無限大の世界の物理学
幼児はどのようにして言語を獲得するのか? 鉄が磁石にくっつくのはなぜか? 脳はどのようにして記憶を想起するのか? タンパク質の複雑な立体構造はどうやって形成されているのか? これらの問題は一見関係ないように思えるが、実は全て統計力学という手法でアプローチできるという。
福島孝治教授(東大大学院総合文化研究科)は学部生の頃、統計力学に出会って感動したと話す。「人間に身近な大きさのスケールの世界を記述するニュートン力学は、原子レベルのミクロな世界の現象を予言できないと量子力学の講義で学んで驚きましたが、じゃあマクロな方の極限の世界にも違う原理があるのだろうかと思いました」。疑問を持った福島教授は後で統計力学を学んで「これだ!」と感じた。「原子が1023 個も集まると、水が氷になったり金属が超伝導体になったりする『相転移』という現象が起きると知って、1023は怖いぞ、と思いました」
例えば1023個の分子からなる気体を統計力学で考える場合、膨大な数の分子の運動を一つ一つ計算するわけではない。「統計力学では1023個の粒子の運動なんて追いかけられっこないという立場を取り、物事を確率的に取り扱います。人間は馬鹿だよ、ということを最初に受け入れる学問があると知って衝撃を受けました」
統計力学はノイズが乗ったデジタル信号の復元や、セールスマンが複数の都市を最も効率よく巡回する方法を探す問題(巡回セールスマン問題)のような最適化問題にも応用される。「現実の世界で解きたい巡回セールスマン問題はせいぜい1000都市とか10000都市を巡回する問題であって、誰も1023都市の巡回セールスマン問題を解きたいわけではないと思いますが、まずは都市の数が無限大になる極限をとったときに何が起きるかを分かったうえで、有限な現実世界に降りてくるというのが統計力学の方法論なのです」
磁石からタンパク質へ
福島教授の大学院時代の専門は「スピングラス」という磁石の一種だった。普通の磁石は小さな磁石(スピン)がたくさん集まってできていると考えることができ、これらの小さな磁石は近くにいる磁石と互いに同じ向きになろうとする(図1)。この磁石のモデルをイジングモデルという。それぞれのスピンがばらばらの向きを向いていると全体として磁石の性質を示さないのだが、イジングモデルではある温度より低温の環境の下で多数のスピンが同じ向きを向くことが理論的に示されている。その結果、スピンが集まったシステム全体も磁石になるのだ。
一方、福島教授が解析していたのは、たくさんの小さい磁石の中に同じ向きになろうとするペアもあれば反対向きになろうとするペアもあり、それらがランダムに入り混じっているような磁石だった(図2)。このシステムを低温に冷やすと、スピンの向きがばらばらのまま、それぞれのスピンが向きを変えられずに凍結する「スピングラス」状態になる。スピングラスの性質は福島教授の学生時代よりも前から理論的に研究されてきた。イタリアの物理学者ジョルジョ・パリ―ジはスピングラス理論に「レプリカ対称性の破れ」という概念を導入し、この功績で2021年度のノーベル物理学賞 を受賞している。
福島教授が取り組んでいたのはコンピューターを使ったスピングラスのシミュレーションだ。ランダムに相互作用するスピンの集団がスピングラスになる過程をシミュレートすると膨大な時間がかかる。「当時知られていた論文では、スーパーコンピューターを使って丸一年かけてスピングラスのシミュレーションをしていました。しかも、計算時間が長くなりすぎて結局スピングラスの状態をコンピューター上で実現することができなかったのです」。最終的には福島教授が博士課程の頃に発表した「レプリカ交換モンテカルロ法」によりスピングラスの計算は飛躍的に高速化されたのだ。
スピングラスは特殊な磁石の話のように思えるが、実は応用の幅が広い。「たくさんの要素が互いに相互作用していて、相互作用の強さや向きがバラバラなもの」はこの世にたくさんあるからだ。例えば、生物の細胞をつくっているタンパク質は20種類のアミノ酸が結合して鎖をつくることで構成される(図3)。鎖の中のある部分と別の部分が相互作用することでシート状やらせん状などの構造を作り、複雑に折りたたまれてゆくのだが、岡本祐幸名誉教授(名古屋大学) らはレプリカ交換モンテカルロ法を使ったタンパク質の立体構造予測を行った。物理の問題はもちろん、ベイズ推論や巡回セールスマン問題にもこの手法は応用されるようになった。
Undisciplined Science を目指して
福島研究室ではレプリカ交換モンテカルロ法などの数値計算手法や、スピングラスの理論研究で培われてきた解析手法を使い、さまざまな問題を物理の視点から研究している。2022年には中石海さん(福島研究室・博士課程1年、2022年現在)と共にRandom Language Modelという自然言語の数理モデルに関する論文を 発表した。Random Language Modelは確率的に文字列を生成するモデルであり、多数の文字や文法規則がランダムに相互作用している物理系ととらえることができる。先行研究では、モデルの乱雑さを決める値を変化させると、ある点を超えたときに秩序だった文法構造を持つ文字列が生成されるという「相転移」が起きると主張されていた。この相転移が、無秩序な言葉を話していた幼児が言語を獲得する過程に対応しているのではないかと考えられたのだ。今回の論文では、この相転移が実際には起きないことを数学的な解析から証明した。
「私たちは統計力学の専門家ですが、出口は言語でもいいし、磁石でもいいし、超伝導でもいいし、なんでもいいと思っています」。福島教授はこの分野を何の分野だと説明すればいいか分からなかったと話す。「統計力学はある学問と別の学問の境界にあるというわけじゃないし、ある学問と別の学問を融合しているわけでもないので…」。最終的に出会ったのが、米国の科学ジャーナリストブライアン・ヘイズが言ったUndisciplined Science という言葉だった。統計力学は方法論の学問なので、研究対象を基準に学問分野(discipline)を分類しようとすると、うまく分類できないのだ。
◇
福島研究室では学生ごとに研究テーマがバラバラなので、他のメンバーの研究内容を理解するのは大変だ。しかし「隣の人の研究の進捗を意識して聞けているかどうかが、本人の成長にとってとても重要」と話す。「先週のミーティングで報告されていた問題がどうやって解決されたかとか、自分だったらこうするとか、そのやり方は自分の研究でも使えるのではないか、といったことを考えてもらえるように必ず全員でミーティングをするようにしています」(取材・上田朔)