インタビュー

2020年12月15日

「哲学あってこその経営だ」 前総長・濱田純一名誉教授に聞く東大の道しるべ

濱田純一名誉教授 はまだ・じゅんいち/78年東大大学院法学政治学研究科単位取得退学。法学博士。09〜15年に総長を務め、15年から名誉教授。現在は放送倫理・番組向上機構 (BPO) 理事長。専門は情報法、情報政策。

 

 国からの運営費交付金削減やそれに伴う経営改革、社会との連携のさらなる強化など、国立大学は大きな変革を迫られている。変革は時に大きな混乱を招くが、総長選考の議論の過程に疑問の声が相次いだように、東大もその例外ではない。外部から変革を要請される中、東大はどのような道を歩むべきだろうか。東大大学院情報学環長・学際情報学府長、東京大学新聞社理事長などを歴任し、2009〜15年には東大総長を務めた濱田純一名誉教授が主張するのは、ビジョンを明確にした経営と、長期スパンの改革の必要性だ。

(取材・中野快紀、撮影・高橋祐貴)

 

疑いと批判精神こそが生命線

 

  東大の教職員の意識や体制は五神真・現総長の就任後、どのように変化したでしょうか

 

 五神総長の任期中に限らず法人化後の大きな潮流として、教員に時間的・精神的な余裕がなくなってきていると思います。教員に「早く成果を」「効率を」といったようなマインドや組織の論理が求められがちで、伸び伸びと活力のある大学であるためには、相当意識的にガバナンスの在り方も変えないとまずい時期に入っていると感じます。

 

  濱田名誉教授の総長在任時には「社会との共創」を重視していました。五神総長の下でも積極的に進められている産学官の連携についてはどのように捉えているでしょうか

 

 産学官の連携自体には反対ではなく、積極的に進めていくべきだと思います。ただ、国や企業だけが社会なのではありません。また、大学が収入を増やすのが連携の目的ではない。例えばいろいろな市民活動をやっている人や人々の日常的な課題などとどういうつながりを大学が持っていくのかも、もっと真剣に考えないといけません。

 

 社会的課題に悩んでいる人たちを経済的・制度的に助けるのは国や自治体がやるべきでしょう。一方でどうやったら社会がより良くなるのか、あるいはどうすれば課題に対する理解が広く共有されるのかを、社会の多様なセクターと一緒に考える、そして新しい知恵や工夫を生み出していくのが、大学の役割だろうと思います。そういう意味で私は「共創」という言葉を使っていました。

 

 こうした場面で、疑いを持つ、批判精神を持つことが、研究者や大学の役割の生命線だと思います。連携する相手から出された課題を「はいはい」と受け止めて下請けのように解決方法を探るのではなくて、相手の考えている目標や枠組みもいったん疑ってみる。そこから解決の道筋を探るのが大学のはずです。そうした緊張感や疑いがなければ、それは大学である必要はなく、企業の研究組織やシンクタンクでも構いません。

 

  東大は10月、新たに「東京大学FSI債」(大学債)を発行しました。大学の新たな資金獲得方法についてどのように考えていますか

 

 資金の獲得を含む経営の中で一番重要なことは経営哲学、つまり自分たちが何をどのように実現しようとしているかの概念です。それを明確に打ち出し実行できるかどうかで、お金を作ることの評価が決まってきます。大学債というのは基本的に借金です。大事なのは、借入れをするときは具体的な使途が明確であること。企業経営だと当たり前のことです。

 

 東大は他の多くの大学とは全く違って、お金の調達だけが目的であれば、ブランドの活用法次第でいくらでもやりようがあります。大学債というのは、これまでたくさんの先人たちが築き上げてきたブランドと伝統をカタに借金をしているようなもので、大変恐ろしいことをやっているんだという自覚が必要です。だからこそ、何のためにお金を調達するのか、それによって社会に対してどういう貢献を大学ができるのかをしっかり考え提示しないといけません。その成果を見て起債の適否の評価が定まるのでしょうね。

 

  現在の東大執行部は「運営から経営へ」というスローガンを盛んに打ち出しています

 

 経営という観点は、チャレンジや変革の契機を含むものとして大事だと思います。ただ企業経営と大学経営は別物です。教育や研究は効率性や収益性の論理だけでは動かないし、成果が見えるのに時間がかかるのは当然です。また、疑いや批判の精神を備えた教員を動かしていくには、単なる指揮命令ではなく、教育研究の現場に対する敬意と人格的なコミュニケーションなど、大学に固有の経営手法が不可欠です。加えて国立大学の場合は国から多くの税金が投入されていますから、企業の株主への説明責任といったものよりも幅広い、国民全体への説明責任や社会的責任も大きくなっていくわけで、それらを長期的に見据えた経営でなければなりません。

 

経営人材の内部育成で継続的な改革を

 

 

  トップダウンの大学改革がさまざまな方面から求められている一方、一部の教職員からはトップダウンのやり方に批判の声も上がっています。教授会自治を基盤としたかつての大学自治の在り方に戻るべきなのでしょうか

 

 教授会自治が一面で持っていた不合理性、非効率性、必要以上の権威性を考えると、そのまま元の形に戻るべきだとは思いません。ただ、トップダウン的な改革で全ていいとは思っていなくて、自分たちの学問分野を成長させ教育していく責任と自治は教授会に担わせるべきだと考えています。総長が多様な学部・研究所の膨大な専門分野に対して直接手を出すということは、能力的にも無理でゆがみも生み出します。

