本棚から東大教員の長年にわたる知の蓄積の一端が垣間見えるのではないかー そんな思いから生まれた新連載「東大教員の本棚」。初回は東大の研究者の間でも大変な蔵書家として知られ、「東大教授の本棚」という企画ならまずはこの人にと推薦された東大東洋文化研究所(以下、東文研)の大木康教授。しかし、大木教授の専門は「馮夢龍(ふうぼうりょう)」。聞いたことがあるという人は少ないだろう。この文学者を研究するのになぜそれほどの本が必要だったのか。来年の定年退職を前に、本を切り口として、研究人生について語ってもらった。 (取材・宮川理芳 撮影・臧喜来)
『三国志』も『雨月物語』も 馮夢龍は明代の出版文化のキーパーソン
━━先生の専門は明代の文学者・馮夢龍ですが、この作家は日本ではそれほど知られていないようです。どんな人ですか
知名度が低いのは私の力不足かもしれません。でも実はかなり広く影響力を持った人物でした。江戸時代に作られた怪談集『雨月物語』がありますね。実はこの中には馮夢龍の作品をストーリーはほぼそのままに日本風にアレンジしたものもあるのです。
特筆すべきは活躍の幅広さです。彼は明代末期の江南地域(蘇州、南京、杭州、上海など)の出版文化の中心的存在でした。印刷技術が普及したとされる宋代には、『論語』や唐詩など、すでに価値の定まった古典が出版されましたが、明代に入ると同時代に書かれた作品、さらにはいわゆる通俗小説なども数多く出版されるようになります。『金瓶梅(きんぺいばい)』は内容が際どいため当初は写本で、限られた人の間で楽しまれていたものを、彼が本屋に出版を勧めたと伝えられています。彼に写本を見せた人は、おとがめを恐れて出版しないでほしいと言っていたようですが、結局は出版されて大流行しました。また、『三国志演義』、『水滸伝(すいこでん)』、『西遊記』、『金瓶梅』という教科書にも載るような作品を、数ある通俗小説の中から「四大奇書」として選んだのは彼です。自分で書く才能だけでなく見る目もあった。今でもこの4部を古典としてありがたがるわれわれは、彼の手のひらの上で踊っているようなものなのです。
明朝の都・北京が陥落したのは彼が亡くなる2〜3年前ですが、江南地域と北京は2千キロの隔たりがあります。情報は数カ月もの遅れがあり、しかも不正確でした。彼は北京から逃げてきた人々の話を聞き取り、本にして出版しています。実際に明朝滅亡のニュースはそうした本を通じて、江戸初期の日本にも伝えられました。通俗小説の書き手であり、編集者であり、記者でもあったわけです。
━━研究者を志すきっかけとなった本や研究人生の転機になった本など、特に思い出深い3冊を教えてください
高校の漢文の授業で出会った陶淵明が好きで、もともと漢文には興味がありました。大学1年の頃、駒場での「全学一般教育ゼミナール(当時)」の授業で、馮夢龍の小説集『三言』の「売油郎独占花魁(邦訳:油売りが花魁(おいらん)を独り占めする話)」を中国語で読みました。貧しい油売りの男が、その真心によって、高嶺の花である売れっ子の妓女の心を射止める物語に引かれました。思えばこれが馮夢龍研究を志したきっかけでした。泥酔した花魁のへどを油売りの男が自らの衣類で受け止めたり、客に花魁がひどい目に合わされたところを救ったりして心を通わせるのですが、何といっても面白かった。
南京や蘇州の花街と文学との関わりの研究もしましたが、それは学生時代に読んだ前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房)という本の影響もあったかと思います。また、明代の出版文化の研究には、学生時代に流行していたフランスのいわゆるアナール学派、リュシアン・フェーヴル&アンリ=ジャン・マルタン『書物の出現』(筑摩書房)などの研究からヒントを得ました。研究は『明末江南の出版文化』(研文出版)という本にまとめ、韓国語や中国語にも翻訳されています。
━━これまで一番繰り返し読んだ本は
