ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波文庫、斎藤忍随訳)は『思索』『著作と文体』『読書について』の3篇から成る。
『思索』では自ら思索することの価値と、思索と読書の関係が述べられる。「もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」
続く『著作と文体』では洗練し簡潔にした伝達すべき思想を平易な言葉で明瞭に文章にすべきだと説く。「確かにできるだけ偉大な精神の持ち主のように思索すべきではあるが、言葉となれば、他のだれもが使うものを使用すべきである」
最後に位置する『読書について』では新刊書の没落の早さを指摘し、古典の価値と読書が思索を要さない行為であることについて論じている。「むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである」
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これら3篇を貫くテーマは「自ら思索すること」だ。この3篇はそれぞれ「思索とは何か」「伝えるに値する思索結果とは何か、その結果をどのように伝えるべきか」「どのようなものを思索の糧にすべきか」について論じていると見なすこともできる。
ここでいう「思索する」とは「複数の物事を比較し、共通点を見つけようと試みる」こととし、「知っている」とは「その試みの結果、共通点を見つけた状態」を表す言葉だとする。これはショウペンハウエルのこの著作での主張に基づいている。従って「自ら知っている」と言えるのは「自ら思索し、自ら見つけた物事の共通点」だけだと理解できる。
では日頃、私たちが「知っている」と呼んでいる状態に目を向けてみよう。すると私たちの「知っていること」のほとんどは、講義、教科書、ニュース番組、インターネット記事、読書などから得たものだと気付く。さて、私たちは一体何を真に「知っている」と呼ぶことができるのだろうか。
私たちが「知っている」対象は、これまで教えられてきた入試問題の解法や画面越しで聞かされる大学の講義内容ではなく、その他もろもろの情報媒体から洪水のように溢れ出てくるうわさでもない。現代に生きるからといって、私たちはいつでも新しい「知っている」を得られるわけではないのだ。自ら思索し、時間をかけ、それでやっと何かを発見した場合に限り、新しく物事を「知る」ことができる。私自身、思い返せば最後に新しく「知った」のは、高校2年の冬だった。当時、私は英語のwithとロシア語の造格の用法の共通点の比較から、「ロシア語の造格の土台となる意味は一体何か」について一人、真剣に考え、付帯的意味に辿り着いた。しかしそれ以来、大学受験、入学後の進路選択を見据えた試験対策のために、自分の答えと模範解答を照らし合わせ、ただひたすら軌道修正を行う勉強にとらわれてしまった。
さらに2021年度の東大入学式を思い返してみる。すると、教養学部長は歴史上の権威ある人物の言葉を出発点とし、多様性の価値について説いていたことに気づく。根拠が他人の言説にある論者は議論の対象について真に「知っている」のだろうか。もし「知っている」のならば、既に権威のある人物が自分の言説に頼らないのはどうしてなのだろうか。それとも、私たちも権威に従って納得すべきなのだろうか。これを思い、私の経験と照らし合わせると、大学に来たからといって簡単に「知る」ことはできないのだと小さな知識を得る。
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『読書について』を読むにあたって、留意すべきことは二つある。まず、過激な言葉は読む人を酔わせること。次に、この著作だけが必ずしも全ての真理を語っているわけではないということだ。ショウペンハウエルの強い言葉に圧倒され、それを信仰することで一面的になってしまえば、思索という行為からは離れることになるだろう。
そして、いずれ『読書について』の読者は次の言葉に出会うことになる。「昔の偉大なる天才的著作家を論じた書物が、次々とあらわれている。主題として選ばれる作家は時によってさまざまである。ところで一般読者は、このような雑書を読むが、肝心の著作家その人が書いたものは読まない。それというのも新刊書だけを読もうとするからである。『類は友を呼ぶ』という諺(ことわざ)のように、現代の浅薄人種がたたく皮相陳腐な無駄口が、偉大なる天才の生んだ思想よりも読者に近いからである。しかし、幸い私は早く青年時代に、A・W・シュレーゲルの美しい警句に行きあたり、以来それを導きの星としている。『努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし』」【ラ】
著者
ショウペンハウエル(1788〜1860)
19世紀ドイツの哲学者。現在のポーランド・グダニスク出身。1818年に主著『意志と表象としての世界』を完成。記事中の3篇は『パレルガ・ウント・パラリポメナ』に収められている。
【記事修正】2021年8月24日午前11時37分 表記を修正しました。
【記事修正】2021年8月24日午後0時44分 記事タイトルおよび記事本文の『読書について』を『読書について 他二篇』に修正しました。また、誤字および表記を修正しました。
【記事修正】2021年8月26日午後4時40分 表記を修正しました。