本郷キャンパスの一角には、東大との関係が深いスタートアップがオフィスやラボを構えている東京大学アントレプレナープラザがある。その7階にあるのが、ヘルスケアを開発・提供するベンチャー企業(独自の技術やサービスを提供する新興企業)issin株式会社。同会社の代表取締役を務め、東大在学中に初めて起業してから「スイカゲーム」を初めとするさまざまな商品・サービスを開発してきた程涛さんが取材に応じてくれた。起業に至った背景や商品開発の裏にある思い、ヘルスケアの未来をどう思い描いているか、話を聞いた。(取材・高倉仁美)
インターネット事業やスイカゲームの開発からヘルスケア業界に転換した背景とは
──東大在学時に初めて起業しました。どんな事業に取り組んできたのでしょうか
修士2年生の時に、東大にあった産学連携の仕組みをフル活用してpopIn(ポップイン)を創業しました。popInの当時のオフィスもアントレプレナープラザの7階にありました。レコメンドエンジン(ある記事を読んだら別の関連記事を勧める技術)やネイティブ広告(コンテンツと同化した形で表示される広告)など、さまざまな仕組みを開発しオンラインのウェブサイトに提供するサービスを展開していました。popInは2015年に百度(バイドゥ・中国の大手検索エンジン)に買収され、その子会社となりました。
買収された後にちょうど子どもが生まれました。それからは、家族全員がリビングにいても、私と妻は自分のスマホ、子どもはiPadとバラバラの画面を見る、といった状況が増えました。自分が小さかった頃はテレビしかなかったので、家族みんなでテレビに集まって団欒(だんらん)して、一つの画面を見て笑ったり泣いたりしていました。一つのコンテンツに対して共通の思い出を持てたのは良かったなぁと思うと同時に、デジタル化が進むことは良いことだと思っているので、家族が集まるためのデバイスとコンテンツを考えたいと思うようになりました。そこで2017年に、プロジェクター、Bluetoothスピーカー、シーリングライトを一体化した製品「popIn Aladdin」(ポップイン・アラジン、同事業は2022年にXGIMIに買収され、Aladdin Xとして新たな会社が設立された)を開発しました。ただ単に動画や映画を見られるアプリだけじゃなくて、カラオケアプリとか家で花火大会を鑑賞できるイベントとか、家族が集まるきっかけとなるようなコンテンツをたくさん作りました。
──程さんは話題になった「スイカゲーム」の生みの親です
popIn Aladdinで作ったアプリのうちの一つが「スイカゲーム」(フルーツの大きさを成長させて一番大きなスイカを目指すゲーム。2023年にネット上で話題となった)でした。開発当時、一番小さい子どもが4歳でした。4歳の子どもがゲームで大人に勝てたら良い思い出になるのではないかと思い、簡単に操作できてかつビジュアルが可愛いという点に集中して作ったゲームです。当時20万人のpopIn Aladdinユーザーがいましたが、そのうちの1万人ものユーザーが定期的にスイカゲームを遊んでくれていて。だったらこのゲームをpopIn Aladdinの外に移植して、スイカゲームをきっかけにより多くの方がpopIn Aladdinについて知ってくれたらいいなと思っていました。そこで、家族や友達で遊ぶゲームを多く制作している任天堂さんのユーザーとpopIn Aladdinのユーザーの親和性は高いのではないかと思い、スイカゲームをNintendo Switchに移植しました。それが2年後に大ヒットになりました。
──その後ヘルスケアサービスを開発・提供するissin株式会社を立ち上げ、体重計「スマートバスマット」を開発しています。家族の健康を守ることを意識するようになった背景を教えてください
健康管理に興味を持ったきっかけは個人的な体験にさかのぼります。起業して1年目の時に、父が急病で亡くなりました。最期の3カ月を振り返ってみると、みるみるうちに痩せていたんですよね。今では、体重の急な変化は体の中に異変があることのサインだと分かりますが、当時は今のような仕事もしていませんし特に気に留めず、父も自覚症状がなく…もし毎日の変化をトラッキングできていたら病気を回避できたのかもしれないという思いがありました。それから妻が1人目の子どもを妊娠していた時に妊娠糖尿病になりまして。ここでも体重管理ができていれば…と思いました。さらに子どもが生まれると健康に育っているかを確認したくなりますよね。体重・身長を記録して成長の様子を観察する成長曲線がありますが、学校の検診などの特別な機会がなくても成長曲線を確認できれば良いのではないかとも思うようになりました。
