われわれの生きている世界は自然、人間、そして人間が造った建物や車などの人工物によって構成されている。人類が直面しているエネルギー問題や環境問題は、自然・人工物、そして利害が異なる数多くの人々が複雑に関与することで、解決困難になっているのではないか?この根本的な課題に対して計算機シミュレーションという武器を使って応えるのが吉村忍教授(東大大学院工学系研究科・23年度当時)だ。今回は東大を退職した吉村教授に、これまでの研究の歩みを聞いた。(取材・上田朔)
オイルショック、原発事故
吉村教授の元来の専門は、固体や流体のふるまいを計算機でシミュレーションする「計算力学」という学問だ。計算力学は、災害発生時における建物の安全性、航空機の翼の耐久性などを評価するために幅広く用いられる技術だ。この分野における最も基本的なシミュレーション手法の一つが「有限要素法(図1)」である。有限要素法では、構造物をたくさんの要素と呼ばれる小領域に分割し、要素間に働く力を計算することで、構造物の変形や破壊を予測する。コンピューターが研究で使えるようになって間もない時期に東大に入学した吉村教授が、計算力学という分野に飛び込んだ経緯を聞いていこう。
──東大入学後は工学部原子力工学科(当時)に進学しました
私が中高生~学部時代を過ごした1970年代はエネルギー問題がクローズアップされた時代でした。73年には第一次オイルショックが発生し、石油資源を中東からの輸入に頼っていた日本は大混乱に陥ります。これがきっかけで、エネルギー問題に関わる学問を志すようになりました。理Ⅰに入学した頃までは理学部と工学部のどちらに進もうかまだ迷っていて、駒場で授業を受けた「地球物理学」のような理学的な学問にも魅力を感じていました。しかし、最終的には職人だった父親の影響もあり、機械工学の方法でエネルギー問題にアプローチすることにしたのです。
進振り(当時)を経て工学部原子力工学科(当時)に進学しました。もう一つの大きな事件は、進振りの直後に起きた米国・スリーマイル島原子力発電所事故です。この事件をきっかけに私は原子炉の安全性に関する研究をしようと思い、卒業研究では核融合炉の動的破壊現象を研究テーマにしました。
核融合は現在でも発展途上の技術です。中でもトカマク型磁気閉じ込め方式の核融合では、核融合炉の中を高温のプラズマが流れることで強力な電磁場が発生しますが、プラズマ電流が途切れた時に衝撃的な電磁力が発生し炉が破壊されてしまう可能性があるという問題がありました。私の研究では、安全な核融合炉の設計基準を作ることを目的に、衝撃的な電磁力により構造材料を破壊するという実験と有限要素法による解析による研究を進めました。
──当時の計算機シミュレーションの環境はどのようなものだったのでしょうか
私が卒業論文を書いていた頃は、有限要素法などのプログラムを紙のパンチカードに穴を開けることで記述して、カードを共同利用の計算機センターに持っていくという開発環境でした。当時のコンピューターは最初から人間に理解できる形でシミュレーション結果を出力してくれるのではなくて、計算結果を大量の紙に数値として出力していきます。そこから手作業で結果を可視化するのは本当に大変(笑)。個人向けのいわゆるパーソナルコンピューターが使えるようになったのは私が大学院生の頃からですね。研究用に購入されたコンピューターでしたが、研究の合間に友達とインベーダーゲームをプレイしていた記憶があります。
スーパーコンピューター、人工知能
80~90年代、スーパーコンピューター(スパコン)の技術が発展し学術研究の世界でも広く利用されるようになる。この時期の吉村教授の代表的成果が、スパコンによって大規模な有限要素法の計算を行える解析システム”ADVENTURE”の開発だ。
現在のスパコンは全て並列計算機(図2)である。並列計算機とは、通常のパソコンに相当する計算機ユニットを通信網で接続することで構成される巨大な計算機のこと。計算タスクを分割して各ユニットに割り振ることで、1台のパソコンを用いるよりもはるかに高速に大規模な問題を解くことができるという仕組みだ。吉村教授が当時新しく登場した技術をどのように自らの研究に取り入れてきたのかを聞いていく。
