GRADUATE

2024年10月13日

第31代日本銀行総裁・黒田東彦特任教授インタビュー【前編】 東大法学部から大蔵省へ 

 

 前日本銀行総裁の黒田東彦特任教授(政策研究大学院大学)。東大在学中に司法試験・国家公務員試験上級職(現・総合職)に合格した後、大蔵省(現・財務省)に入省。公務員ストライキなど国内外の大きな動きに直面した。その後第8代アジア開発銀行総裁などを経て、第31代日本銀行総裁に就任。退任後の今年4月には瑞宝大綬章を受章した。昨年歴代最長となる約10年の日本銀行総裁任期を終えた黒田特任教授に、東大での学びや、将来設計に悩む東大生へのメッセージを聞いた。前編では、東大での思い出や大蔵省時代の公務員ストの話を掲載する。(取材・本田舞花)

 

黒田東彦特任教授(政策研究大学院大学)
くろだ・はるひこ/東京大学法学部を卒業後、67年に大蔵省に入省。大臣官房調査企画課参事官、国際金融局長などを経て99年に財務官に就任。05年から13年までアジア開発銀行総裁、13年から23年まで日本銀行総裁を務めた。23年より現職。

 

黒田特任教授年表

 

【後編はこちら

後編では、自然災害対応に取り組んだアジア開発銀行総裁時代やこれから求められるリーダー像に迫る。

 

カール・ポパーに感銘を受け法学の道へ

 

──なぜ東大文科I類を目指したのでしょうか

 元々は数学や物理学に関心があり、当初は天文学者になるため東大を目指していました。高校3年生くらいの頃に、大学で物理学を学ぶ自信がなくなり、東大文系の中でも文科I類を志望するようになりました。

 

 もう一つのきっかけは、安保闘争ですね。中学3年の秋頃から高校1年の春頃にかけてちょうど最盛期でした。デモ隊が国会に乱入して警官隊と衝突するという事件も起こりました。ホームルームで安保条約改定の是非について皆で議論しました。多くの生徒は「ソ連や中国は脅威ではないが、米国との協力強化によって戦争に巻き込まれることは脅威だ」と安保条約改定を批判していましたね。一方私は「強権的な政治を行う中国やソ連こそ軍事的脅威であり、安保条約改定は、それらに対する抑止力を高める」と考えました。その頃、マルクス主義を徹底して批判する哲学者カール・ポパーの著作『歴史主義の貧困』に感銘を受け、彼の著作の『開かれた社会とその敵』の英語版を買って、辞書を引きながら必死に読みましたね。ポパーと出会ったことで、大学で社会思想を勉強したいと思い、文科I類への憧れが強まりました。

 

筑駒時代
東京教育大学附属駒場高等学校(現・筑波大学附属駒場高等学校)の頃。黒田特任教授は前列中央。(写真は黒田特任教授の提供)

 

──文科I類に合格し、東大での日々が始まりました。駒場キャンパスでの思い出は

 ポパーの原書を読めるようになりたいと思い、高校で1年ほどドイツ語を勉強していたこともあって、東大ではドイツ語既習クラスを選択しました。担任は小宮曠三(こうぞう)教授です。普通ドイツ語の授業というとゲーテやシラーの短編小説を扱いますが、小宮教授は「フランクフルター・アルゲマイネ(ドイツの高級紙)」の切り抜きを教材にしました。他には、一学期分の授業を使って「共産党宣言」を読んだこともありました。労働者向けのパンフレットですからとても分かりやすかったです。小宮教授ご自身はシュテファン・ツヴァイク(オーストリアの作家、特に伝記小説の評価が高い)の本を何冊も翻訳しており、ドイツ文学者として有名な方です。しかし学生に対しては、ドイツ人が日常的に書いたり話したりする言葉を理解できるようになることを重視されました。小説は凝った文体なので、ドイツ語の使い方よりも解釈や読み方が中心になってしまいますからね。

 

 小宮教授のアイディアで、駒場祭でフリードリヒ・デュレンマット(スイスの作家、劇作家として世界的な名声を博す)の『物理学者たち』をドイツ語で演じたこともありました。セリフを覚えるだけでも大変だった上に、結局ほとんど誰も観に来ませんでした(笑)。

 

黒田総裁 笑顔
東大での思い出をにこやかに語る黒田特任教授(撮影・園田寛志郎)

 

──最終的にポパーの原書は読めるようになりましたか

 結局ドイツ語では読みませんでしたね(笑)。ポパー自身戦後は英語で執筆していましたから、ドイツ語を使わずとも著作を原書で読めました。

 

 しかしイギリス留学時、思わぬ形でドイツ語を使う機会がありました。東大卒業後オックスフォード大学に留学した時、夏休みはカンファレンスがあるからと寮から追い出されてしまいました。日本に帰るわけにもいかず困っていたら、ちょうどマンハイム大学で下宿付きのドイツ語研修があったので参加しました。文法や難しい単語は分かるので試験で上位のクラスに入ることになりましたが、会話や発表では全く喋れませんでした。ドイツ語を学んだことでドイツに対する関心は高まりましたが、会話能力は結局身につきませんでしたね(笑)

 

留学時代
オックスフォード大学留学(写真は黒田特任教授の提供)

 

