学術

2023年9月4日

【New Generation】松木彩星博士研究員 揺れ動く生命現象の数学

 

 動く台の上で複数のメトロノームを揺らせると、メトロノームたちは徐々に振動の歩調を合わせ始める。ホタルの群れでも、ホタルが明滅するタイミングが集団で揃うことがある。このような「同期現象」(図1)は細胞の世界でも起きており、心臓の鼓動や体内時計といったリズミカルな生命現象に関わっていると考えられている。今回は、生命系に見られる振動現象を数学的に研究し、2022年度をもって博士課程を修了した松木彩星さん(北海道大学大学院)に、生命を数学的に研究する面白さと難しさについて語ってもらった。(取材・上田朔)

 

同期現象の例
(図1) 同期現象の例。(上)台車の上で複数のメトロノームを揺らせると、次第にメトロノームの振動がそろい始める。 (下)ホタルの群れでは、それぞれのホタルの明滅のタイミングがそろうという現象が知られている。

 

感染症の数理モデルから研究の世界へ

 

──生命現象の数理モデルとの出会いは

 

 高校生の時から「抽象的に物事を理解していく数学の方法は美しいな」と思っていて、東大入学後は数学を何かに生かせる工学部計数工学科に進学しました。オムニバス形式の講義で各教員から研究に関する話を聞く機会などを通して卒業研究の配属先を決めるのですが、私は複雑系の研究を行っていた田中剛平特任准教授(当時、現・名古屋工業大学大学院工学系研究科教授)の研究室に興味を持ち、そこで卒業研究を始めました。

 

 田中研究室で提案された研究テーマの一つが感染症の数理モデルに関するものです。感染症の流行を記述する一番簡単なモデルの一つはSIRモデルというもので、一つの地域の中で感染症に対する感受性保持者(S : Susceptible)、感染者(I : Infected)、免疫保持者(R : Recovered)の人口がどのように変化するのかを記述します(図2・左)。

 

地域ネットワーク上での感染症流行のモデル
(図2)地域ネットワーク上での感染症流行のモデル。一つの地域の中での感染症流行はSIRモデルで記述されると仮定し、さらに地域間の人の移動を取り入れる。

 

 一方、私の研究の問題意識は「たくさんの地域の間で人の行き来があるときに、感染が拡大するか収束するか」というものでした(図2・右)。例えば、地域のネットワークにおいて多くの地域とつながっているハブのような地域があると、その地域を起点に隣接地域へと感染が拡大します。このような場合に、ハブをターゲットにしたワクチンの配布や、人の移動制限などの政策介入を行うことが社会全体の流行抑制に効果的だと予想できます。そもそも人の往来が一つの大都市に集中しているような構造を持つ社会では感染症が拡がりやすい事が知られているのですが、数理モデルを使えばネットワークの性質と感染症の広がりやすさを定量的に関係づけることができると考えました。

 

 卒業研究では、多くの地域と接続されている地域に対して優先的に政策介入することで社会全体の流行を抑制できることを理論的に示しました。この成果は修士課程で論文になったのですが、現実の地域ネットワークの例としてアメリカ合衆国の航空網を使った数理モデルのシミュレーション結果も載せています。新型コロナウイルスのパンデミックが起きたのはその数か月後のことでした。その後は、より現実に近い感染症のモデルの研究が進んでいるようです。

 

 感染症の数理モデル化に取り組むこととは、抽象的に言えば「ネットワークを構成しているたくさんのモノが変動している」という問題を考えていることになります。このような枠組みは、例えば生態系における生物種間の「食う・食われる」の関係のネットワークにも適用でき、実際に似たような数理モデルで研究されています。今は、体内のバクテリアと、バクテリアに感染するバクテリオファージの増殖の動態を数理的に研究しているところです。

 

──振動現象の研究を始めた経緯は

 

 大学院で研究を始めた時は脳の「揺らぎ」に興味を持っていました。私たちの脳は、ボーッとしていても全く活動していないわけではありませんし、一つのことに集中しようとしても気がそれてしまったりするように常に揺らいでいます。かといって完全にランダムに揺らいでいるわけではなくて、なぜかいつも思い出してしまう記憶があるように、秩序を持った揺らぎもあるはずです。このような脳の揺らぎを単純な数理モデルで説明できないかなと思って着目したのが、たくさんの振動のリズムが揃う「同期現象」です。

