文化

2018年8月22日

【ハーバードクリムゾン翻訳企画②】ハーバードの入試の裏側

 

 東京大学がその国際競争力を問われるようになってから久しい。「タフでグローバルな東大生」を掲げ、世界で戦える人材の輩出を目指した濱田純一前総長時代に続き、現在の五神真総長が掲げる東京大学ビジョン2020においても「国際感覚を鍛える教育の充実」が掲げられており、東大生には世界での活躍が期待されている。しかしながら一方で、東大生の中には国外の大学が東大とどのように違い、自分たちがどのような人材と渡り合っていくことを求められているのか、知らない人も多いのではないだろうか。

 

 東京大学新聞社では、あくまで一例ではあるがそのような海外の大学の実情を少しでも紹介すべく、3回にわたって米国ハーバード大学の学生新聞・ハーバードクリムゾン紙より許可を得て、クリムゾン紙の記事を翻訳し紹介する。2回目の今回は、ハーバード大生が入学後に自分の審査書類を開示して、自分の「実力(merit)」が入学者選抜の過程でいかに測られるのかを考えた記事を紹介。米国大入試制度における面接試験の立ち位置や、日本での面接試験の是非を巡る議論についても論じる。


大学における過去と未来の「実力」

 

Michelle I. Gao

 

 学生が審査書類の開示を申請する権利があると知った時から、私はハーバードの入学者選抜の裏側をのぞいてみたいと思っていた。そこでハーバードクリムゾンの編集委員の助言に逆らって開示要求を提出、約束の面会まで36日間待ち、ノート、ペン、そして謎めいた私のファイルがある会議室で30分間を過ごしたのだ。

 

 当然ながら私は入学者選抜事務局の最終判断を知っているが、彼らがいかにその判断にたどり着いたのかも知りたかった。彼らの私に対する印象はどのようなものだったのか? 彼らはどのように私を評価したのか? 彼らの判断が、純粋に学生の実力によるものではないということは分かっている。特にハーバードにおいては、入学者選抜の過程での実力主義などという神話はすでに崩壊しているのだ。有名なだけで、見たところ基準に満たないような受験生が他の受験生を押しのけて合格するという怪しげな話はよく聞くし、特定の人種や性別に対しての合格率は毎年不自然に似通っている。

 

 だがもし入学者の選抜が実力主義に沿って行われていないとしても、実力という概念が完全に捨て去られているわけではないだろう。にもかかわらず、自分の審査書類を読んでいると、一体誰が私を合格に値するものとしたのだろうと考えていることにふと気付く。それは私自身なのか? それとも私とはあまり一致しない、この書類の中にいる人物なのか?

 

 面接官が私から聞き出した言葉が書類には書かれていた。前もって準備したことをはっきりと覚えている言葉だ。どうも私はジャーナリストになるという自分の抱負を、「言葉には力がある」という理由で正当化したらしい。こんな陳腐な言葉を真面目な顔で話すに当たって、私はどれほど怯え、絶望せざるをえなかったのだろうと想像する。さらに面接官によると、高校時代に博物館での仕事に応募した理由として、自分自身に挑戦してスピーチの能力を向上させたかったからだと私は述べている。博物館での仕事を通じて私の劣っていたスピーチ能力は向上したので、この発言は確かに嘘ではない。しかし私はこれを、私の身の上話を取り繕う上で有用な言葉だと考え、予定通り面接で実行したのである。

 

 私の微分積分の先生からの推薦状を読んで、面接官の一人は私が大学で数学を学ぶのだろうと予想していた。この点に関して、面接官をがっかりさせてしまい申し訳ないと思う。私は大学でまだ数学の授業を一つも履修していないし、ショッピングウィーク(訳注:学期の初めにどの授業が面白そうか学生がいろいろ見て回る週)中に見に行くことさえしなかった。私は数学の授業を履修する必要がないことをますます願うばかりで、TL-84型のグラフ計算機(訳注:米国の生徒が中高時代から理系の授業で使う一般的な計算機)は机の上で埃にまみれたままだ。

 

 その他面接官がハーバードでの私の将来について予想する中、いろいろな出版に関わるだろうということについては、今この瞬間においても私は喜んで実行している。興味深いことに、面接官は私がthe Phillips Brooks House Associationの「熱心な参加者」になるとも予想していた。私はこのプログラムの参加者ではあるが、自分自身を「熱心」だとは思わない。地域貢献活動に多くの時間と努力、純粋な思いを捧げている数々の仲間との比較において、私は断然色あせてしまうのだ。

 

 では私はどのようにこれら2人の人物、すなわち事務局員や面接官が評価し合格を認めた私と、今ハーバードに通っている私自身を一致させれば良いのだろうか? 実力の問題というのは、今の私が生み出す一つ一つの行為によって、より複雑になってしまう。

 

