近年労働をめぐる問題が繰り返し表出したこともあり、過酷な労働環境を強いる企業を指す「ブラック企業」という言葉は至る所で散見されるようになった。
ビジネスの世界における「ブラック企業」という概念を、アカデミアの世界に移植させたものは「ブラックラボ」という言葉で表される。しかし、何をもって「ブラック」とするかは一概に言えず、個人の主観を排せないため「ブラックラボ」という言葉の存在自体が学生の甘えの発露であるとも批判される。
ブラックラボは果たして実在するのか、それとも都市伝説じみた虚構なのか? この連載を通して調査し、研究室におけるブラックさとは何か、前回に引き続き考察する。今回は現役の理系女子学生に話を聞いた。
研究室内でのハラスメント
研究が思うように進まないと言う問題は、多くの学生が直面する問題だ。2016年12月16日に公表された、東大の大学院生対象の「第65回学生生活実態調査」によると、研究活動上の不満を集計した結果は以下のグラフの通りである。研究成果が上がらない、自分の能力に不安がある、というように個人の進捗や能力に関わる悩みが高い割合を占める。一方で、「教員の指導が不十分である」(11.3%)、「指導教員と意見が合わない」(4.3%)のように、教員との対人関係の悩みを持つ学生も少なからずいるようだ。
本記事では教員との対人関係、とりわけ研究室内でのハラスメントに悩みを持ったことがあるという学生に話を聞いた。
「こんな実験もできないようじゃどこにも就職できない」
今回はバイオサイエンス系の研究室に所属しているBさんに話を聞いた。Bさんは学部4年の頃から細胞を扱う研究を行っており、Bさんを担当したのがある助教Y先生だった。
「はじめに断っておくと、私は自分の研究室がブラックだとかそういうつもりはないんです。面倒見もよく可愛がってくれてもいました。ただ思い返してみると嫌なことを言われて不快な思いをしたことは何度かあります」
Bさんは辺りを気にしつつ声をひそめて言った。
「わたしは器用ではないので、4年生の頃は実験を失敗することが多かったのです。失敗する私も悪いのですが、『こんな実験もできないようじゃどこにも就職できない』と言われたのは結構こたえました」
Y先生としては軽口を叩いたつもりだったかもしれないが、ただでさえ失敗して落ち込んでいるBさんに追い討ちをかけるように「就職できない」という言葉は重くのしかかった。
さらに悪いことに、それは言葉だけにとどまらなかった。
「細胞培養していたシャーレを*コンタミさせてしまった時のことです。『コンタミしたのは、お前が汚いせいじゃないのか』といって、霧吹きで*70%エタノールの身体全体にかけられました。さらに10分ほど実験室に入れないように入り口をダンボールで塞がれました」
*コンタミとはコンタミネーション(contamination)の略で、細胞や微生物を培養する際に目的とは異なる雑菌が繁殖してしまうことを指す。
*70%エタノールは実験前の手の除菌や机の除菌に用いられる。通称7エタ(ななえた)と呼ばれ霧吹きに入れて用いられる事が多い。
どうしてこのような言動が研究室内でまかり通ってしまうのだろうか? 筆者はこの疑問をBさんに投げかけたところ次のような答えが返ってきた。
ハラスメントに慣れることの危うさ
「ラボ内の先輩に先生の事で相談したことがあるのですが、『まあY先生はそういう性格の人だから。悪気はないと思うよ』と言われました。周りが受け入れてしまっているというか、聞き流すと言った感じです。私もまぁ卒業するまでの数年の我慢だから、と思っているうちに慣れちゃいました」
研究室に所属すると、研究室内で過ごす時間がどうしても長くなる。また、一度研究室に配属されると、他の研究室への移動はほとんどない。そのため他の研究室との比較のしようがなく、自分のいる環境に疑問を持たないとしても不思議ではない。そうだとすると、Bさんは現在は何を言われてもあまり気にならないのだろうか? この問いに対するBさんの答えは意外なものだった。
「実は最近は嫌なことを言われなくなりました。というのもそれは、一度私が強く怒ったからなのです。私には長くお付き合いしている人がいるのですが、1年間海外で留学をしていました。1年の留学を経て日本に帰ってきた彼氏と会った週明けに、Y先生がにやにやしながら『何回やったの?』と聞いてきたのです。それは本当に不快だったので強めに怒りました」
これはプライベートな異性関係に関する性的内容の発言であり、「『不快な性的言動』によって、教育・研究・就業の環境を害する環境型セクシュアルハラスメント」に分類できる。(参考:東京大学におけるハラスメント防止のための倫理と体制の綱領)
この発言のようにハラスメントに当たることが平気で言えるのは、研究室が空間的にも組織的にも閉鎖的で、構成員がそうした環境を当然だと思ってしまうからかもしれない。
安富歩教授(東洋文化研究所)の著書「ハラスメントは連鎖する 『しつけ』『教育』という呪縛」(光文社新書)によると、「ハラスメントを受けると自分の感覚が信じられなくなり、自分がハラスメントを受けたことを直視することが困難になる」という。研究室は空間的にも組織的にも閉鎖的だ。ハラスメントがいつの間にか、教育、指導、愛のムチ、という言葉にすり替えられ美化されてしまっていたとしてもおかしくはない。
最後に、Bさんは筆者に本音を明かしてくれた。
「先生には色々言われましたが、感謝していることも多いです。勿論ハラスメントそのものは良くないですが、先生の人格を否定することはできません」
この言葉に、ハラスメントに対処する難しさが垣間見られた。そもそもハラスメントを受けていることに気がつかなかったり、慣れてしまったりすることがある。そして、ハラスメントだと分かっていても事を荒立てたくはない、多少の嫌なことは我慢すればいい、という哀しくも自然な感情がそこにある。
こうしてまた、ハラスメントは見過ごされるのかもしれない。
補足)東大の各研究科には、分野やテーマごとに細分化された研究室と呼ばれる研究組織が置かれている。理系の学生の多くは学部4年次に特定の研究室に所属する。構成員は教授や准教授と学部、修士、博士課程の学生に加え、ポスドクや助教、秘書のいる研究室もある。各自のテーマに沿って実験や文献購読を日々行い、バイオ系では試薬の調整、消耗品の購入など研究室の維持に関わる活動にも取り組む。研究室に配属された学生は授業以外の時間の多くを研究室で過ごし、平日のみならず土日祝日も研究を行う研究室もある。
2017年2月6日21:00【記事修正】第一文の誤植を修正しました。
【調査報道:ブラックラボとは何か】