学術

2021年9月28日

東大と量子コンピュータ ①産学連携研究

 

 東大とIBMは7月27日、日本初の商用量子コンピューティング・システム「IBM Quantum System One」の稼働を開始した。東大が同システムの占有使用権を有し、量子イノベーションイニシアティブ協議会(図1)の参加大学・企業との連携の下、研究・教育のために利用できる。今回はIBM東大ラボの井元信之特命教授(東大特命教授室)に量子コンピュータを利用した産学連携研究について話を聞いた。(取材・上田朔)

 

量子イノベーションイニシアティブ協議会(QII)参加メンバーの企業および大学。(QIIホームページを基に東京大学新聞社が作成)

 

少数の量子ビットでも応用の可能性あり

 

 古典コンピュータのビットは0か1の値をとることができるが、量子コンピュータのビット(以下「量子ビット」と呼ぶ)は0と1の2状態をベクトルとして重ね合わせた状態もとることができる。つまり1量子ビットの状態は2次元のベクトルで表せるということだ。量子ビットの数が2個、3個、4個と増えると、全体の状態を表すベクトルの次元は4次元、8次元、16次元と指数関数的に増加する。このように、多数の要素から成る量子系をシミュレートするには膨大な大きさの次元を扱う必要があり、計算量が急激に増えてしまう。

 

 逆に、量子系自身に計算を行わせれば古典コンピュータと比べてはるかに高速に計算できるだろうというのが量子コンピュータのアイデアだった。例えば量子系のシミュレーションはもちろん量子コンピュータで高速に計算できる。他にも、古典コンピュータではN桁の整数を素因数分解するのにNの準指数の計算時間がかかるところを、Nの3乗程度の時間で素因数分解できる量子アルゴリズムも見つかった(図2)。しかし「古典コンピュータと比べて指数関数的に高速な計算をできる問題に固執した結果、非常に大きな技術的困難にぶつかり、2000年ごろの世界的な量子コンピュータブームは去ってしまいました」と井元特命教授は振り返る。

 

桁数Nの整数を素因数分解するには、最も高速な古典アルゴリズムでも計算量がNに対して準指数的に増加する。一方、量子アルゴリズムではNの3乗程度以下の計算量で済むアルゴリズムが見つかっており、巨大な整数の素因数分解では量子アルゴリズムが圧倒的に速くなる

 

 「今年出た論文によると、量子コンピュータが2000万量子ビットを持つようになると、スパコンでもできない2048ビット(10進数で約600桁)の素因数分解が数時間でできると見積もられています」。しかし今回川崎市に設置された量子コンピュータは27量子ビットなので巨大な整数の素因数分解をするには数がはるかに足りない。

 

 さらに問題なのは量子誤り訂正だ。量子ビットの状態は外界の影響を受けて壊れてしまうので、有限な時間しか情報を保持できない。そこで量子誤り訂正では複数の量子ビットを結合して「論理量子ビット」を作り、全体で1個の量子ビットと同じ役割を担わせ、一部の量子ビットの寿命が尽きても情報を修復できるようにする。「論理量子ビット1個あたり最低でも5個の量子ビットが必要なことが分かっているので、必要な量子ビット数が1桁程度増えます。計算を行うにはこれらの量子ビットに操作を加えることになりますが、そのための量子回路も非常に複雑になってしまいます」。川崎市に設置された「IBM Quantum System One」は量子誤り訂正もできない。

 

 では、なぜ27量子ビットの量子コンピュータに企業が注目しているのか。井元特命教授は「少ない量子ビット数では指数関数的に高速な計算はできませんが、実用的に従来のコンピュータより優れた性能を出せる可能性があります」と指摘する。「以前は1マイクロ秒(100万分の1秒)にも満たなかった量子ビットの寿命は、今では100マイクロ秒(1万分の1秒)を超えています。そこで、量子コンピュータと古典コンピュータを繰り返し交互に使い、量子コンピュータを使う時間が一度に100マイクロ秒程度でいいようにすれば、古典コンピュータだけで計算する場合よりも高速に計算できるのではないか、というアイデアが提唱されました」

 

 井元特命教授はVQE(変分量子固有値ソルバー)を例に挙げた(図3)。これは物質科学への応用が期待されているアルゴリズムで、物質中の電子の基底状態(最もエネルギーが低い状態)や第一励起状態(2番目にエネルギーの低い状態)のエネルギーを計算するのに役立つ。「化学系の企業の基礎研究では新物質の探索が行われていますが、VQEは物質探索のツールとなるはずです」

 

VQEでは古典コンピュータがパラメータθを変更し、θに対応する量子状態のエネルギーを量子コンピュータが計算する。この計算を繰り返すことでエネルギーが最小となる基底状態を見つける

 

 複雑な分子の基底状態のエネルギーを求めるには、あるパラメータで指定される量子状態をつくり、そのエネルギーを計算する。パラメータをさまざまに変化させてエネルギーが最も低くなるようなパラメータが見つかれば、その時のエネルギーが基底エネルギーの近似値となるわけだ。VQEでは量子状態を構成してエネルギーを計算する作業を量子コンピュータが実行し、パラメータを変更する作業を古典コンピュータに行わせる。

 

 「27量子ビットで計算できるのは簡単な分子の電子状態に限られており、古典コンピュータでも十分計算できるようです。しかし、VQEは少ない量子ビット数でも物質探索に役立つ可能性があり、量子コンピュータの性能が上がればVQEが古典コンピュータを越える時代があと2、3年ほどで訪れるのではないかと考えています。だからこそ、まだ27量子ビットしかなくても今から企業は量子コンピュータに投資し、人材の雇用を始めているのだと思います。今から始めないと遅いのです」

 

 米国にあるIBMの量子コンピュータはオンラインで日本から使用することもできる。それでは、川崎市に設置された「IBM Quantum System One」を使用する意義とは何だろうか。「第一のメリットは、川崎の量子コンピュータは東大や量子イノベーションイニシアティブ協議会の参加メンバーしか使えないので待ち時間が少なくて済むことです。米国のハードウェア実機には世界中のユーザーがジョブを送っているので、待ち時間が実際の演算時間よりはるかに長くなってしまいます」。加えて、井元特命教授は実際にハードウェアを見られることの意義を挙げた。「今まで量子コンピュータに遠隔でジョブを送っていた人達も、本体を見て湧き出る質問を次々と発し、ますます研究意欲を高めているようでした。実機が多くの人の目に触れることでこの分野が広がってゆくことを期待しています」

 

井元信之(いもと・のぶゆき)特命教授(東大特命教授室)  90年論文博士(東京大学)。工学博士。大阪大学教授などを経て20年より現職。

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