激動する国際情勢はどこへ向かうのか、日本はどう変わっていくべきなのか。東大で30年近く法哲学研究に携わり、正義論から憲法改正論まで幅広く独自の議論を展開してきた井上達夫教授に聞く。今年度で東大を退職される井上教授のロングインタビュー後編。
(取材・円光門、撮影・山口岳大)
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━━先生は『普遍の再生』の中で、国家権力が国民の人権を保障せず統治の正統性を無視していると、最終的には統治の安定性が脅かされることになると論じました。しかし現在発達したインターネット技術を利用する中国政府の監視体制を見てみると、安定性はむしろ強化されているように思えます
統治の不安定化は、いくら監視技術が発達しても避けられる問題ではない。今回の武漢発のパンデミックが示しているように、政府にとって都合の悪い意見が表出されないと、危機への対応が遅れてしまう。中国は、市民的自由は保障せずとも十何億の民の生存権は保障するという「アジア的価値論」を掲げて自己の統治を正当化してきたが、今回の一件で生存権の保障さえもままならないことが暴露された。
━━自由な言論を保障することは、政府にとっても危機管理がしやすくなる点で必要だということですか
自由な言論があるというのは、危機のシグナルがすぐに政府に届き、迅速に対応がなされるということ。それができない専制政体は国民の生活を守ることもできない。1943年のベンガル飢饉がなぜ起こったかというと、日本軍がビルマに来たというので、ビルマからインドへの穀物の輸入が減ることを見越した商人たちが、穀物を先に買い占めて市場に出回らないようにしてしまったからだ。当時インドは英国が植民地統治をしていたから民主的でなく、言論の自由もなかった。メディアが政府を突き上げて迅速な行動を取らせることができないまま、大量の人がどんどん死んでいった。
このことは今回の武漢の例にもまさに当てはまる。最初にウイルスの存在を警告した医師グループは「秩序を攪乱するデマを流した」として当局に訓戒処分された。その後慌てて中国政府はコロナウイルス対策をし、早急に実効的な対策を打てたのは、政府が強権発動できる自分たちの政治体制のお陰だなどと標榜しているが、これは厚顔無恥も甚だしい。中国政府が公表しているだけで国内で8万人以上の感染者と3000人以上の死者を出しただけでなく、大量の中国人海外旅行者と中国訪問者を媒介にして、世界中にウイルスをばらまき、悲惨なパンデミックの原因を作ったのが、情報統制により初期段階でのウイルス封じ込めを怠った自分たちの体制であるという事実に、知らんぷりしている。
それどころか、「アメリカ軍がウイルスを中国にばらまいた」などという漫画的な陰謀説まで流している始末だ。これに怒ったトランプ大統領が、コロナウイルスを「中国ウイルス」と呼んで物議を醸した。かつては「スペイン風邪」のようにパンデミックを発生地の名で呼んだにもかかわらず、今はそれをしないのは民族差別・人種差別を抑制する上で必要な配慮だ。しかし、トランプの「中国ウイルス」発言を招いた原因は、今回のパンデミックに対する責任を回避し、他に転嫁しようとしている中国自身にあることを中国政府は自覚すべきだ。
イタリアなど欧米での感染拡大が中国をしのぐ勢いで進んでいることを挙げて、中国の方が危機管理能力において優れているなどと主張するのも倒錯している。欧米民主国家の方が情報の透明性・公開性において中国より信頼可能性は高い。中国政府が公表している国内感染者数・死者数に対しては、中国内部で調査報道メディアが疑問視する記事をネットで流しているが、中国政府がこれを次々と削除している。
「武漢の危機は克服された」というメッセージを国民に流すために、中国政府は武漢の医療スタッフに変な踊りと歌唱をさせてマスクをとらせたり、子供たちに「習おじさん、ありがとう」と歌わせたりしているが、これなど、北朝鮮の金正恩とやっていることが全く同じ。笑えない政治的喜劇だ。中国国民でさえ皆が信じているわけではないだろう。無症状の感染者は感染者数にカウントされず、それだけでも4万人以上いるとも言われている。仮に、武漢では感染拡大がピークアウト(山場越え)したとしても、広大な中国の他の地域で何が起こっているかは隠されている。
