別水泳大会で、大川は、50m自由形の他に100m自由形にも出場していた。タイムは53秒59。ここで「全然駄目。持久力がない」と、新たな課題を発見する。「個人的には、競泳の一番の花形って、50m自由形ではなく、100m自由形なんだと思います。選手層も厚い。だからこそ、この種目で勝負できるようになりたい。そして次のインカレでは、人数制限があっても絶対に出場できるように、もっと速くなろう」
この日から、さらに高い目標に向けての準備が始まった。持久力不足という課題の克服のため、今まで省いていた練習メニューを、省かないようにしたのだ。「水泳部競泳陣の練習メニューは、自由度が高いのが魅力です。例えば、短距離専門の選手は一本一本のダッシュを大切にする代わりに泳ぐ本数を減らす一方、持久系の選手はメニューをフルでこなす、といった調整ができます」。この柔軟さが、大川のさらなる飛躍を支えた。
当初は練習量の増加により疲労が増すことを覚悟していたが、いざ取り組んでみると、体がすんなりと練習に順応していく。出場した大会ごとに自己ベストを更新し、調子も上がる一方だった。100m自由形でのインカレ標準記録は50秒46。対する大川の12月初旬時点でのベストタイムは51秒02。「花形種目」でのインカレ出場が、あと一歩のところにまで迫っていた。
そして21年1月10日、東京都新春水泳競技大会当日。100m自由形の最終組のスタート台に、大川は立っていた。感染拡大防止措置が取られているため、応援の声はない。例年の大会とは異なる、独特の緊張感が会場を包んでいた。だが大川は冷静だ。スタート前は「少し前の練習で、前半を23秒96で折り返して50秒69というタイムを出したことを思い出していた。標準記録を切るため、今回のレースでは、前半はかなり飛ばして23.8秒くらいで折り返そうと思っていました」
スタートの合図とともに入水。飛び込みは上々だ。トップを泳ぐ8歳年上の選手に対して半身程度の差で食らい付き、前半を4位で折り返す。「日本選手権レベルの選手も複数人いる中でこの位置なら、良いペースだ」。前半50mでのタイムは23秒87。予定通りのペースだった。その後少しずつ首位と差が開くも、なおも4位争いをしつつラスト25mに突入。だが最後は「失速した」。結果、組内の5着でフィニッシュ。電光掲示板で見たタイムは「50.41」。100m自由形で、激戦区の「花形種目」で、標準記録を切った。快挙を叩き出し、新型コロナウイルス感染症の影響で一度はそれを踏みにじられ、新たな目標に向けてもっと強くなろうと誓った。そんな1年が、ようやく報われたのだ。
2度の快挙を成し遂げ、今や水泳部競泳陣で「最も速い男」と呼ばれる大川。「人数制限がなければ、今年度は50mと100mの自由形でどちらも出場できる。だが、人数制限の有無はまだ分からない。人数制限があっても出られるように、シーズン中にベストを更新し続けたい」と涼しい顔で語ってくれた。
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