文房具メーカーに勤める男。ある朝突然、かいわれ大根が脛に自生していることに気づく。脛のむずがゆさと違和感に耐えかね病院に行くと、生命維持装置付きの頑丈な医療用ベッドに固定され、硫黄温泉行きを宣告される。行く先で警察からは職務質問を受け、ベッドは自走し、物語の舞台は市街から坑道、賽(さい)の河原、隔離病棟へと移り変わる。
冗談みたいなあらすじだが、実際の長編小説のあらすじである。これは、2024年で生誕100周年を迎えた安部公房が、生前最後に発表した『カンガルー・ノート』のあらすじだ。
あらすじからも推察できるように、この小説に特徴的な点はある種の徹底されたコミカルさである。病院で診察にあたった医者は、朝にかいわれ大根を食べたとかで吐き出すし、主人公がたどり着いた賽の河原では観光業が一大産業になっている。そこでは小鬼が「オタスケオタスケオタスケヨ」と哀愁漂う歌を歌い、観光客に憐憫(れんびん)の情を喚起させる。その手伝いをした主人公は、昼食としてかいわれ大根を挟んだサンドイッチを渡される。さらにその後道中で寄ったラーメン屋では、ヘルシー定食にかいわれ大根をたっぷりあしらったみそ汁が添えられ、行く先でことごとくかいわれ大根の受難を受ける。
表題のカンガルー・ノートも、全社員に義務つけられた新製品の提案にて、主人公である男が思いつき程度に投書した、ただそれだけのものに過ぎない。安部公房文学の特徴というべきシュルレアリスムのありようを、おどけたようにふんだんに詰め込んでいるのだ。
しかし、それにもかかわらずこの作品は全体として陰鬱(いんうつ)な印象が見え隠れする。悲壮感のある場面に現れる、笑ってしまうような表現は、逆に哀れな場面を笑い飛ばしてその無意味さを誇示しようとしているかのようでもある。そして、この小説において、まさしく笑い飛ばそうとしているもの、無意義性を強調しようと試みられているテーマこそ、「死」に他ならない。
賽の河原の他にも、さまざまな死のモチーフが登場する。採血を得意とする看護師、その恋人で事故死について研究しているアメリカ人、亡くなった母親との奇妙な形での再会、老いた患者の「安楽死」、旅を共にしたベッドとの別離。夢の中で見る夢のように不明瞭なまま場面が変化していく中で、主人公の「ぼく」が、安部公房自身ではないにせよ、彼の私小説における写し鏡のような存在として機能していることは想像に難くない。ここで繰り広げられているのは、シュールと死とのかいがいしい応酬だ。とはいえ、重いテーマを扱っていながら、重苦しさはあまりない。シュルレアリスムが作品に活気を与えているのは明白であろう。
たった一つ残念なことがあるとすれば、私たちのような読者、すなわち安部公房亡き後に生を受けた読者にとって、この小説は「死が彼に打ち勝った」状態においてでしか受容できないことであろう。彼はこの小説で死を嘲笑した。無意味だとほのめかした。しかし、安部公房は亡くなった。彼が死んで30年以上経つ今、その事実が、この小説の持つ寂寥感(せきりょうかん)を一層強くしているような気がするのだ。
だとしても、この小説の持つ独特のユーモアや真に迫るテーマ性が薄れているかというと、そんなことは全くない。前衛文学に慣れ親しんでいない読者にとっても、なじみやすい作品であることに異論はない。この機会にぜひ、お手に取ってみてはいかがだろうか。【乃】