━━中国は専制国家ですが急激な経済発展、技術発展を遂げています
それは驚くべきことではない。開発経済学の常識として、後発優位の法則というのがある。後から経済発展した方が、既存の旧い技術・設備の制約に縛られず、その時点における最先端の技術に投資を集中でき、しかも最先端技術開発に至るまでに先進諸国が払った試行と失敗のコストを負わずに、その成果だけ頂けるので、競争優位に立てるとする法則だ。公衆電話もATMも普及していなかった中国だからこそ、スマートフォンや電子決済がすぐ広がったのはまさにこの理由による。日本がかつて戦後の焼け跡から奇蹟的と呼ばれる経済復興を遂げ、やがて先進諸国を抜いて米国に次ぐ世界第2位の経済大国となる過程でやったことと同じだ。中国はこのプロセスを日本以上の規模と速度で進め、日本を押しのけて世界2位の経済大国の地位についた。
この追い付き追い越せゲームでは、模倣すべき先端モデルが既に与えられており、旧いモデルを飛び越して先端モデルを効率的に追求すればいいだけだから、後発優位になる。問題は、現在の先端モデルを一挙に陳腐化してしまうような革命的な技術革新が起こせるかどうかで、これがダイナミックな経済発展の持続可能性を左右する。かつて経済大国を誇っていた日本だが、改良型の技術革新を重視しチームワークへの順応性の高い社員を集めていた日本企業は、IT革命に付いていけず、大きく遅れをとった。
中国はAIとか、ビッグデータとか、現在の先端技術をリードしているかのように見えるかもしれないが、これは、欧米の大学や研究チームでかかる先端技術を学んできた中国人留学生・研究者を破格の待遇で中国に呼び戻し、「海亀族」と呼ばれる彼らがいわば「パクって」きた欧米先端技術を効率的に利用しているだけで、追い付き追い越せゲームの枠を超えていない。
かつての先端技術があっという間に陳腐化されたように、今の先端技術を陳腐化する独創的・革命的な科学技術の革新がいずれ、今は想像もつかないような形で起こるだろう。このようなラディカルな独創的・革命的な技術革新は、本当の意味での学問・研究の自由、それを発表しオープンかつ批判的に討議する言論の自由の保障がなくては不可能だ。
コロナウィルスの危険性を先駆的に指摘した研究者たちが懲戒されたことが示すように、中国にはこのような学問研究の自由・言論の自由は存在しない。例えば、開発中のAIに致命的な欠陥が見つかった、あるいはAIは予測不可能で統制不可能な狂乱を起こすというレポートが研究者から上がってきたとしても、そのことが中国の戦略的利害と関わっていたり、あるいは軍人や共産党幹部が開発元の企業の利権を握っていたりすると、その研究者を押しつぶすことができてしまう。本当に革新的なものは学問の自由、言論の自由がなければ生まれない。だから私は、中国が専制国家だが経済発展力でも技術発展力でも世界をリードするという見方は、過大評価だと思う。
━━中国を恐れることはないということですか
いや恐れるべきだよ。ただ、恐れるべきは、中国の強大化ではなく、むしろ逆に、中国の内的脆弱性に基づく破綻だ。中国が破綻すると、沈没する大型船が作り出す巨大な渦に回りが巻き込まれるように、世界中が巻き込まれて深甚な影響を受ける。今回のパンデミックはこのことを象徴している。
実は、コロナウィルス問題に限らず、中国には構造的な破綻リスク要因がある。1980年代に経済大国を誇っていた日本がバブル崩壊したように、過熱していた中国経済もバブル化し、不動産市場では既にバブル崩壊が起こって、誰も住まない超高層マンション群が立ち並ぶゴーストタウンができている。安価な労働力で価格競争優位に立つ戦略は、これまで途上国だった他の新興経済発展諸国の台頭により破綻しつつある。共産党幹部・軍人・官僚などが利権をあさって市場介入したり、外国企業に技術移転を強制したりするため、中国市場の政治的リスクを嫌って、海外からの投資が減少している。アフリカ諸国などに膨大な「ひも付き経済援助」を行って中国企業を進出させる戦略も、これら途上国を中国への累積する対外債務利払いにより財政破綻に追い込んでおり、自壊しつつある。中国の経済成長率が逓減しているのは、このようなさまざまな要因の複合的影響だ。
