2020年3月に東大を退職後、特別教授として再度着任した建築家の隈研吾氏。同年6月に積水ハウスの寄付を受け、国際建築教育拠点のSEKISUI HOUSE – KUMA LAB(*)を立ち上げた。世界を股にかけて活躍する建築家は、なぜ東大に残り、教育活動を続けているのか。後編では隈特別教授の教育観に迫る。(取材・安部道裕)
(*) 国際建築教育拠点(SEKISUI HOUSE – KUMA LAB)は2020年6月に株式会社積水ハウスより寄付を受け発足し、2025年5月までの5年間、国際デザインスタジオ、デジタルファブリケーションセンター、デジタルアーカイブセンターの3つの活動を展開する。詳細は公式webサイトを参照。
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教育における「ものづくり」の力
──教育に携わるようになったきっかけは何ですか
設計事務所を始めた時から、学生と一緒にいたいなと思っていた。というのも、設計の仕事をしていると「おじさん」としか付き合わなくなるでしょ。おじさんと付き合うと面白いこともあるけど、おじさんはある意味「昔からのシステムに乗って生きてきた人たち」だから、未来を想像したり楽しく考えることはあまりしない。だけど、若い人の考えることはその時代を映していることもある。学生と接し続けることが自分が変わっていける一因になるとも思った。
海外で行うレクチャーやクリティークも学びが大きいよ。海外の学生が興味をもつプロジェクトやリアクションは想定していたものと全然違うし、90年代から海外の学生と交流していた経験が2005年頃に始まる海外プロジェクトで生かされたと思う。
──長年教育に携わる中で、教育観の変化はありましたか
ものづくりが想像以上に学生を育てることに気付いた。こちらが具体的に何か教えなくても、ものづくりのプロセスの中で学生が自分でどんどん学習して成長する。東大では建築学科の学生が毎年五月祭の期間中に自主的にパビリオンをつくるんだけど、それに携わった学生は「自分でやれるんだ」という自信や自主性を持つ。そこで中心的な役割を果たした学生は、その後世の中に出てからすごく活躍している。「一つものをつくっただけで、人ってこんなに変わるんだ」と実感したね。
──いつから学生とものづくりを始めたのでしょうか
慶應義塾大学で教えていた頃かな。アメリカから帰ってきてから、非常勤講師として法政大学や東京工業大で設計を教え始めたんだけど、2000年に慶應で研究室を持つようになって、その頃から学生と一緒にものづくりを始めた。学生と高知県梼原町の現場に行って、古民家を改修したプロジェクトは印象深いな。事務所のプロジェクトで使ったウォーターブリック(ポリタンク)を研究室で譲り受けて、梼原に持っていったんだ。ちょうど、梼原の庁舎案を慶應で考えていて、村上周三先生とかと環境に優しい庁舎を町に提案する予定があったからね。当時は町に泊まれる場所もあんまりなくて、学生が泊まる場所として町が貸してくれた空き家を改修したんだ。襖や天井を取り払って、間仕切りのようにウォーターブリックを積んだ。学生はそれぞれの身体感覚に基づいて、巣をつくるように自分の居場所を作成していたよ。「アオーレ長岡」も学生達とコンペに出したことから始まったプロジェクトだよ。
──学生とプロジェクトをするきっかけがあったんですか
おそらく、学生とプロジェクトを動かすようになったのは、建築におけるDXみたいな世の中の流れがあったからだと思う。建築におけるデジタル化は90年代から始まったんだけど、90年代以前の大学教育では学生とものを一緒につくる動きはあまり見られなかった。
建築におけるデジタル化はある意味「建築の民主化」という側面があって、自分のパソコン一つで何でもつくれてしまうという革命だった。実際にものをつくるとなってもデジタル技術の助けがあれば自分1人で全てできてしまう。ものづくりとデジタル化が同時並行で進んだのが建築の世界の面白いところだと思うね。
──デジタルファブリケーションの実践やデジタル教育も、学生とのものづくりと同時期に始めたということでしょうか
そうだね。当時はまだまだ3Dプリンターや工作機器が高価だったから、他の研究室に貸してもらったり、協働プロジェクトのような形で用い始めたよ。T-BOXでは、KUMA LABの人だけじゃなくて、どの学年のどの研究室に所属する建築学生も使えるようにしている。建築学科以外の人でも、学内で使いたい人がいたらぜひ来てみて、実際に触れてみてほしい。
正解がない世界のダイナミズムを感じて
──「建築には正解がない」とよく言われますが、正解がないことを教えるのは難しいのではないですか
正解を教えるだけだったら人間が教えなくても教科書を読んでもらえばいい。人が人を教えるからには「正解がない世界のダイナミズム」を感じさせないと。それはアメリカの大学で僕が一番学んだこと。先生同士が学生の目の前で異なる意見を戦わせるところを見て、「これが世の中のダイナミズムなんだ」と実感した。だから学生には「僕の言うことは一つの解答かもしれないけど不正解かもしれない」と伝えている。僕自身も不完全な人間だということを学生に認識してもらうことを心掛けているよ。
──求められる知識や能力が増えるなかで、今の日本の学生や若い建築の卵にはどのようなことを学んでほしいと考えていますか
今見えている正解は明日の不正解かもしれない。そういう世の中のダイナミズムを建築に吸収するシステムが日本にはなくなってきていると思う。正解・不正解というのは相対的なものだということを学んでほしい。そのためにもいろんな人間と付き合って、旅に出て、他者性を確認するというか、引きこもらない学生になってほしいな。
原研究室には社会学の見田宗介や情報学の吉見俊哉といった、東大のいろんな分野の人が出入りしていていた。そういう交流みたいなものに僕は大きな影響を受けたし、原先生が僕の回路を開いてくれたと思う。今でもいろんな人に会って話をすると、自分がやってきたことがいかに建築というフレームの中に縛られているかがよく分かる。さまざまな人に会い続けることを自分の中でも一番大切にしている。
建築家・隈研吾のこれから
──現在見据えている最終目標はありますか
特に何か目標があるわけではないけど、最近は自分の積み重ねてきたやり方や経験を伝えていくことに重心を置いている。建築学生に奨学金を支給する財団を始めたり、開かれたサテライトオフィスを全国各地につくったり。サテライトオフィス第一号の北海道東川町では蜂蜜作りをしている人がデスクを借りてくれた。うちの設計事務所のスタッフだけじゃなくて、その地域のデザイナーや面白いことに挑戦してる若者にもどんどん使ってもらいたい。いろんな分野の人が一緒に仕事して、交流できるような場所が蜘蛛の網みたいに広がっていったらいいな。その願いを込めてこのプラットフォームを「KuMO」っていう名前にしたんだけど、ここを通じて僕の考えていることが他の分野の人にシェアでしていきたいし、その人たちの考えていることを僕も学んでいきたいんだ。
【インタビュー前編】
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