AI(人工知能)に対し多くの人はどのようなイメージを抱くだろうか。
便利な生活を提供してくれるもの?
人間の職業を乗っ取る危険なもの?
はたまた将来の良き話し相手?
その他にもAIの可能性は数多く挙げられるだろう。未来の生活を考えるのに、AIは今や欠かせない存在だ。
「知のフロントランナー」と学生たちが体当たりで来る未来について語り合う「未来授業」。10月15日、本郷キャンパスにて開催された今回は「AIは産業・社会の何を変えるのか? シンギュラリティ後の世界で私たちはどのように生きていくのか。」がテーマ。3人の多彩な講師陣は何を語るのか。本記事で「未来授業」の熱気を届けたい。
(取材・持田香菜子)
◇1時限目 松尾豊(工学系研究科特任准教授)
「人工知能の急速な発達は、社会の何を変えるのか?」
「みなさん、この世界は不思議だなと思ったこと、自分の存在は不思議だなと思ったことはありますか」
松尾講師は講義冒頭で参加者に問い掛けた。
自分が今ここに存在し、いずれ死んでいなくなることを疑問に思った経験のある人は少なくないだろう。自分は本当に存在するのか、今目の前にあるものは脳が見せている幻ではないのか……。松尾講師をAI研究の道へと進ませたのは、意外にもそんな哲学的な問いだった。人間の脳について知るために、脳の再現を試みるAIに目を向けたのだ。
AI研究は60年近く前から始まっていた。松尾講師によれば、現在は3回目のブームだという。第1次ブームでは、将棋の強さに象徴されるような、たくさんのパターンの中から最適な解を導き出せる能力の再現が試みられた。第2次ブームでは、知識の多さこそ知能の高さにつながると考えられ、大量の知識の注入が行われた。そして現在では、今までのAIが成し得なかった、現実世界の事象の中で注目すべき点を特定し適切な行動を採る、ということが「ディープラーニング」により可能になると期待されている。
AIの進歩により現在の産業はどう変わっていくのか。松尾講師は「目」を必要とする仕事が変わると言う。自動運転を思い浮かべると分かりやすいが、「目」すなわち「認識する力」が人間から切り離され社会に再配置されていくと予測されるのだ。
AIの能力がこのまま向上していけば、知能はいずれ自動化できてしまう。知能を除いた「人間らしさ」を考える局面に現在の私たちは立っているのだ。学生からは「人間がやっている仕事をAIが担うようになれば、人が人を楽しませるような娯楽を担う職業が充実するのでは」という意見が出た。「人間にしかできないこと」を問うことで、AIと共に生きる未来へのヒントが得られそうだ。
◇2時限目 山極壽一(京都大学総長/霊長類学者)
「ゴリラの世界から見た続・進化論~シンギュラリティ後のホモサピエンス」
2時限目の講義の鍵となるのは「コミュニケーション」。初めに山極講師は参加者に質問を投げ掛けた。
「年賀状は出しますか」
「何人に出しますか」
「SNSなどで新年のあいさつをする場合、何人程度に発信しますか」
会場の中では、年賀状を出すのが約半数、出さない人も多くがSNS等であいさつを発信しており、出す人数は年賀状・SNSともに100人前後が多かった。一度に大勢と関われるSNSを通しても、相手にする人数が手書きの年賀状と変わらないというのは興味深い。
実は脳の大きさと集団サイズは比例しており、人間の脳の大きさは150人程度の社会集団を形成することが可能であるという。そしてそのサイズを獲得してからというもの、長らく人間の脳は大きくなっていない。言い換えれば150を超える人数とは深い関係を築けないということになる。150は信用できる人の数の限界ともいえるのだ。新年のあいさつを交わす相手の数も、この集団サイズに関係しているのかもしれない。
ではSNSにおける大量のつながりとは何なのだろうか。SNSの特徴について学生からは「親密にならなくとも人とつながれる」という意見が出た。山極講師はSNSのつながりを参加しやすく抜けやすい、点のつながりと表現する。SNSでのつながりは流動的であるという便利さがあるが、心からの信頼は得にくい。SNSを使えば多くの人とコミュニケーションを取れている気になるかもしれない。しかしその規模は人間の集団サイズを超えているため、信用できないつながりが増殖しているにすぎないのではないか、と山極講師は問い掛ける。
