文化

2024年8月2日

【後編】ホームズシリーズはなぜ愛されるのか 『ストランド・マガジン』とコナン・ドイルの魅力に迫る

ホームズサムネ

 

  1887年から1927年にかけて60作品(長編4作、短編56作)が発表されたシャーロック・ホームズシリーズ。並外れた推理力と大胆な行動力を持つ探偵ホームズと、相棒ワトスンのコンビが難事件を鮮やかに解決していく姿に、ロンドン中の人々が熱狂した。第1作目が発表されてから140年近くたった今も世界中で愛され続けており、現在では約90の言語に翻訳されている。今年は同作の生みの親アーサー・コナン・ドイルの生誕165周年、さらにはホームズの生誕170周年とされる。

 

 後編では、ホームズシリーズを掲載した『ストランド・マガジン』のホームズシリーズへの影響、そして著者コナン・ドイルの人生に迫る。シャーロキアンであり、『シャーロック・ホームズで学ぶ英文法』(アスク出版)を共同執筆した西村義樹教授(東大大学院人文社会系研究科)と、日本シャーロック・ホームズ・クラブの主宰者であり、ホームズシリーズの翻訳を手掛ける東山あかねさんに話を 聞いた。(取材・本田舞花)

(本文中の、ホームズ作品からの引用は全て『シャーロック・ホームズ全集』(小林司・東山あかね訳、河出書房新社)による)

 

【前編はこちら

ホームズシリーズの登場人物と作品の魅力に迫ります

【前編】ホームズシリーズはなぜ愛されるのか 名探偵ホームズとホームズシリーズの魅力に迫る

 

東山あかね(ひがしやま・あかね)さん/日本シャーロック・ホームズ・クラブ主宰者。主な著書・訳書に『シャーロック・ホームズ全集』(共訳、河出書房新社)、『シャーロック・ホームズ入門百科』(共著、河出書房新社)など。
東山あかね(ひがしやま・あかね)さん/日本シャーロック・ホームズ・クラブ主宰者。主な著書・訳書に『シャーロック・ホームズ全集』(共訳、河出書房新社)、『シャーロック・ホームズ入門百科』(共著、河出書房新社)など。
西村義樹(にしむら・よしき)教授 (東京大学大学院人文社会系研究科)/89年東大大学院人文科 学研究科(当時)博士課程退学。文学修士 。認知言語学の観点から日本語と英語の文法現象を分析。東大大学院総合文化研究科専攻助教授(当時)を経て、12年より現職。 東京言語研究所講師、23年より運営委員長。 主な著書に『言語学の教室:哲学者と学ぶ認知言語学』(共著、中央公論新社)など。
西村義樹(にしむら・よしき)教授 (東京大学大学院人文社会系研究科)/89年東大大学院人文科 学研究科(当時)博士課程退学。文学修士 。認知言語学の観点から日本語と英語の文法現象を分析。東大大学院総合文化研究科専攻助教授(当時)を経て、12年より現職。 東京言語研究所講師、23年より運営委員長。 主な著書に『言語学の教室:哲学者と学ぶ認知言語学』(共著、中央公論新社)など。

 

掲載誌『ストランド・マガジン』が与えた影響

 

 19 世紀末、ロンドン。新聞や大衆誌が人気を博した時代。新聞『タイムズ』は教養のある読者層を狙い、『挿絵入りロンドン・ニュース』は『タイムズ』では難しいと感じる読者層を狙った。現在も発行されている科学雑誌『ネイチャー』が多くの読者層を獲得したのも、この時代である。ホームズシリーズの掲載誌『ストランド・マガジン』もこの頃誕生した。同誌について見ていく。

 

大衆誌『ストランド・マガジン』

 

『ストランド・マガジン』表紙
『ストランド・マガジン』表紙

 

 1891年1月に発刊された『ストランド・ マガジン』はエッセイや短編小説を掲載 し、ほぼ全ての見開きページに大きな挿絵を掲載した大衆誌である。創刊に関わったジョージ・ニューンズは81年に情報誌『ティット・ビッツ』を創刊し、創刊1年で部数10万部を超えるヒットを生み出したやり手の編集者であった。さらなる読者を獲得するため、彼が次に目指したのは、小説人気の高まりに応じた雑誌だった。

 

 『ストランド・マガジン』91年7月号で無名の作家アーサー・コナン・ドイルの連載が開始。掲載作品「ボヘミアの醜聞」はロンドン中で話題を呼んだ。その後1927年までの36年間、計56作品がシャーロック・ホームズシリーズとして連載され、『ストランド・マガジン』の看板作品となった。91年7月号の掲載作品の一部を見てみよう。美術エッセイ「タブロー・ヴィヴァン」、「裁判所ルポ第四回、犯罪法廷」、ハンガリー語からの翻訳短編「手紙の束」ー。さまざまなエッセイ・小説が掲載されている(題名は全て富山太佳夫著『シャーロック・ホームズの世紀末』(青土社)による)。 その中で「ボヘミアの醜聞」は15ページ、 挿絵が9枚で号の中で最大の分量の作品だという。英国では1870年に基礎教育法が敷かれたことで識字率が上がり、気軽に読める小説やエッセイの需要が高まっていた。ジョージ・ニューンズのもくろみは大当たりであった。『ストランド・マガジン』の寄稿者にはアガサ・クリスティ、トルストイ、H・G・ウェルズ、サマセット・モームなど19世紀を代表する小説家たちが名を連ねるようになる。ホームズ人気が高まるにつれて人気雑誌としての地位を確立していったのだが、ホームズの連載終了や第二次世界大戦中の紙の配給制限、不景気などにより徐々に資金調達が困難になり1950年に廃刊となった。