しかしヘルスケア業界に進もうと思った決定的なターニングポイントは、家族ではなく自分自身の健康の悪化でした。最初に起業したpopInは成長し続けて、36歳の時には「popIn Aladdin」を世に送り出すことができ、39、40歳の頃にはスイカゲームが大ヒットしました。こうしてビジネスの売り上げは右肩上がりだったのですが、自分の健康状態は右肩下がりで…。気づけば健康診断では「F判定」「異常あり」という判定まで受けるようになりました。さすがにまずいと思い、そこから体重を減らすために食事に気をつけ、運動量を増やし、努力しました。すると体調は良くなり、見た目もすっきりし、翌年の健康診断の結果も大きく改善されました。体重に気をつけるだけでこんなに変わるんだ、と衝撃でしたね。お医者さんが全員口を揃えて「体重に注意しなさい」と言うのもごもっともな訳で、ここでも体重管理の大切さを実感しました。
当時39歳で、若い時に比べたら当然体力は大きく落ちていて、人生で起業するならば40歳がラストチャンスだと思っていました。最後の起業では何をしたいのだろうと思った時、やはり自分が少しでも長く仕事に打ち込めるように健康を守れるような事業をつくりたいと思ったんです。こうして、それまでは「家族の思い出作り」に貢献するような商品の開発に集中してきましたが、その基盤にある「家族の健康」を守るためにissin株式会社を立ち上げました。
──「スマートバスマット」について教えてください
「ヘルスケア」と「家族を守る」の両側面を具現化した商品として「スマートバスマット」を2022年に開発しました。体重管理が大事であることはおそらく誰もが分かっていることなのですが「現実を直視したくない」「めんどくさい」といった理由でちゃんと体重を管理している人は多くない印象です。だったら、簡単に計測できて、記録も管理も自動でしてくれるような体重計を作ればいい。こんな考えから生まれたのが「スマートバスマット」です。風呂上がりにバスマットの上に立つだけで、体重管理のモチベーションがあるかどうかに関係なく体重を測定できてしまいます。さらに、家族全員が同じバスマットを使うので、家族全員の体重を同時に管理できます。
──健康意識の高まりや社会の高齢化などを背景に、ヘルスケア業界は競合が多いと思いますが、実際としてはどうでしょうか
ヘルスケアは常に必要とされ、時代に応じてアップデートを要する業界なので新しい参入が要らなくなるということは絶対にありません。その上で、確かにヘルスケアに取り組んでいる企業はたくさんあります。しかしヘルスケア業界では人間のモチベーションに依存するような商品が多いです。痩せたいと感じた時に手に取るようなダイエット商品や栄養を摂取したいと思った時のためのサプリメントがその一例です。issinでは人のやる気に依存しないというアプローチを取ったことで競合との差別化ができたのではないかと思います。
さらになんでこのような手法を取れたかと言うと、私たちはヘルスケアの専門家ではないからです。正しい知識や健康な状態になるためのノウハウを豊富に持っている人でしたら、お客さんをその正しい健康状態に持っていくような商品やサービスを作る傾向が強くなると思います。しかし正しい健康状態やそこに至るステップは既にインターネット上に溢れています。従来の健康になれるステップを提供するだけでは需要は伸びないのです。我々自身が、専門家ではない、健康に生きることに苦労をしているような一般の生活者だからこそ、モチベーションに依存しない行動変容の方法に着目し、取り組めるのだと思います。
──「スマートバスマット」は買った後は自然に健康管理ができますが、買うきっかけは健康への関心だと考えられます。買う段階における「モチベーションに依存しない」アプローチにはどのようなものがありますか
ビジネスにおいてお客さまは、明確層(ニーズがあって自社について知っている層)・顕在層(ニーズがあって自社の商品の購入を検討している層)・準顕在層(ニーズはあるが自社の商品の購入を検討していない層)・潜在層(明確なニーズを持っていない層)の四つに分けられます。このうちの準顕在層へのアプローチとして、ポケモンやミニオンといったキャラクターをモチーフとしたバスマットやファッションブランドとコラボしたバスマットをデザイン・販売しています。健康管理だけでなくおしゃれや趣味という切り口からもご関心を持っていただけるような工夫をしています。さらに潜在層に対しては健康保険組合や自治体を経由してアプローチしています。40歳を超えると国から特定健診が推進され、健診に引っかかった方には生活習慣改善プログラムが提供されます。そのプログラムの中で弊社のバスマットなどを活用していただいており、強制力がない健康管理の方法だからこそ良い結果が出ています。他にもテレビ番組やメディアに取り上げてもらったりして、できるだけ幅広くお客さまにリーチできるようにしています。潜在層、無関心層にもアプローチするという点は、薬局や医療機関などとの決定的な違いでもあると思います。