──後期課程では、法学部に進学しました

 前期教養課程で履修した碧海(あおみ)純一教授の「法学概論」の授業が面白くて、法学部に進学してからも碧海教授の法哲学の講義や演習を受けました。碧海教授はバートランド・ラッセル(英国の哲学者)やポパーなどの分析哲学の手法を用いて法に関する基本的な知識を教え、法学の根本問題の解決方法を鮮やかに説明してくださいました。私は当時ポパーに憧れて法哲学の研究者を志していたため、ぜひ碧海教授の助手になりたいと思っていたのですが、中々お願いする勇気も出ませんでした。後で知った話ですが、私は大蔵省を目指しているらしいという話がどこからか碧海教授の耳に入っていたらしく、碧海教授は私を助手に推薦するのを諦めたそうです。すれ違いで研究者になる道は無くなったので、裁判官を志すようになりました。

 

──東大で学ぶことの魅力は

 法学部での法律の勉強は真理追求というよりも解釈論でした。それだけではあまり面白くなかったです。日本法制史などの講義も取ったのですがなかなかピンと来なくて、経済学部で財政学や金融論の講義を受けました。卒業する時に教務課に成績表を取りに行ったら、職員の方に、法学部の学生でこんなに経済学部の授業を取る人は滅多にいない、と驚かれました(笑)。前期教養課程では法学だけでなく科学史など幅広く授業を履修しましたし、学部にとらわれず関心分野を学べるのは東大の魅力だと思います。

 

 もう一つの魅力は、学生ですね。私は中高一貫校に通っていました。6年間、90人くらいでずっと一緒に学んでいたので、同級生とはお互いの考え方を知り尽くしてしまいました。ちょっと話しただけで相手の考えていることは分かってしまうのです。東大に進学してからは、ドイツ語既習クラスも法学部もいろいろなバックグラウンドや関心を持った人がいました。何の議論をするにしても、言葉を尽くして話さないとお互いを全然理解できないということが驚きでした。徐々に慣れていき、同級生との会話で非常に刺激を受けるようになりました。

 

──最終的に大蔵省を志望するようになったのはなぜでしょうか

 実は公務員になるつもりはありませんでした。民法の星野英一教授が、法学部に入ったからには司法試験を受けろと言うものですから、同期の友人たちと勉強会をして試験を受けました。国家公務員試験も受けましたが、両方通りました。

 

 裁判官になろうと思っていたのですが、母親に「お前に人を裁けるか」と言われました。私には死刑判決はとても無理だと思い、裁判官を目指すのはやめて大蔵省を目指すようになりました。面接では試験官に「今どんな本を読んでいるのか」と聞かれました。ちょうど読んでいたラッセルの『数理哲学序説』を挙げたら、とても話が盛り上がりました。実は試験官は東大の理学部数学科から経済学部経済学科に転籍した方で、数学に非常に詳しかったのです。議論が盛り上がったおかげか内定をもらいまして、大蔵省大臣官房秘書課に配属されました。大蔵省に入るからには財政や金融に関わりたいと思っていたので、人事や採用の担当になったというのは、あまりピンと来ませんでしたね。

 

東大法学部から大蔵省へ 公務員ストと大学紛争

 

──大蔵省大臣官房秘書課では、どのような仕事を担当しましたか

 大蔵省大臣官房秘書課調査係の仕事は、職員の海外出張の世話や上級職の採用の手伝いなどです。当時の秘書課の懸案事項は、国家公務員のストライキに関する審議でした。基本的に、国家公務員は、団結権は持っていますが、団体交渉権も争議権もありません。「公務員がストを行うことは公共の福祉に反する重大な障害になる。だからストはできない」というロジックが通説でした。しかし、警察官や消防職員など業務が国民の日常生活に直接関わる場合はストを行うと大変なことになるが、官僚の多くは国民の福祉に直接大きな影響を与えないし、むしろ鉄道職員や電力会社社員がストをしたら、国民生活に大きな影響が出るのではないか、という意見が出てきたわけです。

 

 内閣の公務員制度審議会で議論が進む一方、公務員制度に関する大蔵省大臣官房秘書課に私的勉強会ができ、調査係は弁護士や内閣法制局の OB の意見を聞く機会がありました。勉強会の議論では「公務員の給与は法律と予算で決められており、政府が議会の承認を得ずに組合の団体交渉に応じて事実上給与を決めてしまうのは、財政民主主義に反する」という結論になりました。最高裁の判例も、その後、公務員に団体交渉権や争議権を認めない理由として「国民の福祉への影響」から「財政民主主義に反する」というように変化していったのです。

 

黒田さん
公務員ストの思い出を語る黒田特任教授(撮影・園田寛志郎)

 

──当時は大学でも紛争が起こっていました

 東大では、医学部の研修医問題をめぐる紛争がきっかけとなって、68年東大紛争が起こり「東大安田講堂事件(全学共闘会議と新左翼の学生たちが安田講堂を占拠。警視庁機動隊の動員に至った)」につながりました。大蔵省は当時20数人上級職の採用を予定していて、8割方が東大の法学部や経済学部の学生でした。結局、内定者のうち2、3名は「大蔵省も東大と同じアンシャンレジーム(旧体制)だ」と言って入省を断ってきました。

 

 68年は、全世界でデモが起こっていた時代です。アメリカではベトナム戦争への反対運動、日本では全国規模で学生運動が起こっていました。フランスでは、授業料値上げに対する学生の反対運動が労働運動に結びついて五月革命が起こり、西ドイツでは学内民主化要求が行われていました。現在は、コロンビア大学といった全米各地の大学で、イスラエルのガザ地区への侵攻に対する抗議運動が行われていますね。約50年前と同じように、学生たちの運動が欧州の一部や中東に広がっています。

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