 

「ボヘミアの醜聞」(『ストランド・マガジン』より)
「ボヘミアの醜聞」(『ストランド・マガジン』より)

 

挿絵画家シドニー・パジェット

 

 さて、「シャーロック・ホームズ」というとどのような姿を思い浮かべるだろうか? 多くの人は鹿撃ち帽にインバネスコートを身に着け、湾曲したパイプをくわえた神経質そうな顔立ちの男性を思い浮かべるだろう。この姿は、物語本文には出てきておらず、『ストランド・マガジン』の挿絵画家シドニー・パジェットが描いたイラストが、ホームズのスタイルとして定着したものだ。ただし、当時はまっすぐなパイプが一般的であった。大きくU字に湾曲したキャラバッシュ・パイプは英国の俳優ウィリアム・ジレットがせりふをしゃべっても邪魔にならないという理由で用いたものがホームズのイメージとして広まったとされる。

 

鹿撃帽とインヴァネスコートを身につけるホームズ(右)(『ストランド・マガジン』より)
鹿撃帽とインヴァネスコートを身につけるホームズ(右)(『ストランド・マガジン』より)

 

医師で作家でスポーツマン コナン・ドイルの生涯とは

 

 ホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイルは、エディンバラ大学医学部を卒業した開業医であり、歴史小説やSF小説を多く残した作家でボクシングやクリケットなどを得意とするスポーツマンでもあった。そして、騎士物語を愛し騎士道精神を生涯貫いた典型的な英国紳士であった。最後に彼の生涯を振り返ってみよう。

 

アーサー・コナン・ドイル
アーサー・コナン・ドイル

 

貧困の中の幼少期 苦難の日々

 

 ホームズシリーズの作者ドイルは、1859年にスコットランドのエディンバラのカトリック教徒の家庭に生まれた。父チャールズ・アルタモント・ドイルは土木技師として働きつつ本の挿絵などを描いていたが、アルコール依存症に陥り暴れるようになったため、精神病院に入院。その後各地の病院や施設を転々とした。一方母メアリは教育熱心な女性で、ドイルに幼い頃から中世の騎士物語や英雄たちの伝説を語り聞かせ、騎士道精神をたたき込んだという。成長したドイルはボクシングやクリケット、スキー、ゴルフと多様なスポーツを好むフェア・プレイ精神の持ち主になった。エディンバラ大学の医学部に入学したドイルは経済的困窮の中でアルバイトに精を出しなんとか卒業。翌年医院を開業するが患者がなかなか来ず、貧しい生活を送った。暇を持て余し「緋色の研究」を書き上げ、出版社に送るがたらい回しに。1年半後の87年に雑誌『ビートンズ・クリスマス・アニュアル』に掲載されるが、話題にはならなかった。しかし89年に「緋色の研究」に目をつけた米国の雑誌『リピンコット・マガジン』から第2作目の執筆を依頼され「四つの署名」を発表するが、こちらもあまり話題にならなかったという。

 

「緋色の研究」(『ビートンズ・クリスマス』より)
「緋色の研究」(『ビートンズ・クリスマス・アニュアル』より)

 

人気作家としての栄華 母との確執

 

 2年後、『ストランド・マガジン』1891年7月号に「ボヘミアの醜聞」を掲載しホームズの短期連載を開始したところ、ロンドン中で大きな評判となった。この成功を受け、ドイルは医院をたたみ、作家として生きる決意をする。ドイルが人気作家として活躍する一方で、母メアリはドイルの先輩医師であり15歳年下のウォーラーと婚外恋愛の関係になっていた。ビクトリア朝時代の英国で は家族のスキャンダルは作家としての名声に関わるため、ドイルは生涯この事実を隠さなければならなかった。東山さんはドイルの母親への複雑な感情が作品に表れていると指摘。ドイルは連載第1作目の「ボヘミアの醜聞」や第2作目の「花婿失踪事件」の原稿を母メアリに送り意見を求めている。「母のスキャンダルを生涯抱え続けたドイルはつらかったでしょうね。栄誉ある連載第1作目の題名に「醜聞」と入れたこと。そして、「花婿失踪事件」の依頼人メアリに『母が、十五歳近くも年下の男の方と早すぎる再婚をいたしました時には、あまりいい気持ちはいたしませんでした』と語らせたこと。この二つは、母の行為をドイルが快く思っていなかったことの表れでしょう」

