キャンパスライフ

2015年11月27日

「イスラーム世界」との邂逅【連載パレスチナ留学記1】

 歴史学を専攻し、特に中東地域の近代史を学んでいる筆者は、2015年9月より1年間休学を申請し、現在パレスチナ西岸自治区の ナブルスという都市にあるアン=ナジャーハ大学でアラビア語を学んでいる。他の東大生のような大学の交換留学協定を利用した本科への留学ではなく、当該大学のアラビア語教育プログラムへの留学という形をとっている。

 この時点でおそらく多くの読者の方は、そもそもパレスチナ西岸自治区が留学できるような治安状況なのか、ナブルスという都市がどこにあるのか、そもそもなぜアラビア語を学びに1年間も留学しているのかなど、様々な疑問を持たれたかもしれない。初稿ではまず、私がなぜ中東という地域に興味を持ったか、はたまたなぜアラビア語留学という形で現地での長期滞在に至ったのかについて、駄文ながら書かせていただきたいと思う。パレスチナの治安状況などについては、ひとまず次稿以降に筆を譲ることとする。

ナブルス旧市街に佇むカフェにて

ナブルス旧市街に佇むカフェにて(筆者撮影)

 

中学・高校時代の経験と中東旅行

 私の母校である都内の中高一貫校は、新宿区新大久保に所在する 。韓流ブームが盛り上がりを見せた頃に都内随一の「コリアンタウン」として有名になった新大久保だが、その昔は孫文が日本に亡命していた頃に住んでいた街でもあり、その頃は多くの中国人が住んでいた。そうした背景から外国人を受け容れる土壌が以前からあり、現在では韓国人や中国人以外にも多くの外国人が居住する地域となっている。

 その中にはバングラデシュやインド、パキスタンなどからやって来たムスリムも多く、部活帰りにはインド人経営のハラールフードショップの隣に併設されているケバブ屋によく立ち寄った。直接交流はなかったものの、このケバブ屋の前でケバブサンドを手に、往来する人々を眺めているとバングラデシュやパキスタンのみならず、インドネシアやマレーシアから来たと思われる東南アジア系の人や、トルコ人やアラブ系の人々など様々な国籍の人をよく目にした。

 海外に一度も行ったことのなかった当時高校生の自分にとって、世界中の広範な地域に横切るぼんやりとした「イスラーム世界」というものが、魅力的なものに映った。今でこそ、この「イスラーム世界」という表象のされ方自体が、地理的に広範囲にわたり、かつ文化・民族・歴史的背景も大きく異なる多種多様な人々を、一括りにステレオタイプ化してしまうという危うさを自覚できる。だが当時の自分は、それくらいに漠然としたイメージと、ある種のエキゾティシズムとを、その「イスラーム世界」に抱いていた。(参考:朝日新聞デジタル(上)心つながるムスリム

 一つ目の大きな転機となったのは、大学1年生の初めての夏季長期休暇で中東4カ国を旅行したことであった。当時所属していた日本中東学生会議というサークルのメンバー計10名と30日強かけて、UAE、トルコ、イスラエル、ヨルダンを訪れた。これが、自分にとって初めての海外旅行となった。

 各国1週間から10日程度の滞在で、非常に短い時間ではあったが、現地の学生との交流を通して、「イスラーム世界」「中東」という言葉によって、一括りにされていた地域それぞれの固有性・多様性、あるいは逆に一貫性 の双方を発見できたことは、非常に大きな収穫であった。今同じような旅行をしていたら、ただ少し長い観光と学生交流の経験だけで終わっていたかもしれない。大学1年生のあの時期にそういった新鮮な経験をしたからこそ、その後も中東地域に対する学びを深めようという思いを抱き続けられたのだと思う。

ヨルダンにて。多くの人が「中東」と聞いて思い浮かべるステレオタイプ的構図。当時の自分が「中東」というぼんやりとしたものに抱いていた心象風景を映し出しているのかもしれない。(筆者撮影)
ヨルダンにて。多くの人が「中東」と聞いて思い浮かべるステレオタイプ的構図。当時の自分が「中東」というぼんやりとしたものに抱いていた心象風景を映し出しているのかもしれない。(筆者撮影)

 

『オリエンタリズム』から得た気づき

 さて大学1年夏の旅行から帰国した自分は、今度は文献やメディアなどを通して、中東地域に触れていく事になる。その際、特に自分の関心を引きつけたのは、「アラブの春」 と呼ばれた中東における政治変動であった。

 2011年にこの一連の政治変動の波が起こったが、私が大学1年生であった2013年は、多くの国において、若者たちによって担われてきた政治改革の要求が、次第に形を変えて暴力の連鎖へと姿を変えていった時期だった。また2011年の黎明期から2年を経て、一連の政治変動に対する様々な評価、分析を行った研究や文献が蓄積され始めていた時期でもあった。

 そんな中で「結局中東に民主主義は根付かない」という論調もあった。確かに歴史的背景や社会構造などが異なる中東に、いわゆる欧米型の民主主義を当てはめても上手くいかないはずだという指摘は、正解なのかもしれなかった。ただ当時の自分には、数は少ないながらも現地に友人がおり、彼らが形は異なれど、自らと同じように人間的価値を重視していることを確信していた。「中東」や「アラブ」、「イスラーム」の社会が 特殊であり、<我々>とは異質なものであるという二分法に立脚した一部の言説には、違和感を覚えざるを得なかった。

 同時期に読み始めた本の一つに、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』があった。78年に出版され、40年近くを経た現在、サイードのオリエンタリズム批評についても様々な批判や議論がある。それでもなお、<西洋>における<東洋>の表象と言説の形成過程を、19世紀から20世紀にかけての、主に英仏米の帝国主義システムと関連させて論じたこの著作は、今もなおその有効性を失っていないと感じる。

 サイードの議論は、「アラブの春」をめぐる一部メディアや文献に散見された<我々>と<彼ら>の二分法に対する違和感を、言語化して整理するのに非常に役に立った。また、自分に内在していた中東に対する一種のエキゾティシズム的な憧憬に気づくきっかけにもなるとともに、メディアや文献などを通して、ある地域の社会や文化を理解することの限界を感じ始めることともなった。この気づきこそが、自ら留学という形で現地に長期滞在しようと考える直接のきっかけとなったのだと、現在振り返ってみてつくづく実感する。

 Jean-Leon Gerome “The Serpent Charmer” 東方趣味絵画に顕著に表れる<東洋>の表象の様式の一例と言える。 (出典:Art Renewal Center)
Jean-Leon Gerome “The Serpent Charmer”
東方趣味絵画に顕著に表れる<東洋>の表象の様式の一例と言える。(出典:Art Renewal Center

 

(文・田中雅人)

 


「イスラーム世界」との邂逅【連載パレスチナ留学記1】

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聖夜の空に揺れるパレスチナ国旗(前編)【パレスチナ留学記4】

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