学術

2023年6月27日

【研究室散歩】@複雑系シミュレーション 陳昱教授 複雑系シミュレーションが世界の問題を解決?

陳昱(ちん・ゆ)教授(東京大学大学院新領域創成科学研究科)94年東大大学院工学系研究科システム量子工学博士課程修了。博士(工学)。東大大学院情報学環助教授(当時)などを経て、17年より現職。
陳昱(ちん・ゆ)教授(東京大学大学院新領域創成科学研究科)94年東大大学院工学系研究科システム量子工学博士課程修了。博士(工学)。東大大学院情報学環助教授(当時)などを経て、17年より現職

 

学融合で道開けた

 

 「現象として未解決の問題はほとんどが複雑系。あえて極端な言い方をすれば、それを解決する唯一の手段はシミュレーション」と語るのは複雑系シミュレーションを専門とする陳昱(ちんゆ)教授(東大大学院新領域創成科学研究科)だ。複雑系の離散ミクロモデルの構築と、それを用いたシミュレーションの研究を主に行っている。複雑系とは「複数の要素が相互作用することによって生み出される系(システム)」のことだ。

 

 上海交通大学を卒業後、東大で秋山守教授(当時)の下、修士課程と博士課程を修了した。原子力工学を専攻し流体を専門に選んだ。流体とは原子力発電で非常に重要とされる、定まった形を持たず形状を自由に変化させて流れを生む物質だ。ある日、大橋弘忠助教授(当時)から渡されたのはLGA(Lattice Gas Automaton)による流体のシミュレーションについての論文。従来の流体シミュレーションは自分で偏微分方程式を離散化して解く「人為的な」数値解法だったが、その論文は流体を構成する分子の動きをモデル化してマクロレベルで「自然に」流れが出てくるというものだった。従来とは全く違う解法に新鮮味を感じた。ある物事をシステムの観点から見ることは陳教授にとって初めての研究手法だった。「この方法論は流体だけではなく他のシステム・現象にも応用できるだろうと考えましたが、当時は実現できませんでした」。東大工学部で助手、講師、助教授(当時)として流体シミュレーションの研究を引き続き行った。

 

大橋教授(当時、右)と2007年5月、中国の烏鎮で(写真は陳教授提供)
大橋教授(当時、右)と2007年5月、中国の烏鎮で(写真は陳教授提供)

 

 その後出向した東大大学院情報学環での出会いが転機となった。学際的な研究を掲げる情報学環にはさまざまな分野の研究者たちが集結し、コンピューターサイエンスを横糸に異なる分野をつなげ、学問の境界を拡張しようとしている。そこで経済物理に出会った。「経済物理は物理の手法をそのまま経済現象に当てはめる学問だと考えられがちです。しかしその本質は、全ての物理現象のメカニズムを解析しようとする物理学の精神を経済にも生かすという点にあります」。経済物理を参考にして、流体のシミュレーションに使っている手法を経済システムにも拡張することができた。まさに学生の頃に「LGAによる流体シミュレーションの方法論は他のシステム・現象にも生かせるかもしれない」と考えたことが実現した瞬間だったという。「もしあの時に大橋先生から普通の連続体の流体モデルのシミュレーションの論文を渡されていたら、多分今は全く違う人生を歩んでいたと思う」と語る。

 

立ちはだかる理論構築と実用化のジレンマ

 

 複雑系の分野では、複雑物理、社会経済、生体システムなどの全く違うシステムの創発現象にも共通する階層構造がある。現在、陳教授は複雑流体から生体組織の老化・がん化や金融市場の価格変動、マクロ経済システム、低炭素社会への移行、資産配分システム、そして新型コロナ対策に至るまで幅広い分野を対象に研究を行う。複雑流体や生体組織は「粒子」で構成される複雑システムとしてシミュレーションを行う複雑物理系に、社会経済システムは「エージェント」で構成される複雑システムとしてシミュレーションを行う複雑適応系に分類される。しかし「システム全体のダイナミクスはシステムを構成する要素の振る舞いの細部に影響されない」という前提があるため、離散ミクロモデルを用いてシミュレーションを同様に行うことができるのだ。

