インタビュー

2016年1月6日

「政治を自ら考える、創造的な市民に」公共哲学カフェ 宮崎文彦先生インタビュー 

 「今の日本の社会には、誰かと会って話をして、自分の頭で考えるということがもっと必要ではないでしょうか。それは政治や社会問題でも同じで、公共哲学カフェでは実際に専門家の方と話して、自分の身近な問題を考え直してみて欲しい」

 そう語るのは、50回以上の開催実績を持つ対話イベント「公共哲学カフェ」、運営メンバーの宮崎文彦先生(千葉大学大学院特任研究員)。専門は公共哲学と政治学。昨年の11月6日には東大生と市民の公共哲学カフェのファシリテーターも務めている。

 自分で考えて関わることの大切さを強調し、哲学の授業も小グループ対話型で展開する宮崎先生に、「公共哲学」や「対話型カフェ」にかける思いを聞いた。

 

 

政治家志望の学生から公共哲学研究者へ

――簡単なご経歴を教えて下さい。どうして公共哲学を研究しようと思ったのでしょうか?

 学部では早稲田大学の政治経済学部の政治学科、大学院は東京工業大学の社会理工学研究科にいました。学部の頃は政策研究のゼミにいて、あまり研究者になるつもりはありませんでした。むしろ政治家志望だったこともあるくらいで、深く現実に関わりたかったんです。

 ですが当時は自民党の一党支配が崩れた(1993年)頃で、「これからは混迷の時代だ」とも、「政治に哲学が必要になる」とも言われていました。思想や哲学にも興味はあったので、まさに理論と実践を切り結んで「理想と現実を架橋する」という目的のある公共哲学を研究することにしました。

――公共哲学とはどのような学問なのでしょうか?

 公共哲学は、「公共」を“多様な人々が自由に議論できる場”として考える、様々な学問領域の人びとによる実践的な哲学です。「公」とか「公共」というと、少し前までは個人を犠牲にして公=国家に仕える、「滅私奉公」という考え方もありました。

 しかしそうではなく、一人一人が自ら考え、「公共」という場所を媒介にして広く「公」と関わる。そのようにして個人の力を「公」に活かす「活私開公」というのがテーマです。この時の「公」はグローバル社会でも市民運動でも良いのですから、必ずしも「国家」に限りません。

 また研究者は権威者ではなく、市民と共に問題を考えていく存在になります。公共哲学はかなり実践的な性格のある学問ですから、やはり研究者だけで完結させたるべきではない、ということで「公共哲学カフェ」も開催しています。

宮崎先生にご紹介頂いた書籍。先生も執筆・研究に携わっている
宮崎先生にご紹介頂いた書籍。先生も執筆・研究に携わっている

 

社会問題を「自分たち」から考え直す

――公共哲学カフェで目指していることは?

 市民の方に、自分で問題を考えるきっかけになって欲しいです。私は「哲学」とは、「当たり前を問い直す」ことだと思っています。今まで当然だと思っていたことでも、改めて考えてみると不思議なことが沢山ある。

 例えば「赤」という色や「歯痛」という痛みなどは、どうして言葉だけで他人に伝わるのでしょう。ここには社会の決まりごとや、名前の不思議さ、またコミュニケーションの特性など、様々な問題が開かれています。けれど思考を止めてしまうと、新しい問いに気付くことも出来なくなる。

 「公共哲学カフェ」では、これを具体的な社会問題でやろうとしています。例えばこの前の「in本郷」では、「政治参加とは何だろう」というのが裏テーマでした。政治参加というと、選挙や行政への参加、いわゆる「協働」ばかりがイメージされますが、「本当はもっと身近に色んなルートがあるのでは」ということを考えて頂きたかった。

――今、改めて「政治参加」を考えてもらう目的とは?