 入学者選抜の担当者はその人の過去の成果や状況を見た上で、実力を評価する。だが実力というのはその人の過去についてだけではなく、その人の将来の可能性に関するものでもある。これまでの成功は、その人がハーバードのコミュニティーとハーバードという名をもってさらなる成功を収めることができると示唆するときにのみ重要となる。故に書類にはルームメートとしての適応、大学生活への貢献、知的創造性その他の予想を示す数値があるのだ。入学者選抜の担当者は受験生の可能性を数値化し、分かりやすく練り上げてゆく。なぜなら受験生の可能性こそが不可欠の判断基準であるからだ。

 

 だが実力とは可能性のことであるため、実力の評価に成功したか否か、すなわち大学合格に値するとされたことに学生自身が正当に応えられたかどうかは、後になってみないと分からない。実力を決めるのは、書類の中の人物でも、大学の教室にいる人物でさえもない。大学に通うことで、そしてエリート大学よりかは実力主義に支配されている「現実」世界に生きることで生成してゆく人物こそが、入学者選抜が正当なものかどうかを決定するのである。

 

 故に、我々は実力の議論を長期的な視点で考えるべきだろう。大学にいる我々はいまだに短期的な時間の枠内に存在しているし、我々の「実力」に対する判決もいまだに出ていないのだ。したがって私は、自分の審査書類を見て好奇心を満たしたい人はそうすれば良いと思うが、そこに長く留まっていてはならないと考える。少なくとも私としては、どのような経緯でここまでたどり着いたにしろ、自分自身が合格に値したと言えるような将来に向けて努力を続けてゆくのだから。


東大新聞記者コメント

 

 私を合格させたのは「私自身なのか? それとも私とはあまり一致しない、この書類の中にいる人物なのか?」という自問自答から始まる思索。我々は他者の視点から語られる自分自身に耳を傾けることで、新しい発見や反省を得ることができる。他者に認められようと、「身の上話を取り繕う」こともするだろうし、自分が思いも寄らなかったところを他者に評価されることもあるからだ。

 

 米国大に入学を申請する生徒たちは、米国のセンター試験に相当するSAT(情報処理能力を測るSAT Reasoning Test、科目別理解度を測るSAT Subject Testの2種類がある)や大学1年の学習内容を先取りするAP(Advanced Placement)などの共通試験の受験に加え、志望動機や自身の人物像を書くPersonal Statementやその他各大学が個別に課すエッセー(Supplement Essay)を提出し、面接を受ける。高校の成績や課外活動などの実績、高校教師からの推薦状も評価対象となる。ハーバード大のようなトップ校となると、SATの点数は9割を超えないと受かる確率は極めて低い。だが試験で満点近く取る生徒も、多く不合格になるのはなぜか。エッセーが独創的ではなかった、目立った課外活動をしていなかったなどの理由が考えられるが、面接という要因もあるだろう。

 

 本文で示されているように、面接では入学後どのような活動をし、同級生たちとの学びのコミュニティーや大学の名にどのように貢献し得るのかなどの「可能性」が厳しく問われる。この難関を切り抜けるために、受験生は自らの人生に対する長期的な視野を持つことを要求されるのだ。すなわち、自分は今まで何をしてきて、これからはどのような人間になりたいのか。勉強はできても勉強の意義を考えてこなかった生徒たちは、面接で壁に突き当たるのである。

 

 面接試験は公平性、正確性に欠けるという議論が今日本において見られる。確かに、受験生の将来的な可能性は過去の成果からしか導き出しようがなく、評価する側の主観が入り込むことは免れ得ない。だがそもそも主観が入り込むことはそこまで悪いことなのか。主観によって必ずしもその人物に対する評価が歪められることにはならないのではないか。この記事の筆者は、はじめ面接官が予想した入学後の生活と現状が食い違っていることに動揺するが、最後はその期待に応えようと努力することを決意する。すなわちゆがみは評価される側の応答によって乗り越えられるのである。

 

 ゆがみを乗り越えること、それこそが対話であろう。当然ながら、我々は他者を自己の視点から一方向的にしか認識できない。しかしだからといって他者の認識が常に不完全であることに嘆き、諦めるだろうか。自己の視点からでは決して見えない部分を、我々は対話を通じて知るのだ。一人一人の将来を考えた上で受験生を選抜することが大学入試なら、面接という対話の場は重んじられるべきなのではないか。

 

「私自身なのか? それとも私とはあまり一致しない、この書類の中にいる人物なのか?」

 

 審査書類を前にしたこの切実な問いは、上述のような理由から、評価される側がそのゆがみを乗り越える第一段階を示しているといえる。東大も、面接を課す推薦入試などで審査書類を開示する制度を設けてみても良いかもしれない。点数には還元されない自己と他者の対話が、そこにあるはずだから。

 

(翻訳及びコメント・円光門)

 

記事のオリジナルはこちら

https://www.thecrimson.com/column/between-the-lines/article/2018/4/6/gao-past-and-future-merit-in-college/

 

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