しかし、最大の問題は、私が「人口学的時限爆弾(demographic time bomb)」と呼んでいるものだ。中国は2世代に亘って「一人っ子政策」を強行してきた。最近止めたが、教育コストの高さなどにより、未だに、2人以上子供を持つ夫婦は少ない。その結果、「6対1の構造」と呼ばれるものが出来上がった。子供1人に対し、その父母が2人おり、2人の父母も一人っ子でそれぞれに祖父母が2人おり、計6人の大人がいるという構造だ。この6人の大人が高齢化したら、1人の子が養わなければならない。もちろん、6人の大人が全部長生きするわけではないが、それでも、少子高齢化問題は、日本の比ではない。逆ピラミッド型の人口構成が今、日本の社会経済システムを危機に追い込んでいるが、中国がやがて迎える人口学的危機はもっと深刻なものになる。
経済的破綻リスクに加えて、政治的破綻リスクがある。コロナウイルス騒動で、いまは脇に追いやられているが、大気汚染など公害問題は深刻で国民の生命健康に甚大な被害を与えている。武漢はコロナウイルス騒動以前から、大気汚染が深刻化し住民の不満が爆発していた。経済活動が停止した今、皮肉にも空気はきれいになったが、経済活動が再開すると公害問題が再浮上するだろう。
公害問題に加え、農民・労働者搾取、都市住民戸籍と農民戸籍の差別問題などで、国民の不満は鬱積しており、地方では頻繁に暴動が起きている。さらに今、中国は内需拡大路線に転じようとして、新都市建設を進めているが、そのために既存の住居・店舗の破壊や住民強制移住措置を強行しており、これがさらに国民の不満を高めている。経済発展が順調に続く間は、この不満を何とか抑え続けられても、経済発展が支障をきたし始めると国民の不満が爆発し、政治的動乱が発生する危険性がある。
日本だけでなく世界にとって中長期的に重要な「中国問題(China Problem)」は、中国の強大化にどう対処するか以上に、中国のシステムが破綻した時に世界まで巻き込まれて破綻しないよう、どう「中国リスク(China Risk)」をヘッジするかだ。今回のコロナウイルス問題が、このことを世界の人々、とりわけ各国の為政者や企業家たちに自覚させる契機になればよいと願っている。中国と政治的には緊張関係にありながらも、経済的には大きく依存してきた日本は特にこのことを肝に銘じるべきだろう。例えばコロナウイルス騒動で日本は、マスク不足が深刻化しているのに迅速に対応できないのは、マスクとマスク材料の供給を中国に大きく依存してきたことが主因で、これは、問題の自覚の必要性を象徴するものだ。
世界だけでなく、中国の国民自身に、いまの専制体制を維持しているとやがて大きな社会経済的破綻に導く危険性があることを、今回のコロナウイルス問題を契機に再自覚してもらい、政府に対する民主化への圧力を高める運動を進めてほしいと願っている。かつては集団指導体制下で共産党執行部にも改革派がいたが、今、習近平への権力集中が進み、改革派は放逐・周辺化されている。今回のコロナウイルス問題を契機に、共産党体制内部にも、情報の公開・透明化を進め、統治の失敗に警鐘を鳴らす言論の自由を保障しないと、体制自体が破綻するという危機感を持つ改革派が再浮上するようになればと願っている。もちろん、「習おじさん、ありがとう」と子供に歌わせている習近平は締め付けを強化するだろうが、こういう締め付けをするのは、彼が自分の権力の正統性が揺らいでいることを自覚しているからだろう。
━━米国から中国への覇権交代論もありますが
今のような専制体制の中国が覇権を持つことはない。ヘゲモニー(覇権)というのは「ヘゲモン」というギリシャ語に由来していて、これはリーダーという意味だ。すなわち、軍事力や経済力で強圧するのではなく、精神的権威によって世界を指導できる力を意味する。ジョゼフ・ナイという米国政府にも参与した政治学者が、軍事力・経済力からなるハード・パワーと区別して、国際的に何が重要な課題かについてアジェンダ設定を行い、対策のイニシアチブをとり得る指導力をソフト・パワーと呼び、パックス・アメリカーナと呼ばれる米国の覇権は、米国のソフト・パワーが中核だとした。