山極講師は、人との会話でこそ得られるものに「ひらめき」を挙げる。知識の集成であるAIからは導き出すことのできない、その瞬間の緊張感に身を投じてこそ得られるインスピレーションだ。また人間には平均化できない好みがあり、予想外のものに興味を引かれることもあり得る。AIに好みを分析され方向付けられることに甘んじていては、思いもかけないものが生まれることを阻害してしまう恐れがあるのだ。身体を通じたコミュニケーションを守り抜き、想定外の事態が立ち上がる楽しさを大事にしてほしいと山極講師は強調した。
学生から「AIには、人間らしさとは離れたところで発揮するべき価値があるのでは」という意見が出た。山極講師は、AIは人間になり切れない一方で、アリにも魚にもなり得る可能性を秘めると指摘。人間の身体を持っていないからこそ、別の世界の見え方を提示してくれるかもしれないのだ。さらに、人間は自分のもつデータと共に死んでしまうのに対しAIは死なない知であるという驚くべき才能を持つとして、AIへの期待を口にした。
◇3時限目 川村元気(映画プロデューサー/小説家)
「集合的無意識の『発見』、クリエイティブの『発明』」
3時限目は、スクリーンでの川村元気作品集の上映で幕を開けた。『告白』『おおかみこどもの雨と雪』『バクマン。』『君の名は。』……。数々の有名作品の一場面が映し出され、冒頭の約10分間、会場は一気に映画館さながらの雰囲気となった。
AIの入り込めない最後の領域たり得るかもしれないクリエイティブの世界。その世界を代表する人物の一人である川村講師は、どのようにして魅力的な作品を生み出し続けているのか。そのモノづくりの方法を語ってもらった。
映画を作る際の原則の一つに「発見×発明」というキーワードを川村講師は提示した。自分が面白いと思った「発見」を新たな表現の「発明」により皆に伝わる形に仕上げるのだ。例えば『バクマン。』における「発明」の一つは、ただ映像化しただけでは地味になりがちな漫画制作の現場を映画アクションとして表現したこと。実際に漫画家・小畑健の仕事場を見学し「漫画家の体の中で起こる戦い」を目の当たりにしたことがヒントになった。
川村講師は「集合的無意識」を表現したいという。「集合的無意識」とは何か。ある日、自身が携帯電話を落としたときのエピソードを例に取って説明した。
「電車に乗っても携帯電話がないため手持ち無沙汰で仕方なく窓の外を眺めていました。すると空に虹が架かっているのに気付いたんです。ただ、電車内の他の人は携帯電話に夢中で誰も虹を見ていませんでした……」
この体験から川村講師は「何かを得るためには何かを失わなければならない」ことを意識した。日常の中では意識されない、しかし誰もが心の奥では共有しているはずの感覚。これを「集合的無意識」と川村講師は名付ける。皆が感じているがなぜか口に出さないものを人々に伝わる形で表現してみせることが、自分の仕事だと語った。
『世界から猫が消えたなら』で描かれる「集合的無意識」は、誰にも等しく待ち受けるはずだが日常では忘れられがちな「死」に象徴されるもの。この小説は、川村講師が少年時代から繰り返し思い浮かべるという「この世界から自分が消えたらどうなるのか」という想像を元にしている。自分が死んだらお葬式で泣いてくれるのは誰だろうか。もしかしたら仕事で毎日会うあの人ではなく、ずっと会っていない中学の親友だったりするんじゃないだろうか。そんな感覚を小説に落とし込んだ。
川村講師自身の望みで授業終盤の大きな割合が質疑応答の時間に割かれ、会場からは次々と手が挙がった。多くはAIと創作活動の関係についての質問。「こうしたら泣く、という定型を提供するAIは生まれると思うか」という質問に対しては「あったら僕だけに売ってほしいです(笑)」と切り返した上で、定型通りの展開に人は笑えないし泣けない、と答えた。AIが提示する「こう来たら泣く」という型からあえてずらしたものを作るという挑戦もあり得ると語った。AIのおかげで人間のややこしさがクリアになってくる、と川村講師のAIへの眼差しは柔軟だ。
「未来授業」閉幕
参加者からの質問は時間いっぱいまで続き、「未来授業」は盛況のうちに幕を閉じた。人間の知能を上回る可能性のあるAIの力は計り知れず、少し恐ろしさもある。しかし3人の講師はそれぞれ思いもよらないAIの可能性を提示した。未来はAIによって作られるものではなく、今ある私たちの行動一つ一つでいかようにも描き得るものだ。AIの存在は、私たちが未来を描くのに新しく手に入れた絵の具のようなもの。どんな未来を描くことができるのか、楽しみになってきはしないだろうか。
今回の「未来授業」の模様は11月3日(金・祝)16:00~19:00にTOKYO FMをはじめとするJFN38局にて放送される。また、ラジオ放送終了後には、特設サイトにてPodcastを配信する。