「生きづらさ」という言葉が社会で頻繁に使われるようになって久しい。特にコロナ禍では、日本社会を取り巻く閉塞感や圧迫感はいっそう増している。アナキズムという一見突飛な思想、それは「生きづらさ」の現代社会に何を投げ掛けるのか──。東大で「近現代史」の授業を担当し、アナキズムを専門とする政治学者の栗原康さんに聞いた。(取材・近藤拓夢)
「人間を支配すること」を認めないのがアナーキー
──昨年度から駒場で教壇に立っています。研究テーマであるアナキズムについて教えてください
アナキズムは「anarchy(アナーキー)」と「ism(イズム、主義)」から構成されている言葉です。さらに「anarchy」という語は古代ギリシア語の「arkhē(アルケー、統治・支配・原理・根拠)」という言葉に否定の接頭辞「an(アン)」が付いたものです。よって、アナキズムは「無支配主義」と訳すことができます。アナーキーというとめちゃくちゃなイメージがありますが、本来は人間を支配することを認めない、という発想なのです。「人間を支配すること」とは、暴力を使うだけではなく、家庭内での立場や金銭を使って他人を服従させることも含まれます。
直接暴力を振るわれてはいないけれども、気付けばアルバイト先で店長や上司の「奴隷」のようになっているという経験は、学生の皆さんもあるのではないでしょうか。「お金を稼がなければ死んでしまう、生活がやっていけない」という状況では、お金のためにいつの間にか支配されている、ということがあるのです。
──アナキズムの起源について教えてください
支配や統治に反対する考え方の歴史はとても古く、どこを起源とするかには論争があります。東洋思想でいえば老子や荘子にまで遡(さかのぼ)りますが、思想としてのアナキズムが現れてくるのは近代以降です。アナキズムという言葉を使い始めたのは、19世紀フランスの活動家プルードンだといわれています。もともとは、権力者や既存の政治秩序に従わない「ならず者」に対する侮蔑の意味を込めて「anarchie(アナルシ、無秩序)」という言葉が使われていました。それに対し、プルードンは「ならず者上等だ」と開き直り、むしろ社会から逸脱していく生き方こそが真の意味で人間らしい生き方ではないのかと考えたのです。プルードンの思想に共感する20世紀以降の思想家たちがアナキスト(無支配主義者)を自称し始めました。
──最近、NHKでは日本のアナキスト、伊藤野枝のドラマが制作されました。栗原さんが専門としている伊藤野枝について教えてください
伊藤野枝は、なんといっても人物像が破天荒、猛烈で面白いと思います。学生の皆さんの年代では、就職や将来のために「金になるもの」「役に立つもの」を重視しがちで、本当に自分がやりたいことは後回しになることも多いかと思います。それに対して、伊藤野枝は「本を読みたい」「勉強をしたい」という思いだけで福岡から上京しました。上京した後も、上野の学校で教諭をしていた辻潤に恋してしまい、親類の反対を振り切って駆け落ちをすることになります。さらに、その後はアナキストの大杉栄と不倫をし、育児と文筆活動を両立させるなど「やりたいことだけをやる」というポリシーのもと、さまざまなことに挑戦を続けた人でした。
──コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻などでは、個人の自由と社会全体の利益が鋭利に対立するという状況が生まれました。支配を否定し、個人の自由を最大限尊重するアナキズムの理想からは程遠い現在の状況をどう考えますか
そもそも「社会全体の利益」というものを考える必要があるのでしょうか。また「社会」というものは存在するのでしょうか。たとえ社会全体の統計的データを出されて「社会のために個人はこのように行動しましょう」と言われても、どうしてそのようにしなければいけないのか、という疑問が残ります。しかし最近の戦争やパンデミックのように、カタストロフ(破局)的な状況に陥ると「個人は社会全体の利益のために従わなければならない」と思うようになってしまいます。
大杉栄や伊藤野枝も言っていますが、人間が奴隷状態になってしまうのは、生死の危機が迫る時だと思います。「何かをやらなければ死んでしまう」と思わされる状況が作られたとき、人々がいとも簡単に自らの権利を手放してしまうところを見ると、生殺与奪の権を他人に握られた古代の戦争捕虜が奴隷の起源であった、という歴史を連想してしまいます。今のような危機の時代であるからこそ、社会や国家に安易にとらわれない思想が重要だと思います。
──コロナ禍の前と後で人々の行動はどのように変化したと思いますか
個人を軽視する考え方が力を増した一方、そのような考え方に回収されない人々の新たな行動も生まれたと思います。「やばいな」と感じる状況が生まれると、人間は勝手に協力するものなのです。私も新型コロナウイルスに感染したことがあるのですが、近所の人や友達に助けてもらいました。逆に、知り合いが新型コロナウイルスに感染した際は、自分の体験を基に生活の支援をしました。特にコロナ禍のように、行政が対応できないスピードで刻一刻と状況が変化していく危機においては、行政に頼らずに自分たちで助け合って危機を乗り越えていく人付き合いが力を発揮したと思います。これをアナキズムでは自治やオートノミーと言います。このような助け合いの精神によって、個人がより自由に生きていく──大杉栄の言葉を使えば「生の拡充」が達成される──ことができると思います。コロナ禍でこそ、アナキズムを主張したいです。(後編へ続く)
栗原康(くりはら・ やすし)さん
09年早稲田大学大学院博士満期退学。修士(政治学)。14年より東北芸術工科大学非常勤講師。著書に『大杉栄伝── 永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)、『はたらかないで、たらふく食べたい ──「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)など。