学術

2024年10月22日

【日本棋院100周年】 囲碁×東大 棋士が東大生に伝える「考える力」

 

 東大で囲碁の授業が開講されていることをご存知だろうか。全学体験ゼミナール「囲碁で養う考える力」は、日本棋院の協力により、2005年秋から開講されてきた。その日本棋院は、2024年で創立100周年を迎える。長い歴史を持つ囲碁の魅力と、それを大学で教える意義について、授業を担当している森畑明昌准教授(東大大学院総合文化研究科)と、開講当初から授業に関わってきたプロ棋士・石倉昇九段に話を聞いた。(取材・山口智優)

 

全学体験ゼミナール「囲碁で養う考える力」

囲碁の未経験者・初心者を対象とし、日本棋院の全面的な指導協力を得て開講されている。囲碁のルールを学び,お互いの実戦を通じて,判断力,分析力,洞察力,集中力などを養うことが目的。6路盤(練習用の小さな碁盤)で基本のルールを学ぶことに始まり、最終的には正規の碁盤である19路盤で受講生同士で対局。

正式な碁盤
正式な碁盤。縦19本、横19本の線があり「19路盤」と呼ばれる。この他にもさまざまなサイズの碁盤があり、線の数に応じて「6路盤」「9路盤」などと呼ばれている。

 

日本の文化である囲碁 選択肢として示したい

 

森畑明昌(もりはた・あきまさ)准教授(東京大学大学院総合文化研究科)
森畑明昌(もりはた・あきまさ)准教授(東京大学大学院総合文化研究科)/09年東大大学院情報理工学系研究科博士後期課程修了。博士(情報理工学)。東北大学電気通信研究所助教、東京大学大学院総合文化研究科講師などを経て、17年より現職。

 

──授業に携わる以前は、囲碁とどのように関わっていましたか

 

 中学校から大学まで、囲碁部に所属していました。始めたきっかけは、小学校の時の担任が囲碁クラブの担当をしていて、私に勧めてくれたことです。祖父にも教わったりしながら、面白そうだと思い、中学校からは本格的に部活でやり始めました。

 

 大学生のときは、囲碁教室で生徒を教えるバイトをしていました。ちょうどアニメ「ヒカルの碁」が放送されヒットしたことで囲碁人気が高まっていた頃で、そのことは囲碁教室で働く中で実感していました。

 

──全学体験ゼミナール「囲碁で養う考える力」の担当を務めることになりました

 

 授業の存在は知っていました。私が大学院生のときに始まったもので、初代TA(ティーチング・アシスタント)は東大囲碁部の後輩でした。

 

 私が東大に着任すると、前任者の方が知り合いだったので、担当を代わることを打診され、2014年秋から授業を担当することになりました。

 

──授業は囲碁初心者を対象としていますが、その意図とは

 

 囲碁は、入門の壁がとても高いです。逆に、ある程度経験すれば、そこから先自分で学ぶ方法はいくらでもあります。授業が囲碁界の裾野を広げることを目的の一つとしている以上、初心者を対象とするのが適切です。

 

 また、この授業自体が、入門者に教えるメソッドの開発のために行われているという側面もあります。そのかいもあって、ここ10年くらいでメソッドはかなり整ってきました。

 

──実際に授業をやってみてどうでしたか

 

 案外みなさん興味を持っているんだな、と感じます。定員を40人に設定しているのですが、100人程度の応募があります。東大生にとって、囲碁は一定の魅力があるものなのでしょうね。

 

──授業ではどのような工夫をしていますか

 

 可能な限り手を出さない、口を出さないということを心掛けています。入門者の対局ですから、見ていれば技術的指導として言えることはいくらでもあるのですが、それよりも学生自身に考えてほしいと思っているので。

 

 たまに言うことがあるとしたら、それは学生にとって常識の外にある選択肢を示せそうなときです。特に東大生は、一生懸命になればなるほど、非常に狭い範囲で最適解を探そうとするような考え方に陥りがちです。そういった学生の視野を広げるようなことが言えたらいいなと思っています。

 

──教育現場に囲碁を取り入れる意義とは

 

 バランスが大事だと思います。教養人が身につけるべき素養を指す言葉で「琴棋書画」(順に、音楽・囲碁・書・絵画を指す)というのがありますが、その中で「棋」だけが現在の義務教育から脱落してしまっているわけですよね。

 

 東大生には、机に向かってする勉強だけでなく、いろいろなことを経験してほしいです。その中の一つの選択肢として、囲碁をある程度積極的に提示したいと思っています。

 

 囲碁が良いオプションであると考える理由は、囲碁が日本の伝統文化であるということです。伝統文化を学ぶことは、日本の歴史を理解することを助けてくれます。また、文化というのはそれぞれの国の特徴を示し、多様性を構成する要素ですから、祖先や社会が受け継いできたものは分かっておいたほうが良いと思います。

 

──囲碁を学ぶことで、学生はどのような能力を伸ばすことができるのでしょうか

 

 私個人としては、この授業の主目的は具体的な能力伸長ではないと思っています。

 

 いろんな観点があるでしょうが、日本の伝統文化であるということ、そして現在は全世界でプレイされているグローバルな文化であるということがメリットと言えるでしょうか。めちゃくちゃ強くなる必要があるわけではありませんが、日本人としては、能とか狂言はみんななんとなく知っていますよ、といったレベルで知っておいてもよいのではないかと思います。

 

 それ以上になると人によって違うでしょうね。マインドスポーツをしっかりやりたいという人には入門になればいいですし、やりたいことが見つからないという人には一つのレクリエーション候補になればよいのではないでしょうか。

 

囲碁でバランス感覚を培う 授業を通して「東大方式」開発

 