──並列計算の技術と関わるようになったのはいつ頃からでしょうか
計算機のプロセッサを複数組み合わせることで高速に計算をするというアイデア自体は70年代後半から現れました。私が大学院生だった80年代にはこのような技術がいよいよ使えそうになってきたのですが、並列計算機を使う前に「どのようにして有限要素法の計算タスクを分割し、多数のプロセッサたちに分担させるのか」という問題を考える必要が生じたのです。
80年代はいわゆる「第2次AIブーム」の時期にも当たります。現在発展しているディープラーニングの技術の根幹にある「ニューラルネットワーク」という数理モデルにも注目が集まり、これが計算力学の研究にどう使えるのかも考えていました。私の研究では、構造物に超音波を当てた時の伝搬の様子を基に、ニューラルネットワークを使って構造物内部の欠陥や割れ目を調べる方法を開発しました。割れ目が生じている場所や大きさが既に分かっているときに超音波の伝搬の仕方を有限要素法でシミュレーションすることは簡単にできるのですが、逆に超音波の伝わり方から割れ目を検知するのは容易ではありません。私はこの「逆問題」を解くためにニューラルネットワークという人工知能技術を利用したというわけです。
──並列計算の難しさとは
「並列計算とは要するに計算問題を分けて解くということですよね」と言うと簡単そうに聞こえますが、そう単純ではありません。例えば東大新聞を10人~20人の記者で運営するのと、100人~200人の場合と、10000人~20000人の場合では効率的に仕事を回す方法は全く異なるはずです。並列計算でも、並列数が増えれば増えるほど、計算を効率化するためにさまざまな工夫が必要になります。
私たちが開発した”ADVENTURE”システムでは、構造物をいくつかの領域に分割し、それぞれの領域を各計算機ユニットが担当することで並列計算を実現しています(図3)。それぞれの計算機ユニットが、各領域の中で通常の有限要素法のシミュレーションを行えば良いのですが、このままでは隣り合う領域が接している部分でつじつまが合わなくなってしまいます。分割した領域でのシミュレーション結果を統合して、構造物全体に対する解を構成する段階が、この問題の真に難しいところです。スパコンを利用すれば領域の個数を数万個以上まで増やすこともできるので、非常に大規模な構造物に対するシミュレーションも可能になります。しかし、領域の個数が増えることで各領域におけるシミュレーション結果を統合することがどんどん困難になってゆくのです。
”ADVENTURE”システムではこの問題に数理的なテクニックで対処することで、以前は解けなかったような大規模な問題も解けるようになりました。現在では原子力発電所の耐震シミュレーションや大型発電用風車の発電効率予測など、さまざまなモノづくりの現場で使われています。
リアルワールドへ
99年、設立されたばかりの東大大学院新領域創成科学研究科で教授に着任した。そこで吉村教授は今までとは全く異なる研究テーマを始めようと思い立つ。物理的な構造物だけでなく、人間そのものが関わる社会現象に対するシミュレーション研究が始まった。
人間の行動をシミュレートするために吉村教授が考案したのが「知的マルチエージェントモデル」(図4)だ。このモデルでは、エージェントと、エージェントを取り巻く環境をコンピューター上に構築する。エージェントは周りの環境をセンサーで知覚し、思考した上で自らの手足(エフェクター)を動かす。例えば、道路交通をモデル化する場合、自動車エージェントは前の自動車のブレーキランプが点けば自分もブレーキを踏んだ方が良いと判断する。
吉村教授は、歩行者エージェント・自動車エージェント・路面電車エージェントなどが仮想的な「街」の中で行動するバーチャルな世界をコンピューターの中に創り出すことで、現実世界の街づくりに役立ててきた。そんな吉村教授に「研究テーマの広げ方」について聞いてみよう。
