震災から4年と5ヶ月。
岩手県陸前高田市米崎町で牡蠣の養殖を営む佐々木商店を訪れた。代表の佐々木学さんは、親子3代続く牡蠣漁師。漁師になって10年になる。今回は佐々木さんが企画する「浜の繋がリズム」という漁師体験ツアーに参加させてもらった。
佐々木さんの船に乗って海に出る。この広田湾では牡蠣の他にワカメやコンブ、ホヤ、エゾイシカゲガイなどが獲れるという。磯の香りと強い日差しの中顔に当たる風が気持ち良い。船から陸前高田の街並みを眺めると、空と山、海のブルーと、土地のかさ上げ用盛り土のベージュ色のコントラスト。かさ上げ途中の土地には、使用する土を運ぶためのベルトコンベアが張り巡らされている。そして不自然に平坦な山。少し前までは、土地のかさ上げに必要な土を用意するため山を爆破するダイナマイトの音が毎日のように鳴り響いていた、と佐々木さんは言う。また、北海道から土や砂を運ぶ船が海を行き来していたという。約12メートルにも及ぶかさ上げは今年秋には完成し、ベルトコンベアもその役目を終わる。
牡蠣の成長を妨げるムラサキガイの駆除のための温湯処理に遭遇した。この時期になると、クレーンで牡蠣株を1つ1つ約60度のお湯にくぐらせる。そうすることで牡蠣の実入りが良くなり、良質の牡蠣を育てられるという。20歳の青年もこの作業を行っていた。佐々木さんは、若者の育成にも力を入れている。
「労働と賃金のアンバランスや労働環境、漁業の古い体質から漁師に興味をもつ若者が少ないんですけど、漁師も販売に力をいれられるようにしたり、2年の研修制度を設けて漁業に触れるのが初めての人でも漁師になれるような仕組みを作ったり、外からどんどん人を呼び込む仕掛けづくりをしています」
通常は冬が旬の真牡蠣の養殖を行っているが、現在佐々木さんは旬の季節が夏である岩牡蠣の養殖に挑戦している。今年で養殖し始めて3年目、食べられるようになるまで4~5年程要するという。その一つを味見させてもらうと、とてもクリーミーで慣れ親しんでいる真牡蠣よりもギュッと味が詰まっている感じがした。
4年前の地震発生直後、佐々木さんは津波を見越して、身の危険を案じながらも養殖用の船を沖にある養殖いかだに縛りつけに行った。おかげで、船にはそれほど損傷はなかったという。佐々木さん自身も無事だった。しかし出荷工場や港の作業場は津波に流されてしまった。養殖業を再開できるようになるまでに約1年かかった。
震災前は漁師が販売に関して意見をすることはなく、漁師の仕事は収穫した牡蠣を漁業組合に出荷するところまでであった。しかし、震災によって出荷が停止し、市場から米崎産の牡蠣が姿を消した。約1年後、市場に復帰することができたが、人々は米崎産の牡蠣を忘れてしまっていた。なんとか人々に良質な米崎産の牡蠣を思い出し、食べてもらいたい。佐々木さんはそんな思いから、当時の漁業界では異例であったが、箱の表示に工夫を施したり、地元岩手のデザイナーの協力のもとパンフレットやポスターを作ったりして、自らマーケティングを行うようになった。また、全国からのボランティアの人々と交流したり、たくさんの励ましを受けたりしたなかで、人と人との繋がりの大切さを実感したことから、直接自分の育てる牡蠣を人々に届けたい、米崎の牡蠣の良さを伝えたいと思うようになったという。震災後、東京の飲食店への直卸しも増やすようになった。
「震災後、様々な人との交流が増えたことで、閉鎖的だった漁業の雰囲気が随分開放的になりましたね。以前は一般の人が作業場を見学に訪れることも禁止されていました。しかし現在では他の漁師さんもツアーの参加者を温かく迎えてくれているんですよ。外部からもっと人を呼び込み、そうした中で若い人にも漁業に興味を持ってもらいたいと思っています。また人との繋がりという観点に関して漁師どうしの横の連携を強めることで、陸前高田全体の漁業が盛り上がっていけばいいなと思います」
陸前高田の水産業に新しい風を吹き込んでいる佐々木さん。更地となり、無機的に土地のかさ上げが進んでいるように見える沿岸部の陸地を背景に、人と人との繋がりを通して水産業、そして陸前高田の復興に取り組む佐々木さんや他の漁師さんたちの活き活きとした顔が印象的であった。
(文責 新多可奈子)