 

歴史小説の執筆 ホームズへの忌避

 

 歴史小説が自分の本領と考えていたドイルは、ホームズ人気が高まるにつれて徐々にホームズを忌避するようになった。「マイカ・クラーク」(17世紀後半のイングランド王チャールズ2世の庶子モンマスの反乱を描いた歴史小説)や「白衣の騎士団」(百年戦争を舞台にエドワード黒太子に使えた傭兵隊「白衣隊」の活躍を描く)といった歴史小説を執筆し、ある程度評判にはなったが、ホームズ人気には及ばなかった。ホームズシリーズ計23作品を執筆後、休載期間を経て連載を再開するが、『ストランド・ マガジン』93年12月号に掲載された「最後の事件」でホームズは宿敵モリアーティと共にライヘンバッハの滝に転落し、死亡したとされた。名探偵の突然の死に嘆き喪章をつけて喪に服する読者もいれば、怒り狂いドイルに対して脅迫文を送る読者もいた。94年から「勇将ジェラール」(ナポレオンの名剣士ジェラールの活躍を描く冒険歴史小説)シリーズの連載を開始し、かなり人気の作品となったが、ホームズ人気は衰えず、ホームズ連載再開を求める声はやまなかった。

 

ライヘンバッハで戦うホームズとモリアーティ(『ストランド・マガジン』より)
ライヘンバッハで戦うホームズとモリアーティ(『ストランド・マガジン』より)

 

名探偵の帰還 ドイルの活躍

 

 1901年には「最後の事件」よりも前に起こった事件という設定で長編「バスカヴィル家の犬」を連載。03年の「空き家の冒険」では、ホームズの死から約3年後を舞台とし、実はホームズはバリツを使ってモリアーティ教授だけを滝つぼに落とした後、身を隠して生きていたことが明らかになる。その後も連載を続け、「踊る人形」 や「6つのナポレオン」など、現代でも人気の高い作品を生み出し、27年4月の「ショスコム荘」で連載を終えた。

 

 また、ドイルの活躍は作家としてのみに 止まらない。03年には「エダルジ事件」、08年には「オスカー・スレーター事件」 といった冤罪(えんざい)事件を解決した。家畜殺害事件の容疑者とされた、インド系のエダルジ。老婦人撲殺(ぼくさつ)事件の容疑者とされた、ユダヤ系のスレイター。どちらの冤罪も、人種差別が背景にあった。ドイルは筆跡鑑定や凶器の分析など徹底的な操作を行い、警察のずさんな捜査を否定した。警察の腐敗を是正するため人種差別に立ち向かったドイルを突き動かしたものは、まさしく「騎士道精神」だろう。

 

 大英帝国の繁栄期・ビクトリア朝は女性にとっては苦しい時代でもあった。未婚の女性は住み込み家庭教師(ガバネス)かタイピストとなる以外には自立の道がほぼ閉ざされており、裕福な男性の妻となることが幸せと考えられていた。しかも結婚しても、夫側に問題があっても妻の方からの離婚申立ては一切認められない、という非常に不利な立場に置かれていた。ドイルは離婚法改正協会の会長に就任し、離婚法の改正にも尽力したという。

 

心霊主義への傾倒SFの執筆

 

 1912年には初のSFであるチャレンジャー教授シリーズを執筆。チャレンジャー教授が古代生物を探しアマゾンを探検する第1作目「失われた世界」は古典SFとしての評価が高い。第3作目「霧の国」では、超常現象に懐疑的であったチャレンジャー教授が調査を始め、最終的に死後の世界の存在を認めるという、スピリチュアリズムが色濃く表れた作品となっている。

 

 ドイルは心霊現象研究協会(1882年設立)に入会し熱心に活動した。スピリチュアリズムに引かれた人々には、暇を持て余した貴族や苦しい生活を送る労働者に限らず、ドイルのような中流知識人も多く含まれていた。ドイルは晩年には長男キングズレーや弟イネスが第一次世界大戦で亡くなったことで、より一層心霊主義に熱中するようになる。ホームズ作品で稼いだ私財を湯水のごとく投じ、各国で講演を行い心霊主義関係の本を執筆した。科学的な捜査手法を行う探偵ホームズの生みの親であるドイルが、スピリチュアリズムにのめり込んでいったのは一見相いれないように思え る。西村教授は、ドイルを「自分では複雑だと思っていなかったが、複雑なところがある人」だと評価する。「保守的で伝統を重んじていたが新しいものに挑戦していく 柔軟さを持ち合わせており、スピリチュアリズムへの傾倒もその一つだったのではないでしょうか」。伝統と革新、科学とスピリチュアリズム、 暗い過去と作家としての栄華。相対する属性の間で揺れ動いたドイルは、生涯を通じて騎士道精神を貫き続けた。

 

 ドイルの墓にはこう刻まれている。

“Steel True, Blade Straight Arthur Conan Doyle

―鋼のごとく真実で、刃のごとく まっすぐなアーサー・コナン・ドイル―”

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