今年で創刊101周年を迎えた東京大学新聞は、東大の歴史を今に伝える貴重なアーカイブと言っても過言ではない。そこで、帝大時代から現代に至るまでの東大の知られざる側面を、現代の視点からの批評も加えつつ、本記事を基にダイジェスト版でお届けしたい。題して「東大新聞で振り返る知られざる東大の一面」。今回は昭和時代(戦前)の興味深い記事を2つピックアップした。(構成・友清雄太)
雪にはしゃいだ帝大生
『帝国大学新聞』1936年1月27日号(11面)
この年、強力なシベリア気団の寒波により、本郷キャンパスの三四郎池が凍った。老教授たちが寒さで研究室に閉じこもる一方、血気盛んな学生たちはスケート靴を持参し、三四郎池でスケートを楽しんだとか。数日後には近所の小・中学生に加え、大人たちもげたのままスケートする始末。守衛たちが氷上立ち入り禁止の看板を盾に「這入つちゃいけねェと書いてあるぢゃないか子供達は上れ、上れ」と子供を退散させたが、帝大生たちはお構いなし。「氷がわれて落ちて死んだら俺達の責任だからなあと學門監理者にはとんだ迷惑」。その翌日には、当時まれに見る固い粉雪がふぶいて、庶務課の若い職員までもスキーを満喫したとか。何ともほほ笑ましい一幕である。
物珍しいものを楽しむ心は今も昔も変わらないようだ。それにしても、東京ではあまり大雪が降らないのに、学生たちがスケート靴やスキー装備を所持していたことが驚きである。
戦時色反映された五月祭
『帝国大学新聞』1942年5月4日号(7面)
アジア・太平洋戦争下で初めて開催された五月祭のレポート記事。「大東亞戰争と學生」をテーマに据え、戦争に関連した催し物を提供した学部学科が多かった。例えば、工学部では、航空学科が陸軍〇〇(原文ママ)式新鋭戦闘機を展示。人気は機械学科が展示する米機の焼夷弾だった。医学部では南方の伝染病の研究展示などを、理学部の地質学科では戦時下の石油の詳細説明を行った。史料編纂所では、「秀吉と東亞經營の資料」などを展示した。熱心な参観者が多く、中には白文の史料を読む者もいたと報じている。
もちろん、全ての学科で戦争にちなんだ催し物をしたわけではないが、それでもその量の多さは明らかに平時とは異なる。開戦から半年しか経過していないからか、「(焼夷弾を触る女性が)『こんなのだつたらあたしでも消し止めるわ』とは未だ見くびるのは早いです」、「(グラウンドでの火焔発射器放射実演において)定刻十一時、二時、三時すでにグランドは超滿員、物凄い火の柱に観衆タヂタヂ、之なん新兵器“身を焦がすばかり“と云つて之ばかりは御めんかうむり度いと」などユーモア調の記述も多く、記事全体からどこか余裕を感じる。しかし、1943年秋からの学徒出陣で多くの帝大生が戦時に赴き、残った学生や教員も疎開する中で、ついに44、45年の開催はなかった。復活するのは、終戦後46年であった。