 

社会経済、複雑物理、生体システムの創発現象におけるボトムアップ的な自己組織化過程(陳教授提供)
社会経済、複雑物理、生体システムの創発現象におけるボトムアップ的な自己組織化過程(陳教授提供)

 

 複雑系の分野シミュレーションの手法として主に用いられるのは離散ミクロモデルだが、モデル化の鍵はどこにあるのだろうか。「モデルを高度に抽象化することによって現象の本質が浮かび上がり、メカニズム解析が可能になり、理論の構築ができるようになります」。一方で、抽象化することによって現実との乖離(かいり)が起こり、実用性が担保されなくなる。複雑系のメカニズム解析と実用の両立はトレードオフの関係にあるのだ。

 

 また、理論構築には「計算不可約性(computational irreducibility)」の問題もある。例えば、気候システムは境界条件や水圏、大気圏、生物圏などの多数の要素が複雑に相互作用している。一要素でも欠ければシミュレーションは成り立たないが、一方で全ての要素を考慮すると複雑になりすぎて理論の構築はほぼ不可能になってしまう。たとえ理論ができたとしても適用範囲が狭く、時の変化につれて使い物にならなくなることも起こり得る。これが計算不可約性と理論構築のジレンマだ。

 

 このジレンマがあることから、これまで陳教授は複雑系の理論構築を行ってきた。今後は「シミュレーションをすることによって複数の可能性・シナリオを示しながら、経験則を積み重ねて機械学習などを含めた手法で社会で実用化できるようにすることが課題」だという。他分野の文献調査や学会参加、共同研究が欠かせない複雑系の研究。近年はAIの発達によって欲しい情報を効率的かつ簡単に手に入れられるようになり、ますます学融合が進むだろうという展望を示す。

 

システムシンキングの習慣化を

 

 非線形や非平衡な複雑現象のシミュレーションを志す学生には、システムシンキングを早いうちから習慣化してほしいと語る。「何かの現象を見たら、単にその数式を求めることだけではなくその構成要素は何か、構成要素同士の相互作用は何か、そしてその相互作用からどのように複雑な現象が生み出されているのかを考えることを習慣化してほしい」。また、理工系のバックグラウンドがある人にとって統計物理を学ぶことはシステムシンキングを身に付けるのに効果的だという。

 

 陳教授の研究室では学生間、学生と教員間の交流が盛んに行われている。特に新型コロナのまん延以降は、オンラインツールが普及して個人間の交流も増えた。また、陳教授自身も学生から説明が分かりづらいとフィードバックを受けたときには「まずは自分に責任があり、分かりづらいということは自分の説明にロジックが通っていないところがあると反省します。そうして自分を俯瞰(ふかん)的に見ることで自分自身の成長にもつながるのです」と語る。

 

 「トレンドフォロワーじゃなくて少数派になろう」と語る陳教授。AIの時代に突入した今、技術の拡散を制限することはできず、知識は低コストで誰でも手に入れられるものになりつつある。その意味で大学へのインパクトも大きく、学士、修士、博士の価値も揺らいでいる。「大学教育においては問題を意識、発見、解決というステップを身に付けてほしいです。これはどの仕事をするにしても絶対に役に立ちます。そして、ツールが多くの人に行き渡り、得られる知が偏り、同質性が強まっていきつつある社会だからこそ独自性、そして創造性を身に付けてほしいです」(取材・峯﨑皓大

 

 陳昱教授(東京大学大学院新領域創成科学研究科)ちん・ゆ/94年東大大学院工学系研究科システム量子工学博士課程修了。博士(工学)。東大大学院情報学環助教授(当時)などを経て、17年より現職。
陳昱(ちん・ゆ)教授(東京大学大学院新領域創成科学研究科)94年東大大学院工学系研究科システム量子工学博士課程修了。博士(工学)。東大大学院情報学環助教授(当時)などを経て、17年より現職

 

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