入試本番も目前だ。残り時間を存分に生かすためにも、息抜きに入学後のイメージトレーニングをしてモチベーションを高めたいところ。しかし、そもそも入学後に待っている学びとは一体どんなものなのか。哲学を研究する國分功一郎准教授(大学院総合文化研究科)に取材し、大学の学びの魅力を探るとともに、受験生へのメッセージをもらった。
(取材・桑原秀彰)
自由味わった大学生活
──高校生・受験生時代をどのように過ごしましたか
高校は早稲田の附属校だったので早稲田大学に行くんだろうなと思っていました。学部を選ぶ時も、文学部入学も考えましたが、結局、決め手がないから偏差値で選んで、政治経済学部に行きました。
高校生時代は、なかなか忙しく過ごしていましたね。音楽部、新聞部、生徒会、バンド、いろいろやってました。当時は哲学に特に興味があったわけではなくて、日本文学ばかり読んでいました。遠藤周作が結構好きでした。本は結構読みましたね。
──大学の授業はどうでしたか
1年生の一般教養の授業は大変面白かった。一度も欠席せずに、一番前の席で聴いていました。特に面白かったのは、高橋世織教授(当時)の国語表現論の授業でしたね。ジャック・デリダとかロラン・バルトとか、フランス現代思想の話もそこで初めて聞いたんです。何についての授業なのかうまく言い表せない、独特な授業でした。今でも講義ノートは取ってありますよ。
2年生になると、政治学科の専門科目の授業が始まったのですが、全く興味が持てなくて、全出席から全欠席になった。ノートさえあればテストは簡単だったから、授業に出ないで本を読んだり、自分で勉強したりしていましたね。
──高校の学びと大学での学びの違いはどのようなものだと思いましたか
一言で言えば、大学の学びは「自由」だということでしょうね。大学では、自分で好きな授業を自由に選べて、何を学んでも許されるし、専門も自分で決められる。本当に素晴らしいところだな、と大学に入った時に素直にそう思いましたね。だから僕は本当に大学が好きなんですよ。
最近はその自由があまりありがたいことと思われていないらしくて「履修のモデルってないんですか」と聞いてくる学生がいるそうです。それにはちょっと驚きます。自由を味わったことがなければ自由を欲することはできませんよね。教員や先輩が、大学の持つ自由の味をもっと伝えても良いのかなと思います。
──学生時代に、授業以外で印象に残っていることなどはありますか
研究会のようなサークルに所属していて、1年生の頃からそこで友人と毎週勉強会を行っていました。何か読みたい本があったら一緒に読むんです。プラトンの『国家』もマルクスの『資本論』もそこで読みました。これが本当に楽しかったし勉強になりました。
サークルの友人とは本当にいつも議論してました。誰しも偏見とか無知とかがあると思うんですけれど、そのことをいつも指摘してもらえた。その中で、自分を見つめながら、少しずつ自分自身の考えというものを作っていったんだと思います。僕自身ももちろん納得できないことははっきり指摘していました。あの環境には今も感謝しています。
──哲学を研究しようと決めたのはいつ、どのような思いからですか
「哲学」というものを自分の研究対象として引き受けようと思ったのは、実は30歳くらいになってからなんです。それまではただ一生懸命に課題に取り組んでいただけで、自分の専門領域とは何かなんてことを考える余裕はありませんでした。ただ、学部の1年生の時から政治思想・政治哲学には興味があって、例のサークルでもホッブス、ロック、ルソーなどを読んでました。特に政治思想に関心があったのは、やはり政治や社会に強い関心があったからでしょうね。でも、特にこれというものはなかなか決まりませんでした。結構悩んでいたと思います。
そのせいで卒論のテーマも全然決まらなかった。結局ライプニッツで書いたんですが、それに決めたのは確か4年生の秋頃だったと思います。まだ邦訳がなかったジル・ドゥルーズのライプニッツ論の仏語原書を背伸びして買ったんですが、それを読んだら「ああ、これなら大学で自分なりに勉強してきたこと、考えてきたことをまとめられるかも」って思えたんです。卒論で書いたことは今の研究でも役に立っていますね。
