今年で創刊101周年を迎えた東京大学新聞は、東大の歴史を今に伝える貴重なアーカイブと言っても過言ではない。そこで、帝大時代から現代に至るまでの東大の知られざる側面を、現代の視点からの批評も加えつつ、本記事を基にダイジェスト版でお届けしたい。題して「東大新聞で振り返る知られざる東大の一面」。今回は1960年代の興味深い記事を三つピックアップした。(構成・友清雄太)
ああ青春の三鷹寮
1964年7月1日号(5面)
教養学部三鷹寮に、鉄筋コンクリート4階建ての新寮舎が完成したことを報じる記事。この新寮舎は、設備面の不備を感じていた寮生たちが中心となって計画したもの。個人の空間が不十分だったことを受け、寝室、談話室、自習室の3部屋を一単位とし、従来の12人使用から8人で使用する「八人制」に変更。自習室には1席ずつボックスを設けるなど、個人の空間の拡大に配慮した設計に。同時に、各階に共用室を設け、学生間の交流促進も図った。「これらの方式は全国の学寮でも全く新らしいものとして注目されている」。当時の新寮建設委員会の委員長は「今後新寮舎を寮生の手で国のモデル寮としたい」と語った。
当時の三鷹寮と現在の三鷹国際学生宿舎は別物である。現在の「三鷹寮」は、老朽化した旧・三鷹寮と駒場寮の廃寮に伴う形で、1993年に第一期工事が竣工した(注:駒場寮の廃寮が完結したのは2001年で、それより先に現・三鷹寮が竣工している)。
現在は、その特徴的な見た目から「監獄」「住むことがバイト(注:家賃が非常に安価な三鷹寮に住むことで生活費が大幅に浮くため)」などと寮生にやゆされる三鷹寮だが、半世紀前には国内最先端の設備が整っていたのだった。
東京五輪と駒場キャンパス
1964年9月9日号(3面)
実は、駒場キャンパスは1964年の東京五輪の練習場に指定されていた。本記事は、東京五輪に向けて第一、第二グラウンド、ラグビー場、野球場の改修が完了したことを報じている。同年5月に自衛隊のオリンピック自動車訓練隊員が無断入構して来た苦い経験があるため、東大関係者は練習場使用期間中の警備に相当頭を悩ませていたそう。
駒場キャンパスが練習場に指定された理由は、現在の代々木公園に当時の選手村があり、その地理的利便性から。2021年開催予定の東京五輪には駒場キャンパスは利用されないが、2016年の招致活動では第一グラウンドが陸上競技場の練習場に指定されていた。もし、2021年大会で指定されていたら五輪選手と東大生の間で予想もしない化学反応が生まれたのかもしれない。
朝寝坊を許す新駅舎
1965年7月12日号(5面)
コロナ禍前は前期教養課程の学生の大半がほぼ毎日利用していた駒場東大前駅。現在の駅舎が完成したのは、1965年のこと。1億3千万円(当時)の工費がかけられ、渡線橋の上に駅舎を設けた。「駒場名物のカケコミ乗車がこれからは見られなくなるが、学生の間では『教室への距離がぐっと短かくなった』」「定期券が安くなる上、三分は朝寝坊ができる」と当時の学生に好評。「新駅から正門までは、オリンピック道路なみに舗装がなされ、樹も植えられるとあって、駒場村にも近代化の波が押しよせてきた感がある」と評されている。
それまでは「駒場駅」と「東大前駅」が非常に短い距離間で存在していたため、両駅を統合する形で新設された。「東大前駅」は正門から出て左手に下った位置にあり、新駅誕生によって確かにキャンパスに辿り着くのが数分早くなった。「三分は朝寝坊ができる」と語っていた学生は、果たして授業に出席できたのだろうか。
記事は「ラッシュ時に新駅からはき出される学生の姿はまさにマスプロ教育の象徴を思わせるものがある」と締めくくられている。当時の記者は、まさか授業を自宅で受ける時代が到来するとは予想すらしていなかっただろう。