 

 同期現象の研究では、振動しているモノがたくさんあって、互いにリズムを揃えようとするような相互作用が働いているという状況を考えます。同期現象を記述する代表的な数理モデルが「蔵本モデル」です。蔵本モデルでは振動するモノの歩調を「位相」(図3)という量で定量化し、ある振動子の位相と別の振動子の位相を相互作用させます。このモデルでは、相互作用が弱い場合には同期が起こらず、ある閾値を超えると振動しているモノ同士のリズムが揃うというように同期現象を再現できます。メトロノームの同期現象や体内時計の仕組みなどが蔵本モデルによって理解されています。

 

振動の位相の概念図
(図3)振動の位相の概念図。振動現象は円周上を回っている点の運動に対応付けることができ、その点の位置を表す角度を位相という。

 

 脳を単純な数理モデルで表現できるのか、段々と自信を持てなくなったのですが(汗)、そんな時期にマウスの脊髄神経系のデータを見せてもらう機会があり、歩行中に生じる同期に興味を持ちました。私たちは歩行するときに右足と左足を交互に出しますが、脊髄神経系に欠損のあるマウスでは右足と左足を同時に出すことしかできなくなるという実験があります。これを蔵本モデルで言うところの相互作用の違いとして理解できるのではないかと考えて研究を始めたのです。

 

どん詰まりの研究、新手法開発で打開

 

──研究でつまずいたことは

 

 それはめちゃくちゃあります。生物実験で得られた振動データが蔵本モデルで説明できるかどうかを調べるために、まず振動の位相をデータから抽出しようと考えたのですが、その段階からうまくいきませんでした。従来、振動的な信号から位相を取り出すときには「ヒルベルト変換法」という信号処理が行われていましたが、振動子がノイズなどの外力を受けているとヒルベルト変換法では正しく位相を復元できないことが分かったのです。

 

 最初は復元がうまくいかない原因が全く分からず、自分のプログラミングが間違っているのかと思っていました。プログラムにバグが無いと分かってからも「こんな場合にはヒルベルト変換法を使うとうまくいかない」と言っている先行研究が少なく対処法が見つからなかったので、どう研究を進めるのかはかなり困りましたね…。指導教官だった郡宏教授(東大情報理工学系研究科/東大新領域創成科学研究科)・小林亮太准教授(東大新領域創成科学研究科)と議論しながら研究していたのですが、3人とも「手詰まりですなあ」という雰囲気になったときもあります。正面から問題に取り組んでも解けなさそうな場合には、とりあえず問題からいったん離れて別の数値実験を試してみましょう、といったヒントを先生からもらうこともありました。最終的には、従来のヒルベルト変換法では正しく位相を復元できない種類の振動に対しても適用できる「拡張ヒルベルト変換法」という手法を思いつくことができました。

 

 拡張ヒルベルト変換法は、博士論文に成果を載せた時点ではまだ限定的な状況でしか使えない手法だったのですが、より幅広い振動データに対して使えるように改良しているところです。既に得られた実験データを蔵本モデルなどの数理モデルで説明することができれば、実験では見つけることが難しい現象を数理モデルで予測することもできるようになるのではないかと期待しています。

 

──これから研究を始める学生にアドバイスを

 

 フットワークを軽くして、他の研究者に話しかけてみることをおすすめします。私の場合、研究を始めた時は自分が大した研究をできている気がしなくて、学会でも大先生に話しかけるのにはかなり抵抗がありました。感染症の研究も、まさか論文になると思っていませんでしたし…。でも、やはり研究者は研究の話をするのが好きなので、とりあえずアタックしてみれば新しいアイデアをもらえるものです。自分と似たような人にはそうアドバイスしたいですね。

 

松木彩星(まつき あかり)博士研究員
松木彩星(まつき・あかり)博士研究員(北海道大学大学院先端生命科学研究院) 23年東京大学大学院情報理工学系研究科博士課程修了。同年より現職

 

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