旅の成果
日本に無事に帰ってこられた。よほど精神的に堪えたのだろうか、帰国して3日間、高熱に冒された。しかし、この旅行で得られたものは実に多かった。
一つ目に、自分の学びたいことを見つけられたということがある。まず、現地の多民族性に心から驚かされた。ウズベキスタンは、ウズベク人だけの国ではない。サマルカンドの家族は、タジク系で、テュルク系のウズベク語よりもイラン系のタジク語を能くしていた。その家族の親戚にはドイツ系の人間がいた。歴史的にヴォルガ沿岸を開拓してそこに定住したドイツ人は、第二次世界大戦前夜、スターリンの下で中央アジアに強制移住させられた過去がある。
また、サマルカンドにはユダヤ人のコミュニティがあったし、タシュケントのホテルマンの一人は、アルメニア系の男性だった。バザールでは、朝鮮系住民がキムチやナムルを並べていた。彼らは、ドイツ人と同様にスターリン時代に対日協力の嫌疑をかけられ極東の沿海州から強制移住させられた朝鮮人の子孫であった。
「今まで世界地図や世界史の教科書でしか知ったことのないところは、こんなに面白かったのか!」と、素直に感動した。もっと知りたいと、素直に思った。中央アジア、延いては旧ソ連やその他の多民族国家の歴史を本格的に学ぼうと決意する、決定的なきっかけになった。
二つ目に、言葉が通じなかったことの悔しさがある。本当に悔しかった。彼らが何を話しているのかもっと理解したい、そういう思いに駆られ、冬学期からは語学に真剣に取り組んだ。三つ目に、度胸がついたということがある。どこへ行ってもどうにかなるはずだし、自分ならどうにかできる、という度胸である。
やりたいことが見つかった
一年夏の旅行を出発点に、その後は着々と勉強してきた。語学に向いていることを知り、とりわけロシア語の能力はどんどん上がった。因みに、その後、助けてくれた方々にお礼をしにウズベキスタンを再訪したし、日本語教師ボランティアとして中央アジアに赴いたこともあった。結局、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの中央アジア4カ国を訪れている。
3年生のとき、駒場時代にロシア語を教えてくださった先生などと、学部学生の間にロシア留学をすることの是非について相談を重ねた。そこで、中央アジアやコーカサスについて学ぶ機会と、関連文献とに恵まれているサンクトペテルブルグ国立大学東洋学部への留学を決意した訳である。
振り返ってみるに、「なんとなく」の連続の結果、今の自分があるように思える。何か、決定的なきっけかを見つけられるまでは、この「なんとなく」は仕方のないものだとさえ私は思っている。私はこの「なんとなく」自体は否定しない。しかし、過去の私が、「国連に入る」「世界銀行で働きたい」「社会主義に興味がある」「経済学を修めたい」と虚飾を重ねたように、その「なんとなく」のプロセスを尤もらしく見せているだけでは良くないと思う。
「なんとなく」のプロセス自体は条件付きで重要である。それを重要なものと見做してよいのは、そのプロセスから抜け出そうと試行錯誤をして、結果的に出発点を見出せたときからだと思う。そして、「なんとなく」の段階を抜け出して、努力を始めたあとにも、また新たな「なんとなく」が待っている。私はいま、大学卒業や大学院入試に必要な論文の執筆において、「なんとなく」の状態からまだ抜け出せていない。
なぜナショナリズムに関心があるのか
しかし、これだけでは、語学能力の飛躍的向上と論文に用いる史料収集とを目的にロシアへ赴く理由を説明しきったことにはならない。というのも、なぜ、自分が多民族国家やナショナリズムに関心を抱いているのかということについてまだ話していないからである。
理由は単純である。確実に、私の出自に起因している。私は今でこそ便宜上の理由で日本国籍をもっているが、生まれたときは在日コリアン4世であった。だが、祖父母ですら韓国朝鮮語を知らない。キムチの消費量も人並みである。相当程度ジャパナイズされているといってよいだろう。
民族学級での経験
しかし、大阪市の公立小学校にいたときに、理不尽極まりない経験を味わったことが、今後の自己の思考形成に大きく寄与することとなった。
入学直後、半ば強制的に民族学級に参加させられた。大阪は、歴史的に在日コリアンの多い地域である。それゆえに、民族学級が設置されている小学校が多い。そこには、(言説としての国民国家が日本列島に形成されて以降、日本に移住した)朝鮮半島にルーツのある人の子孫が集まるのである。私も毎週水曜日の放課後の1時間、チマチョゴリを着たソンセンニム(韓国朝鮮語で「先生」)に朝鮮文化を学ばされたり、楽器の練習をさせられたりした。