ナイは1990年代にはまだ、米国のハード・パワーは相対的に低下したけれど、ソフト・パワーは健在だから米国の覇権は揺るがないと考えていた。しかし、ブッシュ・ジュニア政権時代には、イラク戦争などの一方的軍事力行使で、米国のソフト・パワーが低下したという警鐘を彼は鳴らした。トランプ政権になりアメリカ・ファーストがむき出しとなった米国には、もはやソフト・パワーなどない。ドイツ・フランスをはじめヨーロッパの民主国家も、もはや米国に指導的権威など認めていない。
それでは、米国に代わって中国に世界を精神的権威でリードするソフトパワーがあるかというと、まったくない。ソフトパワー欠損は米国より中国の方がひどい。そもそも国内で民主主義も人権もないがしろにしている専制国家に、世界を指導する権威など最初からなく、経済発展により強大化した軍事力と経済力というハードパワーで外国を支配しようとする態度がむき出しになっている。これは「覇権」ではなく、「覇道」だ。たとえば、南沙諸島の領有問題について、軍事力で他国を威嚇するのみならず、人口の島を勝手に作って領土・領海権を主張し、この人口島を違法とした国際仲裁裁判所の判決も無視している。一帯一路というが、金の力でアフリカ諸国を援助漬けにし中国企業を誘致させた結果、中国は巨利を得ながらこれらの国を巨大な債務利払い負担で財政破綻させている。中国の経済侵略に対する警戒心が途上国も広がりつつある。
もはや一国覇権という構造はなくなり、これからの世界は大きく多極化していく。より大きな多国間の枠組みが模索されるべきだろう。国連は欠陥だらけだが、ほとんど世界中の国々を包摂し、軍事的紛争だけでなく経済発展支援、医療・健康問題、教育・文化問題など、様々な問題に、包括的に取り組む枠組みを持ち、現存する国際制度の中では最も重要なものだ。私は「たかが国連、されど国連」という姿勢で、国連改革を地道に進めつつ、それと連動して地域的な集団安全保障体制・経済協力体制を構築していくしかないと考えている。
━━世界構造が変わる中、日本はどうしていくべきでしょうか
まず、「米国に頼っていれば大丈夫」、「中国が強大化するから米国にしがみつこう」という米国の属国的姿勢ではだめだということを、私は共著『脱属国論』など種々の著作で、かねてから主張してきた。日米安保体制は米国が日本を守る体制だと思っている者が未だに多いが、実態は、米国の世界戦略の拠点として米国が日本を利用する体制だ。米国が勝手に始めた侵略戦争に、日本は自動的に幇助犯として巻き込まれるのだ。他方、日本が攻撃されても、米国は国会承認が得られないなど自国内の法的手続を口実に米軍の出動を拒否できる。在日米軍基地が攻撃されたら、米軍は出動するが、尖閣諸島のような米国の戦略的利益と関係の無い日本の領土・領海・領空が攻撃された場合に米軍を出動させるなんてありえないことは、米軍関係者が公言している。
もちろん中国・ロシア・北朝鮮などとのパワーバランスを図るだけでなく、かつての日本の植民地主義侵略の記憶を未だ持つアジア諸国の不安をおさえるために、日米安保を維持する意味はあるが、これを対等なパートナーシップに変えてゆく必要がある。その上で、中国、ロシア、北朝鮮など敵対関係にある近隣諸国を巻き込んだ地域的な集団的安全保障体制の構築を目指すべきだ。
米国がアメリカ・ファースト的な横暴を示しつつある中で、米国の軍事的属国状態に日本がとどまり続けるなら、かえって国際社会に不安を与えることになる。米国に対しては、「反米」でも「随米」でもなく、米国の戦略的道具として利用されるのを警戒する「警米」の姿勢をとりつつ、日本の国益を守る大人の交渉力を発揮する必要がある。
中国については、経済的な中国依存は政治的にもリスクが高過ぎるので、これを限定していくべきだ。中国と並んで、眠れる巨像が覚醒したかのように経済発展を始めたインドに注目する必要があるだろう。中国に比べると、インドは安定した民主主義国だ。社会的差別としてのカーストは残ってはいるものの法的には否定されている。人口は中国を近く超えるだろうし、GDPは近いうちに日本を抜いて世界第3位になると見られている。日本企業は中国への依存度を減らして、インドに重点シフトすべきだと思う。もちろん、ベトナムなど東南アジアの他の新興発展諸国との経済交流拡大も重要だ。要は世界が多極化していくからこそ、特定の「極」への過度な依存を排して、複眼的思考で国際社会のさまざまなアクターと多面的な関係構築をし、リスク分散する戦略を今後日本はとる必要がある。
