学術

2021年9月29日

東大と量子コンピュータ ②量子教育

 

量子技術を世界で引っ張っていける人材を

 

 2019年に東大はIBMとアカデミック・パートナーシップを締結し、量子コンピューティングの教育を推進してきた。東大の量子イニシアティブ構想の中で、量子教育は柱の一つとして重要視され、人材育成のため量子ネイティブ育成センターが設立された。今回は21年度Sセメスターに量子コンピュータ実習の授業をした寺師弘二准教授に量子教育について話を聞いた。

(取材・安部道裕)

 

物性物理や素粒子物理、化学、薬学に応用

 

 量子コンピュータと従来のコンピュータで最も異なるのはビットの性質だ。古典ビットは0か1どちらかの値しか取らないが、量子ビットはその任意の重ね合わせの状態も取り得る。量子ビットの作り方にはさまざまな種類があり、光量子コンピュータは光を、イオントラップ型量子コンピュータはイオン化させた原子や分子を量子ビットとしている。量子ビットの状態を操作する量子ゲートを実行する方法も、量子ビットによって異なる。今回川崎市に設置された「IBM Quantum System One」は超伝導量子コンピュータと呼ばれるもの。「非常に小さな電子回路を量子ビットにしていて、温度を十分に下げて外界から隔離すると、原子のようにエネルギーが量子化されます。その最もエネルギーの低い基底状態とその上にある励起状態を量子ビットの0と1として扱っています」

 

 「量子コンピュータの構造は階層的になっています。一番上に計算手順を書いたアルゴリズムがあり、その下にコンパイラ(アルゴリズムを量子ゲートを使った命令に書き変えるためのソフトウェア)、そして実際にハードウェアが計算を実行できるような電気信号に変える段階があります。そして超伝導量子コンピュータの場合はその電気信号をマイクロ波に変換し、最終的には量子ビットにそのマイクロ波を当てて計算させるという手順です」

 

 

 量子コンピュータの興味深さは「重ね合わせの原理など、空想的だと思われがちな量子力学の原理を使って、実際に自分たちで量子力学系を操作しながら計算ができるという点」と寺師准教授は話す。応用の可能性も広く「ミクロな世界では量子性が重要になってきますが、そんなミクロな世界で物理系が発展していく様子を、量子コンピュータをうまく使えば直接計算できる可能性があります。物性物理、化学、薬学などの分野で応用が見込まれていて、私の専門の素粒子物理の分野でも、まだまだこれから取り組んでいく段階ではありますが、量子コンピュータが研究に使えるのではないかと期待されています。この分野の研究は世界中で進められていて、進歩がとても速いです。数年前の論文だともう古いと言われてしまうなど、次々と新しいアイデアが飛び出てくるとてもエキサイティングな分野です」

 

今の量子コンピュータの制約を知ろう

 

日本初の商用量子コンピューティング・システム「IBM Quantum System One」(写真は東大提供)

 

 量子教育について寺師准教授は「量子技術は量子コンピュータだけではなく、量子系を使って物理系を測定する量子センサーや、量子通信などいろいろな応用があり、これらは今後数年で非常に重要になる可能性があります。そのような量子技術を日本や世界で引っ張っていけるような人材を育成することが重要です」

 

 量子技術を担う次世代の人材として期待される量子ネイティブとは、量子特有の原理や性質、例えば重ね合わせの原理といった普段の生活では意識しにくいものを、直感的に扱える人材と一般に言われている。「単に量子力学を理解しているだけでなく、現実の課題解決のために使える人材が大事になってきます。私が思うに、量子ネイティブとは、量子力学の原理をうまく取り込んだアルゴリズムを構築するとか、そのアルゴリズムを実行できるようなハードウェアを実現するなど、実際の問題に落とし込める技術を持つ人だと思います。そういう人が育ってほしいというのが量子教育の一番の目的です」。また量子コンピュータを作るにはさまざまな分野の協同が必要になる。量子ビット一つ作るにも、どういう素材を使うかという材料の物理は必要で、物質科学も当然必須となってくる。量子コンピュータで効率よく計算するためのアルゴリズム開発も必要だ。多様なバックグラウンドを持つ人が量子研究に取り組んでいけるような環境をつくることも量子教育の重要な側面の一つだという。

 

 学生には「重ね合わせの原理や量子もつれなど、量子力学の理屈の上では可能なことを、実際に自分たちが目の前でコントロールしてできるんだ、量子力学はおとぎ話じゃないんだということを実感してほしいですね。その上で量子力学を実現できる系があったとき、それをどう利用すれば他の科学や社会研究にうまく使えるか、またそのためにはどう量子アルゴリズムを設計して、量子回路をハードウェアに落とし込んでいくかなどを考えられるようになってもらいたいです」。加えて、現在の量子コンピュータの持つ制約を知ることも大事だという。「今の量子コンピュータはノイズが大きい、エラーが多発するなどまだまだ期待通りに動かないことが多いです。量子コンピュータには制約があるというのを理解して、どうしたらその弱点を回避、克服できるのか、あるいは逆に弱点を活用できる方法はないのかということを考えてもらいたいです。例えば、量子ビットを改良しなくてもアルゴリズムを工夫するとエラーの影響を緩和できたりします。また、この先数年で1000量子ビットの量子コンピュータが実現されると言われています。しかし1000量子ビットでもエラー耐性のある量子コンピュータを作ろうとするにはまだまだ足りない。その進化した量子コンピュータを、エラー補正の考えなども含めて、どう使っていくかというのを今の実機の段階から考えて行ってもらいたいですね。そのための学習教材は用意していくつもりです」

 

 21年度のSセメスターの実習では、米国にある量子コンピュータをオンラインで使用していた。今回川崎市に「IBM Quantum System One」が設置されたが、今後授業で使用していく予定だという。ハードウェアとしては以前から実習で使用していたものと大きくは変わらないが、東大の研究・教育に優先的に使用できるコンピュータであるため、通常であれば計算に時間がかかる高度なアルゴリズムを試すことができる。「ただ基本的な使い方、実習のコンセプトは以前と変わりません」。今年に引き続き、授業としては基本的には理学部の3、4年生が対象だが、全学に開放する。「昨年の授業には文系の人も来てくれたりしました。いろんな人が来てくれると面白いですね」。また、今年は1単位の授業で、ソフトウェアの講義が中心だったが、来年は2単位の授業にしてハードウェアの実習も取り入れる予定だという。「クラウド上にある量子コンピュータや川崎に設置された量子コンピュータも、実習としてはジョブを投げて計算をしてもらうというものなので、計算がなされているハードウェア内部というのはある意味ブラックボックスなわけです。ですから実際に計算するところも見られるような授業にしていくことを計画しています」

 

寺師弘二(てらし・こうじ)准教授 東大素粒子物理国際研究センター所属。博士(理学)
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