やはり馮夢龍の編んだ蘇州の民間歌謡集『山歌』でしょうか。学位論文で扱いました。ほぼ全篇が男女の赤裸々な恋愛についての歌で、当時の蘇州方言のまま記録されています。『山歌』の序文には、エリートが作る詩は形を整えているばかりで、心からの感動がない。対して、庶民たちの歌は、「男女の真情」を詠じて、真の感動がある、と述べています。実はこうした考え方は明代の文人たちには少なからず共通のもので、それが通俗小説の発展にもつながっています。1冊の本を徹底的に精読するためには、多くの本を参照する必要があります。『山歌』全380首の日本語訳注を作りましたが、先行研究のドイツ語の本も読まなければなりませんでしたし、歌の中に船が出てくれば当時の船に関する書物を、コオロギが出てくればコオロギの本を、といった具合に大量の本を買っては参照しました。
東文研は「毎日が他流試合」本だけでは得られない刺激
━━研究室とご自宅を合わせると何冊くらいの本を持っていますか
自宅では離れの1階が書庫、2階が勉強部屋ですが、母屋にも本棚はたくさん置いてあります。数えたことはありませんが、本棚1段に入る冊数を大体30冊と数えると、研究室にはおよそ1万冊、自宅にも同じくらいかと思います。薄い本、文庫・新書もありますからもっとあるかもしれません。
━━東大の教授の間でも蔵書家とされる先生ですが、なぜこれほど増えたのでしょうか
馮夢龍の活躍の幅広さや、そもそも精読には大量の参考文献が必要というだけでなく、私の専門が明清期だというのも理由の一つです。明清の資料は、いまでも相当多く残っていますし、中国の詩人文人は、過去の作品を踏まえながら、自分の作品を作っていきます。したがって、比較的新しい時代である明清期の文学者たちは、過去の膨大な作品を読んだ上で、詩文を作っている。そうした明清期の文学を正しく読解しようとすると、その前の時代の文学もよく知らないといけないわけです。私は特に通俗小説が専門ですから、現代中国語に近い言葉、さらには当時の方言俗語も混ざった文章までも読まなければならない。いきおい参照すべき本も増え、蔵書も増えました。
私が学生の頃は中国の本も安かった。今はだいぶ高くなりましたね。大学院時代に留学したころはあれもこれもと買っては船便で何箱も日本に送っていました。今でも中国へ行くたびにしょっちゅう本屋さんに行きますが、一度には1冊か2冊かしか買わないにしても、それが積もり積もって次第に置き場もなくなってきました。専門の江南地域である蘇州や上海ばかりでなく北京にも赴き、古書店をハシゴしました。上海の中心、南京路に「新華書店」という大きな本屋があったのですが、そこは昔は、開架ではなく店員さんに頼んで本を取ってもらう方式。毎日通っていたら店員のおばちゃんが顔を覚えてくれて、「もうあんたは勝手に入りなさい」と言ってくれました。懐かしい思い出です。
━━研究室の本棚にはどのような本を置いていますか。構成にこだわりは
勉強机がある研究室には古書、書誌・目録類、語学その他の参考書、文学史に関する書物、詞、戯曲、小説などを置き、隣の書庫には歴代の詩文、筆記小説、地方資料、民俗・芸能関係を置いていました。本棚の上にある黒い背表紙の本(下の写真)は大学院時代に買ったもの。『明代論著叢刊(そうかん)』という100冊近くある明代の文学者たちの詩文集のセットで、日本の書店を通じて台湾に注文しました。どさっと家に届いた時には親もびっくりして、怒られました。本を買って文句を言われたのはこの一度だけ。
━━「北の北京大学・南の復旦大学」とも言われる、中国でも有数の名門大学に留学していました。復旦大学の蔵書は東大と比べてどのようなものでしたか
復旦大学にいたのは博士課程の1年間だけです。1980年代の中国の大学は、古い書物を閲覧する手続きが煩雑で、開館時間も短く苦労しました。お昼には2時間くらい閉まってしまうので、仕方なく寮に帰ってお昼寝をしていました。これは現在も続く習慣。朝が2回来るようでおすすめですよ。
その後、都合1年半ほどいたハーバード大学や、台湾の大学・研究機関の図書館は中国研究に関して、中国語、日本語、英語の本がそろっていて非常に使い勝手が良かった。日本は中国研究に関しては歴史の長い国でもあり、東大も日中の研究書は手厚いですが、横文字はやはり相対的に少ないですね。