 今の日本では、政治は大きな問題を扱うもので、政治に影響を与えるなんて出来ないんじゃないかというイメージが強いですよね。最近だとSEALDsのデモのような運動もありましたが、他人について行ったという人も少なくないかもしれません。何より法案への賛否となると、ただ賛成か反対かに二分されるだけで議論が深まりにくい側面がある。そのような大きな問題を考えることも重要であるし、関心を寄せることはとても大事なことですが、もっと他にも、政治に関わるには他の方法があるんじゃないかと考え直してみて欲しい。

 つまり、政治をもっと身近な所で考えて欲しいんです。今の日本では、政治というと「誰に任せるのか」という問題になってしまいがちです。選挙で誰を選ぶか、どの政党に政権を任せるかという選択だけですね。けれど自分たちで出来ることは自分たちで解決するというのが、政治の原点ではなかったでしょうか。そもそも、政治ってみんなで一緒にやるものではなかったのかと。

 

政治も授業も、みんなでやれば楽しいこと

――政治家や学者として人々を引っ張るより、他の方にも考えてもらいたいということでしょうか?

 「考えてもらう」というより、みんなで一緒にやればいいんじゃないかと思っています。そもそも政治とは全員が参加するものですし、人任せにせず、みんなで一緒に問題を解決するというのは、大変だけど楽しいことでもある。

 この辺は「公共哲学カフェ」や学生のグループワークも同じです。私の授業では、学生が課題を読んで来た上で4,5人で自由に議論する時間を毎回設けています。これは学生に取って面倒なはずなのですが、やってみると彼らはよほど楽しそうに話をする訳です。ただ授業を受けるだけよりずっと(笑)。また私の予想しなかったような意見も学生から出る。そうすると私も楽しいじゃないですか。

 こんな風に、関わってみて手応えがあれば楽しい訳だから、政治参加というのも私はそういうものだと思っています。そのためにはまず、「政治を人任せにしない」という意識だけでも持って欲しい。興味がある特定の分野にこだわって、知識を集めるくらいならあまり時間も掛からないはずです。

昨年11月に開かれた 公共哲学カフェ in 本郷 の様子

学問に限らず、自ら学び考えるという創造性を

――最後に、学生に期待することを聞かせて下さい

 自分の頭で考えるということを身につけて欲しいです。大学での「学び」は、習った知識を覚えておく高校までの「お勉強」ではありません。知識を集めるのはもちろん大事ですが、他人の意見の受け売りではなく、自分で考えて責任を持つということを学んで欲しい。

 大学はそんな創造的な思考が求められる場ですし、身につけるための一番良いタイミングでもあると思います。大学の教員がしているのは新しい知識の生産なのですから。

 同時に、それは社会で求められている能力だとも思います。最近多くの日本の企業が限界に来ているというのは、そういった意味で自分で考えてイノベーションを起こす、ということが苦手な所があるためではないでしょうか。

 だから学生には専門以外の興味も追求して欲しいです。実社会では勉強以外の所で多くを学んだ人がイノベーションを起こしているのと同じで、学生にも様々な興味を追求して欲しい。もしもその興味の対象が学問でなかったらそれでもいいんです。

 以前、私の教えていた学生で、哲学よりも映画の方に走って行っちゃった人がいました。けれどそんな学生にエッセイなんか書かせるとものすごくいいものを書いてくるんです。その人は卒業後も映画の道を続けているみたいだし、自分で選んだのなら哲学の授業より映画に集中してもそれでいいと思います。そんな人は、私としてはむしろ羨ましいくらいです(笑)。

――ありがとうございました。

 

 この後、先生からは小学生の頃から続けている歌曲のことや、無教会系のキリスト教集会で、聖書講義を持ち回りしていることなどもお聞きした。これらの活動も単なる余暇ではなく、強い興味を持って「自ら学んで行動する」という市民=人間像として印象的な姿だった。(取材・文 西崎博道)

2016/01/09 10:20 写真のキャプションを修正しました。

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