──「スマートバスマット」の他にもケアロボットの開発を進めているそうですね
現在は「ウェリーくん」というパーソナルヘルスケアAIの開発を目指しています。ディズニー映画に出てくる「ベイマックス」を想像していただいたら分かりやすいかもしれません。今の社会では、日常的に心拍数や血糖値といったデータを取る手法はいくらでもあります。しかし、そのデータは何を示しているのか、データの変化は何を意味していて、それに伴ってどのような行動を取ればいいのか──データの意味の理解や活用はなかなかできないものです。そういったものを全てAIに任せれば良いのではないかという発想から生まれました。ウェリーくんは、我々の健康状態の変化に気づき、それについてアドバイスをしてくれる「自分よりも自分の健康を気にかけてくれる存在」です。さらに、1対1でつくのではなく家族全員の健康を気にかける存在、つまりは1家庭に1体置けばいいようなケアロボットを目指しています。
「良いアイデアというのは、最初の第一歩が踏み出せるようなアイデア」 東大は起業の機会に溢れている
──最初の会社popInが生まれた背景を教えてください
修士2年生だった2007年にiPhoneが発売されました。当時のiPhoneには、アプリやコピー&ペースト機能など今ある機能は何も備わってなくて全てブラウザーベースでした。しかも画面が超小さくて超使いにくい。でも、やはりこんな新しいデバイスには未来を感じるじゃないですか。僕はそれを見てワクワクしたと同時に、もっと簡単に情報を取得できる仕組みが作れるのではないかと思ったんですよね。例えば文字列をコピーする機能をつけたり、意味のわからない単語があったら同じウィンドウを開いたまま単語の意味を調べられるエンジンを作ったり。そう思いついた時にはめちゃくちゃ興奮して2、3時間しか眠れませんでした。十分に睡眠を取れないままプログラミングを書いて、5、60行ぐらい書いたところで頭の中にあったアイデアを再現したデモが出来ました。作ったのは、画面上の文章をコピーして検索しようと思った時に、検索結果が表示されている文章に被さったり、別タブを開かないといけなかったりする“pop up”の方法ではなく、表示されている記事の中に検索結果が埋め込まれて表示されるユーザーインターフェイスです。これが後に起業する会社「popIn」の名前の由来でもあります。
そんな時期に、授業の一環としてスタンフォードやUCバークレー、マイクロソフト社などの先駆的な大学や起業に “pop in”のユーザーインターフェースのアイデアを発表できる機会がありました。そうしたら、たまたまiPhoneの発売時期でアメリカでもiPhoneブームが来ていたこともあり「この発想はなかった」と受けが良かったのです。それで自信がつき、もしかしたらこれで起業できるかもしれないと思いました。帰国して東大で起業をできる方法を調べてみたら、UTEC(東京大学エッジキャピタルパートナーズ)という投資機関と東京大学TLO(技術移転機関)という、東大の研究成果と企業をつなぐエージェント機関がありました。その2社にアプローチしたいと思い、当時の指導教員の先生にお願いしたら両者の社長を呼んでいただき、お二方の前でプレゼンした結果、アイデアを採用していただけました。起業の内容自体は自分の中から生まれましたが、シリコン・バレーで他の人に自分のアイデアを評価してもらえたことが、起業を後押ししてくれましたね。
──起業するまでの第一歩が難しいように感じます
その通りで、起業は(一般的に)第一歩が一番難しいんですよ。お金もなく、人脈もなく、アイデアがあっても大したアイデアじゃない。そんな中でどうやって起業への第一歩を踏み出せるかと言ったら、やはりそのアイデアがワクワクするようなアイデアか、「どうしても形にしたい」と感じるものであるかどうかにかかっていると思うんです。popInのもとになったアイデアが頭の中に浮かんだ時は本当に血が騒ぎました。こんな感覚は非常に珍しくて、今までも2、3回しか経験していないです。ただその感覚が来たらもう起業するしかない。誰しもそこまで興奮するようなアイデアが浮かんだら、第一歩は踏み出しやすいはずです。良いアイデアが浮かんだから起業への第一歩が踏み出せるのではなく、最初の第一歩が踏み出せるようなアイデアが良いアイデアなんです。