━━先生が所属する東文研の蔵書は世界的に見ても充実しているそうですが、どのような点が「充実している」と評価されているのですか
東文研は、戦前に中国研究のために作られた東方文化学院という研究機関の漢籍を中心とする蔵書を受け継いでいて、漢籍は豊富ですし、その他韓国・朝鮮・インド・東南アジア・アラビアなど、アジア全域の言語の図書を網羅しています。そもそも東文研はアジアの総合的研究を目的とした機関で、世界的なアジア研究の、日本における拠点としての役割があります。東文研に所属する30人ほどの研究者は政治、経済、思想、宗教、美術などさまざまな領域を専門としています。その30人が毎月所内で一堂に会して研究発表を行うんです。全く違う専門の研究者と頻繁に会うというのは本当に刺激になりました。毎日が一種の他流試合の場でした。色町や出版文化などの社会史的な研究は東文研の先生方から受けた刺激がなければできなかったでしょう。
また、先生方は多くがフィールドワーカーで、とにかく現地に行くことをモットーとしていました。私も江南地域はくまなく歩き回りました。建物は変わっても、通りや川、町の雰囲気はあまり変わりません。書物の中に書かれた風景をこの目で見て、現地の空気感を知ることで、ただ頭の中で想像するよりも、確信を持って作品の解釈をすることができます。
日本人は翻訳する努力を怠ってはいないか
━━2012年から14年まで所長も務めた東文研を来年春で退任します。研究人生を振り返って現在の心境を教えてください
コロナで容易に大学に行けなくなった時から、次第に仕事場を家に移すようになりました。退職後の生活の予行演習のようなもので、一種の軟着陸ができたかと思います。本を見るために東文研図書室などへは今後も来るとは思いますが。
東文研の助手になった当時の先生方が皆ものすごく早起きだったんです。競うように朝早くから研究しているのを見て、私も午前8時前には学校に来て仕事を始めるようになりました。以来40年続けてきたこの習慣は家にいても同じです。
とにもかくにも、好きなことのために毎日机に向かい続けてきました。そうした環境を保証してくれた東大には心から感謝しています。
━━漢詩文の研究者は、日中関係の悪化から減少傾向にあると聞きました。日本人が、あるいは現代において漢詩文を研究する意義はどのようなものだと考えますか
近年はテレビのニュースなどを見ていても、やたらと横文字の言葉が目につきます。東大の本部の方針などもそうですよね。しかし、横文字の言葉を果たしてきちんと理解して使っているのかどうか。なんだかそうした言葉を日本語として使う努力を放棄している、あるいは翻訳能力を失っているように思えます。中国語圏では、どんな横文字の言葉でも、漢語に翻訳して使う努力を怠っていないようです。コンピューター用語にしても、私は「テザリング」なんて聞いても何のことだかさっぱり分からなかったのですが、中国語圏では「移動熱点」と訳して使っています。明治の日本においてそうであったように、外国語を日本語に翻訳する時漢字が大きな力を発揮します。漢字漢文の教育をおろそかにしてきたことのツケが、このような場に表れています。日本語を痩せ衰えさせないためにも、漢字漢文の研究は必要だと思っています。
日中関係が悪化する状況であるほど、中国を理解する必要性は高まるべきであって、その重要度は増していくはずです。日中友好時代に研究者人生を過ごしてきた者としては、今の状況はちょっと寂しいですね。ただ国と国との関係いかんに関わらず、海外の研究者仲間との付き合いは変わらず続いていますし、私にとって面白くて面白くて、好きで好きで仕方のない中国文学はこれからも読み続けていきますが。
━━今後の展望は
研究者向けの論文や専門書はいろいろ書いてきましたから、今後はもっと馮夢龍の面白さを一般に伝える仕事がしたいと思っています。特に翻訳をやりたいです。彼の作品全てといわなくても、面白いものを選んで訳し、それがどこかの文庫に入ったら望外の喜びです。夢は世界史の教科書に馮夢龍の名前が載ることですね。これ、東大新聞でも強調しておいてくださいね。