麺をすすって食べることが不快感を与えるとされる「ヌードルハラスメント」。数年前に話題になり、結論の出ないまま現在は語られなくなった。今回は、そもそも日本人が麺をすすって食べるようになった背景と、この言葉をめぐる議論とメディアの関係を、石毛直道名誉教授(国立民族学博物館)と林香里教授(情報学環)の話から再考する。
(取材・杉田英輝)
独自の食文化を反映
私が見聞したところでは、麺料理をすすって食べるのは日本特有の食べ方です。ただ、そのことを示す確定的な証拠や、具体的にいつから音を立てて食べられ始めたかに関する記録は存在しません。
日本で麺や汁をすすって食べるようになった背景には「食器」が大きく影響しています。奈良時代、庶民は箸のみを使って食事をしていたのに対し、宮廷では箸と長いさじを使って食事をしていました。平安時代になると、宮廷でも箸のみが使われるようになり、汁を飲むには茶わんや丼を口につけるしかなくなったのではないかと考えられます。茶わんに口をつけることで、汁物などを音を立ててすする食べ方が現れたのではないでしょうか。
食器の影響は、他国との比較でより鮮明になります。例えばイタリアのナポリでは、19世紀前半までは長いパスタを手で食べていました。これは、当時はフォークの歯が3本しかなく、フォークでは食べづらかったためです。しかし19世紀中頃になると、ナポリの宮廷で客人にパスタを振る舞う際に、手で食べさせることに抵抗を感じるようになりました。そこで、フォークの歯が4本に改良され、現在のようにパスタもフォークで巻いて食べられるようになったと考えられます。
日本と同じ東アジア圏の韓国では、熱を伝えやすい金属製の食器を使うため、食器を持ちながら食べることが難しいです。そのため、食器を持たずに箸とさじを駆使して食べる習慣ができました。古くから箸とさじで食事をしていた中国では、汁物料理の具は箸でつかみ、汁はさじですくうため、すすらずに食べるようになったといえるでしょう。
麺による性質や食べ方の違いも重要です。日本では室町時代にうどんが庶民の間で普及しました。しかし、うどんはそうめんなどと比べると麺が太いため、一気に吸い込んで食べるのには不向きです。
うどんの次に流行したのがそばでした。江戸の町では、参勤交代で単身赴任する人や出稼ぎに来る人が多かったため、うどんよりも安価で手軽なそばが外食として発達しました。
当時特に好まれていたのがざるそばや盛りそば。それらをタレに半分だけつけ、タレと空気を一緒に口に含ませて食べることでそばの風味を味わう、という食べ方が江戸で流行しました。そばはうどんと比べて細いので、吸い込む時に音が出ます。こうして、そばをすすって食べるのが「粋な食べ方」として広がったと考えられます。
その後温かいかけそばも茶わんに口をつけて食べるようになりました。現代でラーメンをすすって食べるようになったのも、麺が細く、食器や盛り付けがかけそばと類似していることと関係があるかもしれません。(談)
「ハラスメント」の誤用
「ヌードルハラスメント」に対するメディアの影響について、林香里教授(情報学環)に聞いた。
◇
そもそも、麺をすすって食べることを「ハラスメント」という言葉で非難することは誤りだと思います。ハラスメントの多くは権力を利用した関係の下で生まれますが、麺を食べる場で権力関係が発生するとは考えにくいでしょう。
ですから、まずはメディアの取り上げ方に大いに問題があります。「ハラスメント」というキャッチーな表現に安易に乗っかり、言葉の使い方への注意が欠如しています。
さらに麺は日本で長く親しまれているため、議論がナショナリズムとも結び付きやすくなります。ここから麺をすすって食べる振る舞いを「日本文化」と言いくるめ、正当化する言説が生まれました。浅はかだと思います。メディアは、普段から何か不満を持つ人たちをかき立てて、分かりやすい刺激的な言葉を使ったのだと考えられます。
他方で、食事とは、「ちゃぶ台返し」という言葉に象徴的なように、ドメスティック・バイオレンスが起きやすい場でもあります。食事に限らず日常的な嫌がらせへの不満が「ハラスメント」という言葉に共感する人々の間で「ヌードルハラスメント」へと向かった側面もあるかもしれませんね。
麺をすすることの是非をめぐる対立をどう解消するかって? それには食事の意味を考え直しましょう。皆でおいしい料理を囲んで楽しむことは、社会との接点をつくる基本的で大切な時間。お腹をいっぱいにするだけが目的ではないはずです。しかし現実は、麺料理の外食が示すように「1人で黙々と急いで食べる」殺伐とした体験の方が多いのではないでしょうか。もう少し、人生に余裕を持って、食事を他人との交流の場と捉え「皆で楽しくご飯を食べよう」と意識することで、自分も相手も気持ち良く食べられるようになると思います。(談)
この記事は2019年10月22日号から転載したものです。本紙では他にもオリジナルの記事を公開しています。
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