 

 各学部・研究所の単位で責任と自治を担ってもらうときに大事なのは、学問分野の将来をどう考え、教学をどう設計するかについて、教授会がもっと透明性を高めることでしょう。教授会がいたずらに閉鎖的となるのではなく、真剣に大事なことを議論している姿が外から見えるようにすれば、緊張感が増し信頼も高まります。また、何らかの形で、もっと職員や学生を参加させることも重要だと思います。

 

 トップの役割で言えば、やっぱり徹底的にコミュニケーションすること。大学におけるトップダウンやガバナンスというのは、トップにある人たちの考えをみんなに押し付けるわけではなくて、教職員や学生と十分にコミュニケーションを図り、多彩な知恵を尊重し、やる気を促しながら進めていくべきものです。

 

  濱田名誉教授の代から総長の任期が6年になりました。総長が幅広い所属から選ばれることのメリットは大きいですが、欧米の大学だと数十年単位で学長を務めて継続的な改革を行う場合もあります。総長・学長の任期やどこまで一貫した改革を行うかについて、どのような考えを持っているでしょうか

 

 やっぱり6年というのはありがたかったですね。改革を行う上では、変化の大きい時代の4年間というのはあっという間に過ぎてしまいます。ただ、10年15年に延ばした方がいいのかというと話は別です。一つには、長期間総長・学長を務めて改革を行う能力を持ち教職員や学生から、また社会からも信頼されるようなトップ人材のプールを作れるかどうか。欧米の場合は学長が別の大学の学長ポストに移る事例もよくありますが、日本の場合、プロの大学経営者の育成システムがまだできていません。

 

 また、日本の大学はほぼ完全にピラミッド化されているので、例えば東大で得たノウハウが中堅クラスの私立大学で通じるかといえば通じないと思います。欧米のような転職可能性がある状況でのみ、プロフェッショナルのプールが生まれてくるのでしょう。

 

 東大の場合は、総長としての役割を果たせる資質を持った人材を、組織の中に多く抱えています。そうした人材が部局長を務めたり、総長補佐や理事、副学長などを務めて執行部の中で鍛えられたりすることによって、総長が6年で代わっても、改革の大きな方向性と大学文化の継続性は担保されるようになっていると思います。

 

  6年で総長が代わっても、ある程度路線は継承されるということでしょうか

 

 「路線継承」というと微妙で、例えば五神総長は私の秋入学構想をそのまま継承してくれたわけではありませんが、秋入学構想から生まれた(4ターム制導入などの)総合的な教育改革の基本スキームは引き継ぎました。東大の場合は、歴代の総長が必ずしも同じ考え方ではなくても良いと思います。大学はさまざまな分野の課題を抱えていますから、それに対して、それぞれの総長がその時に手薄なところをきちんと押さえて、20年くらいのスパンで見ると全体が底上げされているという、そういうダイナミックな構造なのではないでしょうか。さらに、それを支える多様な優れた人材は東大でも次々と生まれてきているので、総長の任期をさらに延ばす必要はないし、弊害の方が大きいと思いますね。

 

  全国で国立大学の経営統合計画が相次いでいます。プロフェッショナルの育成という観点から、経営者と教学責任者の分離という選択肢についてはどう考えますか

 

 私の感覚では、分離した場合には非生産的な摩擦が増えると思います。少なくとも東大の場合は、分離する具体的なメリットが見えてきません。部局の一定の自律性も絡んで、意思決定が複雑になるばかりです。また、トップとして経営も教学も両方任せて大丈夫だという人が現にいる状況の中で、そこをあえて分離すると、いわばロイヤリティーの分裂が生じて、組織の一体感も損なわれるでしょう。日本では、分離よりも、経営と教学の両方が出来るプロフェッショナルの育成を目指す部分もあってよいと思います。

 

未来を見据えた報道へ

 

  東大や大学の在り方が大きく変わっていく中、報道機関としての東大新聞が果たしていく役割や使命は何でしょうか

 

 端的にいうと、やはり学内の風通しを良くすることでしょうね。東大はこれだけの規模の大学で、しかも部局の独立性が強めなので風通しが悪い。どこで何が起こっているのか、どこでみんなが何を考えているのかということが分からないと、一体感を持って、あるいは効率的に大学全体として動きにくいと思います。風通しを良くするための手段は、事実の報道かもしれないし、場合によってはちょっと物申すような社説といったものかもしれません。

 

 それから、学生が何を考えているのか、どのような生活をしているのか、どういう面白い人がいるのか。それを学生同士で広め、教職員たちにも伝えていく。そういう役割も大きいですよね。私は総長時代、学生のことを一生懸命見ようと思っていたつもりでしたが、やはりあれだけ大学が大きいと十分には見えません。そういう学生の姿が一番見えたのが東大新聞でした。

 

  自身が東京大学新聞社の理事長だった頃は

 

 当時は東大が法人化したとはいえ、基礎となる制度づくりに忙殺されていたので、大学の実質的な変化のスピードはまだ遅く、そうした記事は少なかったですね。法人化関係の記事は多かったと思いますけど。今の方が動きは速いですし、その一方で、当時に比べると東大の未来像が見えにくくなってきた感があるので、記事とするテーマは多いのではないでしょうか。これからの東大新聞は、今の東大から何を作り出せるのか、未来を見据えて進化の芽を拾い上げていく報道をするのが面白いのかもしれません。

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