──社会システムのシミュレーション研究を始めた経緯は
教授に着任したときは、せっかく新領域創成科学研究科に移ったのだから新しい研究をゼロから始めてみようと思っていました。当時、千葉県で大問題になっていたのが三番瀬の埋め立て計画です。三番瀬は東京湾最奥部に位置する干潟ですが、これを埋め立てる計画を発表していた千葉県に対して環境保護を訴える市民による反対運動が起きていました。私も市民集会に参加して、この問題にさまざまな利害関係者が存在することを目の当たりにしました。
三番瀬埋め立て計画の主要な目的は、第二湾岸道路を通して東京-千葉間の交通渋滞を緩和することでした。それを聞いた私は「新しい道路を通さなくても既存の道路をうまく使って混雑を緩和するような政策は有り得るのではないか」と考えたのです。交通工学の分野ではどのような研究が行われているのかを調べてみたのですが「従来の交通シミュレーションで使われているモデルは、私の感覚とはズレているな」と感じました。個々の自動車を運転手する人間が、思考したり学習したりしながら行動する主体としてモデル化されていなかったのです。
「人」や「自動車」のように、知的に考えて行動するエージェントが集まって相互作用するという状況をモデル化しなければ交通渋滞のような現象は理解できない、と考えて発想したのが「知的マルチエージェントモデル」です。「マルチエージェント」という言葉自体は「複雑系」という分野ではよく知られた概念です。例えばアリやバクテリアの集団行動をモデル化したものが「マルチエージェントモデル」になるのですが、人間の思考はアリやバクテリアよりはるかに複雑なはずです。一方で、人間のように思考するエージェントである「知的エージェント」という言葉もあります。これは知能ロボットの研究の流れから出てきた用語です。社会システムは、知的なエージェントがマルチに集まったものとしてモデル化するべきだというわけです。
──現実の街づくりにはどのように役立てることができましたか
知的マルチエージェントモデルによる交通流シミュレーションは、JR岡山駅前広場への路面電車乗り入れ計画(図5)に関する合意形成に深く関わりました。JR岡山駅と路面電車電停との乗り継ぎの悪さは以前から指摘されてきた一方で、路面電車を延伸するには駅前の交通量の大変多い交差点を横断せざるを得ません。交通渋滞が生じてしまうのではないかという懸念があるため、延伸計画は進んでいなかったのです。
私たちは歩行者エージェント・自動車エージェント・路面電車エージェントを取り入れた知的マルチエージェントモデルによって駅前の交通流をリアリスティックに再現し、どの場所でどれだけ渋滞が生じる可能性が高まるのかを予測しました。シミュレーションの結果、延伸によって生じる混雑は日常的な交通量の変動と同レベルであることが分かり、この予測を街づくり協議会に報告することで合意形成をサポートしました。路面電車延伸計画に関してもステークホルダー(利害関係者)が多くて、その間の橋渡しをするのはかなり大変でしたが、現在では乗り入れに向けた工事が行われています。
──東大生へのアドバイスを
私は計算力学という本来の専門分野を大切にして研究テーマを成長させてきたという思いがありますが、ずっと同じ分野にとどまっていては成長が鈍化してしまいます。私の場合、工学系研究科から新領域創成科学研究科・環境学専攻(当時)に移り、そこで環境学に対して自分が何をできるのかゼロから考えたことで、新しい研究のアイデアが生まれました。違う分野に足を踏み入れたうえで、この分野のいいところは何かな、課題は何かな、と考えているうちに自分の専門に対する気付きも生まれ、自分の専門知識をどのように活かせるのかも見えてきます。単に畑違いの分野に来て頭を休めているだけではダメですよ(笑)。学生にしても教員にしても、自分の頭で新しい発想を見つけることをあきらめないでほしいと思います。東京大学にはそのための環境が整っているのです。