文化

2018年10月24日

本郷キャンパス建築めぐり 東京大学広報センター編

東京大学広報センター

 前回のコミュニケーションセンターに引き続き、キャンパスにひっそりと佇む、小さな建築を紹介します。

 

 

 龍岡門東側の門衛所のような建築は、現在広報センターとして活用されていますが、大正15年大学附属病院の外来患者夜間診療所として建設されました。当初は夜間のみ受け付けていましたが、後に日中も救急患者を受け付けるようになります。当時の外来患者診療所は現在の本部棟辺りにありましたので、より門に近いこの場所に救急診療のための施設が建てられました。内部は改修され当時の面影は残っておりませんが、正面右側の「東京大学広報センター」表札の下には、当時の名残として、現在なお「東京帝国大学附属医院急病者受附所」の表札が掲げられています(現在は見ることができません)。

 

 

 日本の救急医療の歴史を紐解くと、昭和6年の日本赤十字社大阪支部が始まりらしいのですが、東京帝国大学附属病院の夜間診療も先駆的事例として挙げることができるでしょう。

 

 明治期の本郷キャンパスの建築は、造家学科(建築学科)の教員としてイギリスより来日した御雇外国人ジョサイア・コンドルの設計にかかる建築が大半を占めていました。コンドル設計の校舎は煉瓦の組積造でしたので、大正12年の関東大震災により、校舎群の大半は大きな被害を受けました。実際のところ、全壊した建物は必ずしも多くはありませんでしたが、火災により多くの建物が使用不能となり、復興再整備が早急に求められました。この復興事業の大役を担ったのが、建築学科教授であり当時営繕課長を兼担していた内田祥三です。後に東大総長も務める内田は新たなキャンパス全体計画を描き、安田講堂をはじめとする「内田ゴシック」と呼ばれる建築群を次々と建設してゆきます。

 

 内田営繕課長のもと建てられたこの外来患者夜間診察所ですが、他の「内田ゴシック」とは趣が異なります。内田の設計にかかる校舎はカレッジ・ゴシックを基調とした様式建築であり、当時の建築界の潮流からは少々時代遅れの感があります。しかし、この外来患者夜間診療所のマッシブな外観は、中世ヨーロッパの城塞を想起させ、内部には数理模型のような曲面がある階段を持ち、正面入口の両側にはスクラッチレンガを付柱のように装飾的に重ねます。このようなレンガの装飾法は帝国ホテル(大正10年竣工、現在明治村に移築)でもみられ、同時代の流行ともいえるでしょう。

 

スクラッチタイルを付柱のように装飾的に用いた入り口

 

 実はこの診療所は、内田の教え子でもある岸田日出刀の設計によるものといわれています。内田祥三は岸田の設計能力を高く評価しておりましたが、彼の好む表現主義的な意匠は「気に入らない」ため、岸田が自由に設計できたのは、ごく一部の建物に過ぎませんでした。

 

 

 大正という時代において、様式主義からの脱却を目指した若い建築家の気迫が、この診療所から力強く感じられます。

 

 

文・角田真弓(つのだ・まゆみ) 工学系研究科技術専門職員

(寄稿)

 

【本郷キャンパス建築めぐり】

東京大学コミュニケーションセンター編

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