小学生の自分としては、単純に、友だちと遊ぶ時間が削られるので、面倒だとしか感じていなかった。しばしば、先生に「今日は行きたくない」と文句を言ったものである。すると、必ずと言ってよいほど「君は向こうの血ぃ入ってんねんからとても大切なことなんやで」「在日としての誇りを持たんとあかん」などと返された。自分の考えを上手く言葉に表せなかった当時の自分は、どうもすっきりしない気持ちになった。
また、民族学級に所属していた女の子が、帰化をしたいと言い出すと、ソンセンニムが急に不愉快そうな顔つきをして「それは良くない。なんでそんなことをするん?民族の誇りを大切にしやな」と言ったことを今でも覚えている。加えて、私がそこで女の子と口喧嘩をしていたとき、別の男性のソンセンニムが「同じ民族どうしで喧嘩したらあかん」と言って私を叱った。
他に例を挙げると枚挙に暇がないが、こうした発言は、今から考えると全く以て意味不明である。「国籍」「民族」「血」などといったものを自明視して、それらを無批判に信奉する本質主義的民族主義に立脚している点で、彼らは排外主義的極右と質的には何も変わりがなかった 。考えを上手く言語化できない小学生の頃の自分がこのように思い至る由などあるはずもないが、子どもながらに疑念を感じていたのは紛れもない事実である。
異質な存在であること
それ以外に、年に一度全校生徒の前で朝鮮半島の伝統音楽の演奏をさせられた。もちろん嫌々やっていた。社会見学で車椅子バスケットボールの日韓親善試合を観戦しに行った際には、私の意思に反して、担任教師によって韓国側を応援するように仕向けられた。加えて、私が、教員らと両親の話をするときに、彼らはわざわざ「オモニ」「アボジ」という言葉を使った。私は両親のことをそんなふうに呼んだことは一度もない。
教員らに悪意は決してないのだが、率直に言って、勘違いも甚だしかった。自分は常に、「純血」の日本人との異質性をアピールする存在でいることを、彼らによって暗に要求されていたのである。すると、無垢ゆえに残酷な幼い子どもは、こうした異質性に対して、時に酷く敵対的になる。結果、私は、差別的発言、差別的待遇を受ける羽目になった。それがトラウマとなって、小学校卒業を機に大阪から横浜へと移る際に、私の名前は、朝鮮風の読みから日本風の読みへと変わっていた。
18のときに、帰化をした。一般的に、在日コリアンの戸籍を調べ上げるのは煩雑さを極めるので、帰化に必要な戸籍謄本を用意するために 行政書士を雇った。その上、日本国籍を取得するのに1年近い時間を要した。日本国籍を取得して、法的には正真正銘の日本人となった自分はどうであったか。
何も変わったことはなかった。ただ、外国人登録証明書の携帯が不要となり、二十歳になれば選挙権・被選挙権を取得し、ジャパン・パスポートを手に入れることができるようになっただけの話である。自分の出自は、変更できない。私は、こんな調子で、帰化後に軽いアイデンティティ・クライシスに陥った訳であるが、今のところ、「朝鮮系日本人」としての自己を受け入れることができている。
ナショナリズムへの関心
そんな子ども時代を送ってきたから、ナショナリズムや多民族国家に関心をもつのは、自然なことのように思える。
例えば、中央アジアには、部族的伝統の下で生きてきた様々な遊牧民集団と、それぞれのオアシス都市に別個の所属意識を抱いていた定住民とが暮らしていた。帝政ロシア末期から既に都市の知識人の間で、ナショナルな意識の萌芽はある程度見られていたのだが、ソ連時代初期に、その広い領域に民族と民族共和国境界とが政府主導で設定されると、現地民の間で、原初主義的民族史観が短期間で受容されるようになるのである。
急激に湧き上がるこうした民族主義的意識は、中央アジアのみならず他の地域でも見られることである。それは、資本主義の興隆、出版文化の発達、それに伴う正書法の設定などを経て、長い歴史的スパンの中で醸成されてきた西欧型のナショナルな意識とは異なる。こうしたところに私は強い関心を抱いている。ゆえに、私は既述のことを専門としているのである。
散々、自分語りをしてしまったことを、どうか許していただきたい。しかし、これで以て留学生活について語る下ごしらえはできたと思う。(続く)
(文・写真:李優大)