石倉昇(いしくら・のぼる)九段
石倉昇(いしくら・のぼる)九段/東大法学部卒。銀行勤務を経て80年に入段、00年に九段。元東大特任教授。

 

──全学体験ゼミナール「囲碁で養う考える力」はどのような狙いがあって開講されているのでしょうか

 

 囲碁の普及が最も大きな狙いでした。教育に囲碁を取り入ることで、囲碁を広めたかった。囲碁は、将棋や麻雀とは違って、ルールを自然と覚えることが難しく、入門のハードルが高い、そういった意味で「習い事」なんですよね。そこで、東大での授業を通して「東大方式」を作り、教育を広めようという意図がありました。

 

 また、当初は寄付講座として開講されており、囲碁を通して脳の研究も行っていました。

 

──囲碁を学ぶことで、学生はどのような能力を伸ばすことができるのでしょうか

 

 いろいろあるんですが、まず強調したいのはバランス感覚ですね。囲碁は陣取りゲームですから、自分の陣地を広くしたいのですが、全部自分のものにしてやろうと思うとうまくいきません。ある程度相手にも与えつつ、より多くの陣地を確保するという駆け引きが重要です。

 

 この感覚は社会に出ても大事だと思います。全部自分の思い通りにしようとしてもうまくいきませんから、重要な部分を見極めつつ、必要に応じて譲歩するという感じは、囲碁的感覚にとても近いものがあります。そのせいか、政治家や経営者には囲碁愛好家が多いと言われています。

 

 また、囲碁は国際的なゲームです。特に中国・韓国・台湾では非常に盛んで、エリート層に愛好者は多いですから、付き合いの上でも役に立つことは多いでしょう。

 

 東大生に関して言うと、「負ける経験」も重要な要素なのではないかと思っています。知恵比べで負ける経験をあまりしたことがないと思うので、負けたときにどう思うのか、いかに反省して失敗を活かしていくかを学んでくれるといいなと思っています。

 

──授業ではどのような工夫をしていますか

 

 これは私がもともとやっていたことなんですが、考え方を言語化するようにしています。従来は、「この場合はこうする」という場当たり的な経験則が集積しているのみで、覚えるのが大変でした。これを普遍的な考え方として使えるように、「三つの心得」として、キャッチフレーズのようなものを作って教えています。

 

三つの心得

 

 「決め打ち碁」も工夫の一つです。途中まで打つ手を決めて、そこから先は受講生に打ってもらうという形式により、早く終えることができるほか、定石や良い打ち方を自然と覚えることができます。

 

 また、初心者はどうしても考えすぎてしまうきらいがあります。そこで、「時間内に終えよう」という呼びかけをすることで、ある程度直観に従って打つことを推進しています。プロでも、考えても分からなくて直観に従って打つことはあります。初心者のうちは、試行回数を増やすことで失敗からたくさん学ぶことが大切です。

 

──実際に授業を受けた学生の様子はどうでしたか

 

 開講する前は、学生が脱落してしまうのではないかと心配もしたのですが、ふたを開けてみるとみなさんとても熱心で、1期目から想定通りの運営ができました。教え方を確立すれば初心者でもちゃんと打てるようになることが分かって、嬉しかったですね。

 

 学生の反応を見ながら教え方は改良しました。例えば、当初はどうしてもたくさん教えようとしてしまって、感想文には「囲碁は難しい」という声が多かったです。そこで、1回の授業につき内容をワンポイントに絞り、「今日はこれ!」というのを繰り返していくと、「囲碁って面白い」という声が多くなって、学生のノリも良くなりました。

 

──囲碁に関して、脳科学や心理学などの観点から研究が進められていたとのことですが

 

 何せ母数が少なかったものですから、エビデンスとして使えるような成果が出たとは言えません。

 

 一つ、顕著な傾向が確認されたのは、行動特性に関する研究です。囲碁を経験してきた層は、目先の利益に左右されずに判断でき、将来の不利益に対して行動を抑制することが少ないという結果が出ました。この特質は、囲碁における目先の利益と長期的な損得のバランスに由来するものだと考えられています。

 

 他にも、認知症予防効果があるのではないか、という仮説も立てられており、検証中の段階です。

 

──今年、日本棋院は創立100周年を迎えます。囲碁が長い間愛され続けてきた理由は何だと考えますか

 

 昔は、囲碁の効用が当然のように認知されていました。歴史的には、大学寮・会社・軍隊の中でよく打たれていたのが囲碁の普及に大きく貢献していたと言われており、これは高度経済成長期まで続きました。しかし、そういった組織が解体されていき、囲碁のコミュニティも減っていきました。授業を始めたのも、だからこそです。

 

──今後の展望について教えてください

 

 伝統文化がなかなか引き継がれないという状況で、これは学校でやるしかないと考えています。試みとして熊本県の宇土中学校で5年間授業をやったのですが、びっくりするぐらい反応が良かったです。ちょっとしたきっかけがあると、すぐに覚えてくれるんだなと感じています。

 

 また、これまでの100年間でお手軽なゲームが増えたことで、囲碁にとっては難しい時代になっています。どう守っていくかが課題となっていますが、私は9路盤(縦横9本の罫線のある碁盤で、19路盤より小さい)の普及がカギになると考えています。

 

 9路盤にはさまざまなメリットがあります。盤が狭い分、始めるにあたっての敷居も低いですし、早く一局が終わるので手軽に遊べます。サイズがスマホにぴったりで、電車の中で一局、というのも容易です。また、プロ棋士が打っても勝率が五分五分になるほどゲーム性があることも知られています。高校生の大会の予選は9路盤でやる提案もしているところですし、囲碁にもっと親しんでもらえるように工夫を重ねていきたいと思います。

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