その卒論を提出して、駒場の総合文化研究科の修士課程に進学したのですが、修士課程に入った時は本当に楽しかったですね。思想好きの人たちがあちこちから集まってきた感じで、いつも同期の友だちと話をしていました。とにかく僕はいつも人と話していますね。
修士過程では結局スピノザを研究対象に選びました。今でもスピノザの研究をしています。スピノザには分からないところがたくさんある。だからこそ、そこが分かれば自分の考えを一変させるようなものになり得るんです。スピノザの哲学は今でも僕の考えを変え続けてくれています。昨日もそういうことがありました(笑)。
その後、ずっとスピノザ研究を続けていくことになりますが、先程も述べたように「自分は哲学をやっているんだ」という意識はありませんでした。そもそも僕は日本の大学では文学部の哲学科に所属したことがない。でもだんだんと自分の研究領域として哲学を引き受けようという気持ちになっていったんですね。
大学は、知を産む場所
──Aセメスターに教養学部前期課程で担当されていた「哲学Ⅱ」はどのような授業ですか
能動態でも受動態でもない「中動態」という概念を通して、権力、責任、意志、選択といった問題を考えていく授業です。哲学の勉強においては、哲学史上の業績を知ることも大切ですが、それと同時に、哲学の概念を上手く操れるようになる訓練が欠かせないと思っています。だから授業内では、中動態の概念を使いながら現実の具体的な問題について考察しています。概念を理解して使いこなすためには、哲学者が取り組んだ問題そのものを追体験することが必要です。その問題を実感するということです。授業では学生の皆さんの実感の手助けができるように心がけています。
──その他「初年度ゼミナール文科」も担当されています
新入生向けの必修科目「初年度ゼミナール文科」では、カンタス・メイヤスーというフランスの哲学者が書いた『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(人文書院)を1セメスターをかけて読み切るという授業をしました。最近話題になっている哲学者で、現代哲学のまさに最先端というべきテキストです。毎回学生が担当箇所について発表し、皆で話し合い、また僕も解説するというやり方で進めました。
僕自身もわからない箇所はありますので、そこを学生たちと一緒に考えながら読んでいきました。大変ですけれども、楽しかったですね。授業では教員自身が内容を面白く感じていることが大切なんですね。そうでなければどうして学生が面白いと思えるのか。そうやって教員と学生が一緒になって、知を生産していくのが大学の醍醐味だと思います。学生が言った質問が自分の研究に役立つことは本当によくありますよ。
──大学の学問の魅力とはどのようなものだと考えますか
よく「勉強って楽しい」と言う人がいますが、僕は考えが違って、勉強には苦しさはつきものだと思っています。楽しいのは勉強している時じゃなくて、理解した時なんですよね。勉強は苦しい。でも「分かった!」という喜びは何事にも代えがたい。それはたまにしかありません。でも、この知の喜びがたまに起こり得るというのが、大学という学問の場の魅力でしょう。
僕は大学でこういう喜びを知った人が世の中に出て指導的な役割を担ってほしいと思っています。知の喜びを知らない人だと、人の上に立つことそのものを喜びとせざるを得ないからろくでもないことになる。東大生には大学で「理解する喜び」をたくさん味わってほしいです。
──最後に、受験生にメッセージをお願いします
スピノザは「賢者」とはいろいろな楽しみを知っている人だ、ということを言いました。いい香りや植物の緑の美しさ、音楽の素晴らしさなどのさまざまなものによって自らを元気付けられる人こそ賢者だというのです。「受かったから大丈夫」、「落ちたからダメ」といった考えではなく、受験の合否を超えた、さまざまな楽しみを受け付けられるような人になってください。