文化

2023年4月11日

【100行で名著】奇跡と軌跡「寄り添う人」としてのイエス像 遠藤周作『死海のほとり』

 

 

 

 「私の人生には、毎日、共に暮しても、心に痕跡(こんせき)を残さぬ相手もいたし、たった一度、出会っただけで消し難い思い出を与えた人間もいた」

 

 「イエス・キリスト」と聞いてあなたはどのような姿を思い浮かべるだろうか?奇跡を起こす神の子か。はたまた、ユダヤの民を救済する救い主(メシヤ)か。

 

 本作のイエスはこうした「奇跡の人」としてのイエス像を覆した。男のなえた足を治すこともできず、病気の赤子を癒やすこともできない。始めは救い主として歓待されても、やがて「何もできなかった男」と民衆から罵声を浴びせられ、弟子に見捨てられ、処刑されることとなる……

 

 本作は、主人公の「私」がイエスの軌跡を求めて現代のイスラエルを巡る〈巡礼〉の章と、過去のイスラエルでイエスと出会った6人の男を描く〈群像の一人〉の章が、交互に描かれる。過去と未来、二つの異なる物語が交錯し、やがて旋律のように重なり合っていく。

 

 〈巡礼〉は、戦時下の弾圧でキリスト教を棄(す)てかけた「私」の物語である。「私」は見失ったイエスの姿を見出すため、イスラエルに住む大学時代の友人「戸田」と共に聖地を巡礼する。しかし、そこにもはやイエスの軌跡は残っていなかった。そんな旅の中、「私」は大学にいたユダヤ系ポーランド人修道士のコバルスキを思い出し、気になりだす。臆病で、卑怯で、貧弱な体の彼は「ねずみ」と呼ばれていた。日本を去ったのちに、ゲルゼン収容所に連行され、死んだというねずみ。「私」の旅はやがてねずみの最期を追うものになっていく。

 

 一方〈群像の一人〉では、イエスと人生が交わった6人の男の目線でイエスが描かれる。イエスに病気の娘を治せとすがった「奇蹟を待つ男」アンドレア、「イエスの弟子」アルパヨ、「大祭司」アナス、イエスを裁いた「知事」ピラト、イエスと共に十字架を担がされた「蓬(よもぎ)売りの男」ズボラ、イエスの処刑を行った「百卒長」……いずれも、聖書では光の当たらない人々だ。

 

 イエスが人生を横切ったこの6人の男たちは皆、生きるためにイエスを見捨てた。しかし、彼らの人生に間違いなくイエスは跡をつけた。6人の男が見たイエスの姿はひどくみすぼらしい。重い皮膚病の患者や手のなえた者、盲人の目を癒やして、奇跡を起こす男はそこにはいなかった。イエスはただ、病人を愛し、共に眠り、孤独に寄り添い続けた。無力で、惨めで、優しい人であった。「奇跡の人」ではなく、「寄り添う人」であったのだ。

 

 「私」はやがて、収容所時代のねずみをよく知る人物イーガルに出会う。彼はねずみの最期をこう語る。「その時、私は一瞬一瞬ですが、彼の右側にもう一人の誰かが、彼と同じようによろめき、足を曳きずっているのをこの眼で見たのです」

 

 コバルスキはどのような最期を迎えたのか。イエスはなぜ死んだのか。そして「私」は、旅の果てにどのような「イエス」を見つけたのか。ぜひ、本作を読んで確かめてほしい。【舞】

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