昨今、新型コロナウイルスが世界各地で猛威を振るう中、
(寄稿)
私はもともと臨床獣医師になりたくて、北海道大学の獣医学部に進んだ。しかし、臨床系ではなく、インフルエンザウイルスを研究する微生物学研究室に入ったのは、感染症学の講義や微生物学の実習を受けて、「ウイルス学って何となく興味深いかも」と漠然と思ったからである。
「ウイルス研究って面白い!」と初めて実感したのは、インフルエンザウイルスの人工合成系が確立された時である。当時(1999年)、私は北海道大学獣医学研究院の博士課程に籍を置きつつ、 米国ウイスコンシン大学獣医学部の河岡義裕教授(現在、東大医科研教授を兼任)の研究室に居候していたが、河岡ラボでは「インフルエンザウイルスを人工的に作出してしまおう!」という、一見無謀とも思えるプロジェクトが着々と進行していた。私は幸運にも、人工的にウイルスが作り出されたその瞬間に立ち会うことができたのである。その時感じた高揚感は、今でも忘れることができず、私が研究を続けていく原動力の一つとなっている。
このようにして開発された「インフルエンザウイルスの人工的合成システム」が、インフルエンザ研究の世界に改革を起こしたと言っても過言ではないだろう。ウイルスにとって致死的でない限り、研究者の描く設計図通りのインフルエンザウイルスを合成することができ、それまでは実現不可能だったことを可能とした。現存しないインフルエンザウイルスを合成することもできるようになったのである。以下に、1918 年当時にパンデミックを起こしたスペイン風邪ウイルスの人工合成とその病原性解析について、ご紹介したい。
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ウイルスを凍土で採掘
「今からちょうど100年前、原因不明の病原体が人類を襲い、世界中を混乱に陥れた。はじめは単なる風邪だと思っていたのに、症状が急激に悪化し重篤な肺炎を発症して、あっという間に死に至るーーような恐ろしい感染症である。感染者の肺の損傷は激しく、通常、空気で満たされているはずの肺胞に液体が溜まり、そのため患者はチアノーゼ(血液中の酸素レベルが低下して皮膚や粘膜が青紫色に変化すること)を起こし、全身が青紫色を呈している。その病原体は瞬く間に世界中に拡ひろがった。街は病人や死にゆく人々で溢れかえり、遺体は葬儀屋や家々に積み上げられ、腐敗していった」ーーこのように描写すると、まるでホラーじみたゲームや小説上の出来事のように聞こえるが、これが実際に1918~1919年に起きたスペイン風邪の流行である(図1)。
18年3月、第1次世界大戦の最中、米国の軍事キャンプ周辺で、スペイン風邪の最初の流行が起こった。その流行は、米軍の欧州進軍とともにヨーロッパへと飛び火し、18年の秋には世界中で流行が起こった。屈強で丈夫なはずの兵士や若者が次々と病に倒れ、重症の肺炎のため呼吸困難を起こし、発症してから数日以内にもだえ苦しみながら死んでいった。当時、各国は自軍の士気が下がるのを防ぐため、インフルエンザ流行を公表するのを控えていた。しかし、中立の立場を保っていたスペインは、何の報道規制も敷いていなかったため、スペインの新聞では大きくインフルエンザの流行を報じられた。そのため、この流行の発生源がスペインであると誤認され、「スペイン風邪」と呼ばれるようになったと言われている。スペイン風邪の流行は、犠牲者数4千万人という、疫学史上最悪の事態となった。だが、当時はウイルスを分離培養する技術がなかったため、スペイン風邪の原因病原体の実態は謎に包まれていた。
その謎に挑んだのが、米陸軍病理学研究所の病理学者Taubenberger博士である。彼らの研究グループは、スペイン風邪の犠牲者の肺病理検体および永久凍土に埋葬された遺体から、スペイン風邪の病原体の遺伝子を分離した。「H1N1亜型のA型インフルエンザウイルス」ーーそれが、80年の時を経て、ようやく判明したスペイン風邪の病原体の正体であった
「スペイン風邪ウイルスのヘマグルチニン(HA)遺伝子の一部のシークエンス(塩基配列)が決定された」というニュースは世界中のインフルエンザ研究者に衝撃を与えた。さらに、ウイルスの表面糖蛋たん白ぱく質HAの全塩基配列が決定されたのは1999年。それは、折しも、私たちがインフルエンザウイルスの人工合成系を発表したのと同じ年であった。その後、Taubenberger博士のグループは、他のセグメントについても、次々とシークエンス解析を進め、2005年までには全てのウイルスゲノムの遺伝子配列を決定した。
ゲノム情報が明らかになれば、私たちの開発した人工合成系によって、スペイン風邪ウイルスを蘇よみがえらせることが可能となる。実際、私たちの研究グループ、および米疾病管理予防センターのグループは、それぞれ、人工的にスペイン風邪ウイルスを合成することに成功した。
病原性には謎も残る
スペイン風邪ウイルスの病原性解析のため、私たちは、サルを用いて感染実験を行った。スペイン風邪ウイルスを接種したサルは、重い肺炎を起こし、呼吸困難に陥った。安楽死させたサルの肺では、感染が全体に広がっており、肺胞の著しい障害とともに肺水腫や出血病変が観察された。その後の詳細な解析から、スペイン風邪ウイルスの病原性には、感染個体における異常な免疫反応が関わっていることが分かった(図2)。
さらに、私たちは、スペイン風邪ウイルスの病原性を決定するウイルス側の因子を調べるために、スペイン風邪ウイルス由来の遺伝子と、病原性の低いヒトの季節性インフルエンザウイルス由来と遺伝子とを組み合わせたウイルスを作成して、病原性解析を行った。その結果、スペイン風邪ウイルスのHAが、スペイン風邪ウイルスの病原性に重要な役割を持つことが明らかとなった。また私たちは、HAに加えて、ウイルスポリメラーゼ蛋白質も、スペイン風邪ウイルスの高病原性に関わるというデータを得ている。しかしながら、これらのウイルス蛋白質が、どのようなメカニズムで病原性を発現するかは未だに不明であるため、今後の研究の展開が期待される。
この記事は2018年11月27日号から転載したものです。本紙では他にもオリジナルの記事を掲載しています。
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