━━日米安保を対等なパートナーシップに変えることは可能でしょうか
旧敗戦国のイタリアやドイツも米国との地位協定を対等化してきた。イタリアでは、98年に米軍機がチェルミス山のロープウエーのケーブルを切断した事故で20名が亡くなった際、イタリア国民が怒って、米軍の行動に対するイタリアの統制権を強化する方向に地位協定を改正したのだ。
日本はなぜ怒らないのか。日本の首都圏上空の管制権限は横田の米軍基地が持っている。こんな状態で日本は主権国家だと言えるのか。米軍は政治的コストを嫌うので、日米地位協定改正を求める運動が日本の全国レベルで起こるなら、米国も応じるはずだ。世界中そうやって変わってきたのに、日本だけがなぜ、そうしなかったのか。
答えは沖縄だ。実はサンフランシスコ講和条約で日本が主権回復し、米軍の占領統治が終わった後、本土各地で米軍基地反対運動が広がった。そこで、米軍は政治的コストを回避するために、占領終焉後も米軍の施政権下に置かれ続けた沖縄に米軍基地を移転させたのだ。沖縄は依然「米軍の植民地」で有無を言わせず基地を押し付けられたから。現在の沖縄への米軍基地集中は、こういう政治的理由によるもので、戦略的合理性とは関係ない。沖縄への米軍基地集中は戦略的にはむしろ不合理。沖縄を叩けばそこに集中する在日米軍基地を一挙につぶせるわけだから。
面積比で日本の0.6%の沖縄に70%以上の在日米軍基地を集中させた結果、米国の軍事的属国化に伴う犠牲・リスク負担も沖縄に集中転嫁され、本土住民という日本の圧倒的マジョリティは痛みを感じずに済む状態になった。ゴミ焼却場のような必要だけど敬遠される「嫌忌施設」について、「自分の裏庭でなければいいよ(Not in my backyard)」という態度をとる住民エゴは、この表現の頭文字をとって、ニンビー(Nimby)と呼ばれている。「日米安保は必要、だけどそれに伴う犠牲・リスクは自分たちは負いたくないから沖縄に押し付けよう」というニンビー的エゴに日本国民マジョリティが浸っているといってよい。それが日本を米国の軍事的属国にしている日米安保体制の現状を変革する運動が全国規模で起こらない最大の原因だ。
私はこの現状を変えるために、拙著『立憲主義という企て』第4章で示した私の憲法改正案の中に、外国基地設置条件として設置地域の住民投票による過半数住民の同意を要請する憲法95条改正も含ませている。基地問題をめぐり沖縄で何度も住民投票が行われているが、本土の政治家も国民マジョリティも無視し、あるいは「沖縄には気の毒だが、沖縄が我慢すれば済むこと」という態度で一蹴している。政治家・国民マジョリティのこの欺瞞を正すためには、沖縄の住民投票に法的拘束力を賦与する憲法改正が必要だ。
━━先生が『世界正義論』で論じた「諸国家のムラ」構想は、国家間の制裁がある程度は効き得るくらいの脆弱性を持った諸国家が共存するという、多極化した次世代の世界秩序構想ですが、これを実現するためには大国を解体することが必要なのではないですか
米国のような国家を外部から統制するのは難しいが、内部から統制することは可能だ。米国を解体することはできないとしても、米国は連邦制で各州の自治権が強いとともに権力分立と民主政が確立しており、内部の声の多様性はある。米国民はマッカーシズムのように集団的狂気で狂うこともあるが、しかし、それを自己修正・自浄する能力も発揮してきた。
このような民主的な批判的統制メカニズムを発揮させるためには、米国政府が無責任な一方主義的対外行動をとった場合、そのコストを米国民に負担させ、問題意識を覚醒させる必要がある。例えば、イラク戦争の費用は控えめに見積もっても3兆ドルだと言われたが、この税負担は全て米国民にのしかかるわけだ。当時米国は国連の安保理事会の決議を無視しただけでなく、フランスやドイツなど同盟国の反対も押し切って開戦に踏み切った。だがその後米国が破壊したイラクの復興という尻拭いは、国連や反対した同盟国がやった。国際社会はこの尻拭いを手伝わずに、自分たちがやった権力行使のコストを他の国に負担させるなというメッセージを米国に送るべきだ。そうすると米国民も、一方的な行動ばかりしていたら最終的なしわ寄せは俺たちに来るんだと学習するだろう。これが内部からの批判的統制につながる。