東大生の皆さんにはぜひ起業してほしいと願っています。自分は中国人留学生として、借金を背負い、家族を中国に残して、日本語も分からない状態で日本に来ました。東大生の皆さんの多くは、そんな僕よりも良いスタートラインに立っていると思います。さらに、東大には起業を支援する制度やプログラム、機関がたくさんありますのでぜひそれらを生かしてほしいです。
──一度起業すれば、それから会社を創業することは簡単になるものでしょうか
人脈もありますし、組織の作り方やビジネスパートナーの選び方などの経験値が積まれるので、より早くビジネスを展開できるようにはなります。ただ僕の場合は起業する領域が毎回違ったので、今までのビジネスと同じ手法では通じない部分もあり結構難しかったです。それでも「良い開発チームを作り、良いプロダクトを作る」という会社のベース作りのプロセスはどの領域も同じですのでそこでは今までの経験が大きく生かされます。
──ベンチャー企業だからこそ提供できる価値は何でしょうか
どの業界もプロダクト勝負ですので、プロダクトにおけるユニークなアプローチが必要なのを前提として、ベンチャー企業の場合は素早くプロダクトやサービスを展開できることが強みだと思います。特に弊社ではハードウェアからソフトウェア、サービスまで、幅広い範囲のプロダクトを一貫して、そしてベンチャー企業ならではのスピード感で素早く作れていることが強みだと思っています。大手の場合は会社の規模が大きい分、分野ごとに棲み分けしてプロダクトを作れますが、そうなると一つの分野だけが長けているという結果になりやすいです。一方で弊社では、弊社の力だけでは足りない部分、例えばブランディングや販路の確保は、保険会社さんやKDDIさん(日本の大手電気通信事業者)といった大手企業のお力を借りています。
ヘルス業界と我々の健康
──ヘルスケア業界の魅力は何でしょうか
健康の定義って難しいですよね。例えば体力が十分にあることでしょうか。若い時は徹夜しても全然大丈夫だと思いますけど今徹夜すると2日間ぐらいは仕事ができなくなります(笑)。でも体力がないからといって大人は子どもに比べたら健康状態が悪いわけではないですよね。個人的には、目指すべきなのは「生き生きした状態」だと思っています。やりたいことに向かって、その時持っている力を全て出し切れるような状態が一番理想ではないでしょうか。このような状態を作る力がヘルスケアにはあると考えています。業界が提供したヘルスケアを実践することで、健康寿命も伸びますし1日にできることも増え、生き生きした人生を作れます。issinのビジョンは「生命力溢れる世界を実現する」ですが、ヘルスケア業界の魅力はやはり生命力溢れる世界を実現できることに尽きると思っています。
──これからのヘルスケアの行方をどう見ていますか
現在のヘルスケアは、「より」健康に生きよう、というようにプラスアルファ的な位置付けにあるかもしれませんが、我々のミッションの一部でもある「自然」な健康維持・増進を突き詰めた結果として、これからのヘルスケアはインフラのように日常に溶け込んだ当たり前なものになると思います。誰しもが必要とするものになる結果、物の購入ではなく、水道水や電気のように月額でお金を払うものになるのではないでしょうか。それこそウェリーくんはどの家庭にも当たり前に存在するヘルスケア商品ないしサービスを目指して開発しています。さらに言えば健康管理のみならず、洗濯や料理といった家事もまとめてできるようなパーソナルヘルスケアAIが実現できたら、人々は月1、2万円払ってでも購入し日常的に使うのではないでしょうか。
──健康に生きるためのアドバイスをお願いします
若いうちは健康にそこまで気を遣わずに思う存分楽しんでほしいと思っています。ただその中でも健康を少し意識するだけで長期的には良い結果を得られるのではないでしょうか。モチベーションや努力に頼った健康意識ではなく、自然な、習慣化された健康管理を勧めています。例えば、いつもはコンビニで甘いコーヒーを買って飲んでいる人でしたら、ブラックコーヒーにするとか。甘いコーヒーに向かって差し伸ばす手を少しずらすことを毎日続ければ良いんです。他にもドレッシングはノンオイルのものを選んだり、食べるからあげの個数を1個減らしたり。膨大な力もモチベーションも必要ない。このちょっとした変化を続ければやがて習慣になり、1年間続ければ1、2kgも体重を減量できます。弊社ではこういう小さな日常的な健康習慣を「タイニールーティーン」と呼んでいてサービス化もしていますが、ヘルスケアというのはこういった小さな変化の積み重ねです。1人で簡単にできる習慣も多いですのでぜひ今からでもタイニールーティーンを身に付けると良いと思います。