━━米国はそれで良いとしても、非民主的な中国にはどのようなアプローチが可能ですか
前にも言ったように、中国は中長期的には破綻する構造的リスクを抱えている。これまで共産党政府が曲がりなりにも国民の反発を押さえ付けてこられたのは、飛躍的経済成長のおかげ。しかし、経済成長率は逓減し、国内には様々な搾取・格差・抑圧への国民の不満が鬱積してきている。構造的なゆがみが蓄積された結果、やがて経済システムに破局が生じ、それが政治変革につながる可能性はある。他方で、共産党支配体制内部で、今回のコロナウイルス問題も一つの契機として、構造的歪みに対する危機感を持つ改革派勢力が再浮上し、民主化に向けての漸進的変化が進む可能性もある。中国にも隠れた民主派はいる。中国は巨大だからこそ、一枚岩で扱ってはいけないと思う。
さらに、今回のコロナウイルス問題で、各国は「中国リスク」をこれまで以上に自覚するようになるだろう。これが、中国への経済的依存の見直しを国際社会に広め、経済力を梃子にした中国の横暴に歯止めをかける方向への変化を生む可能性もある。
━━中国では自国政府を称賛するナショナリズムが高まっていますが
それは官製ナショナリズムだ。2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を発端とした反日デモのリーダーは警官だった。さらに報道はされなかったが、そのデモに参加して日本批判をしていた人々は同時に壁紙に共産党を批判する文言を書いたりしていた。中国では集会結社の自由は一応憲法上は認められているが実質ないに等しいので、勝手にデモをすることはできない。だが反日官製デモに参加するのであれば自らを隠せるから、そこで共産党批判がたくさんなされたのだ。
さらに、ナショナリズムは民主主義と結びつく可能性がある。国のリーダーが自分たち民の生活をきちんと見ていないのはけしからんと、草の根からの運動に対する推進力となる。だから共産党政府も途中で怖くなってデモをやめさせた。
ナショナリズム(民族主義)とステーティズム(国家主義)を混同してはいけない。ナショナリズムは国民を一体化させることにより、人民の政治的主体性も強化する可能性があり、これが国家の名で忠誠を要求する為政者に対して国民が異議申し立てする民主化の基盤にもなりうるのだ。一般的に専制体制は、国家から独立した集団形成を、対抗政治勢力の基盤として排除しようとする。個人をバラバラにしておいた方が統制しやすいのだ。共産党政府が、法輪功のような気功修練団体ですら、危険視し、禁圧したのはそのためだ。2010年の反日デモのように、中国政府が扇動した官製ナショナリズムも、一旦火がつくと、政府が統制出来ない方向に発展する可能性がある。
━━特にエリート中国人の間のナショナリズムはむしろ、自分たちは人権や言論の自由などを掲げる欧米とは違うんだという「アジア的価値論」に寄り掛かったものが多いと思うのですが
それは政府からにらまれないような言説戦略だよ。本音でそう思っている人もいるだろうが、一握りだ。さっき言ったように、ナショナリズムに本当にコミットすると、これが民主化運動へのパンドラの箱を空けてしまう可能性があり、共産党政府にとっては、彼らが敵視する「リベラル化」と同様、あるいはそれ以上に、怖いものだ。単純化だが分かりやすい比喩で言えば、リベラル化は為政者の手を縛るが、民主化は為政者の首を切る。共産党政府にとっても、ナショナリズムは自分たちがコントロールできない方向に行ってしまうから本当に火を付けては危ないものだと分かっている。例えば武漢の民の怒りはすごいよ。あそこは工場地帯だから空気汚染による疾患を持つ子どもたちが多かった。今回の件が起こる前から母親たちが立ち上がっていた。政府はそれを押しつぶしてきたが、今後どうなるかは分からないね。
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