五月祭は1923年の大園遊会を起源とし、今年の第96回で100周年を迎える。直近のコロナによるオンライン開催を含め、100年の歴史の中でさまざまな変化を遂げてきた。どのような事件や変遷があったのか、どのようなテーマが選ばれてきたのか探る。(取材・石川結衣)
五月祭の起源と歴史
五月祭の起源は、1920年5月1日に始まった学部開放(学部間交流を深めようとする運動)にさかのぼる。23年には御殿下グラウンドに教員や学生が集まり、飲食しながら歓談や余興を楽しむ園遊会の要素が加わり、「大園遊会」として第1回五月祭に相当するものとなった。28年は大園遊会が行われず、29年から「全学解放」の名で再開された。
今年で100周年だが、第96回なのは、4回開催しなかった年度があるためだ。五月祭の名称は、東京大学新聞の前身である「帝国大学新聞」が33年に「五月祭」と報じて以降、次第に定着したものだった。
五月祭は例年5月に2〜3日間にわたり開催されている。学部開放の時代には医学部の「桂公・夏目漱石の脳みそ」「人間の輪切り」の展示などが人気を集め、朝から行列ができたという。軍部台頭期には、煙幕・火炎放射器の実験や最新型の魚雷、高射砲が展示され、池之端では軍歌が斉唱された。
戦後は五月祭常任委員会が運営に当たるようになっていき、原爆に関する展示や平和問題の研究発表などがされた。いわゆる安田講堂事件に代表される東大紛争後は多様化が進み、大物パネラーの講演会や、サークル・学科による模擬店、展示で構成されるようになる。このように五月祭は次第に別の側面を持つ祭典に変貌していった。
幾度も訪れる開催への壁
100年の歴史をもつ五月祭だが、開催していない年度が4回ある。不開催の背景の詳細とは。また新型コロナウイルス流行に伴うオンライン開催は五月祭の歴史の中でどう位置付けられるのか。学園祭について研究し、自身も五月祭常任委員を務めていた佐藤寛也(教育学・博士課程)さんに話を聞いた。
──開催されなかった経緯は
1928年
五月祭の第1回に相当するのは23年5月に開かれた「大園遊会」で、当時の帝国大学学友会という学生団体が主催しました。この行事が23年から5年続くのですが、28年は主催の学友会が解散してしまい開催できませんでした。当時の学友会とは、各学部の学生自治団体(法学部緑会や医学部鉄門倶楽部など)、運動会運動部、文化系の団体が加盟する、全学横断の学生団体です。ただ、内部の思想的な対立をきっかけに学友会の分裂が深刻になり、運動部の一斉脱退などを経て解散してしまいました。その結果、開催の旗振り役がいなくなり、企画が立ち上がらなかったと見られています。
しかし、学生から再びこの行事を開催したいという声があり、その後の29年以降は各学部の学生自治団体が連合し、共同で開催する形で再開されました。
1944、45年
戦況の悪化、中でも特に43年10月の学徒出陣が致命的なきっかけとなり、開催できませんでした。
実はそれ以前からも、食料事情の悪化から法・経済学部が不参加となったり、プログラムに「警戒警報発令の場合は学外者の入場参加を中止」と注記されたりと、開催が危ぶまれる厳しい情勢ではありました。43年に学生の徴兵猶予が停止され、文系学生の多くが出征によりキャンパスを去ってしまったことが、44年、45年に開催できなかった直接の理由でしょう。
1969年
安田講堂事件による混乱が原因で開催できなかったと考えられがちですが、正確には直接の原因は新3年生の本郷の後期課程への進学が遅れたことにありました。当時は、学生がストライキ(授業の集団ボイコット)をして、その結果単位を修得できず、進学・卒業ができないということが珍しくない時代でした。
安田講堂事件が起きたのは69年1月で、既に5月にはキャンパスは落ち着いていたようです。ただ、事件の半年ほど前からストライキで東大がほぼ機能停止していた期間がありました。この年の4年生の卒業は延期され、新3年生となるはずの2年生も駒場キャンパスで行われる前期教養課程の単位を取得しておらず、4月に本郷キャンパスでの後期課程に進学できなかったのです。この年の五月祭は新3年生の進学を待って秋に開催する計画だったのですが、結局進学できたのは12月となり、開催はかないませんでした。
──新型コロナウイルスの流行で開催が危ぶまれました。他にも開催が危ぶまれたことはありましたか
感染症による開催中止の危機は過去にもありました。例えば、2007年に首都圏ではしかが流行した際には、五月祭に一部の留学生が参加できなかったんです。
この年の五月祭は、感染予防策としてはしかの予防接種を受けた人だけが参加できることとされました。日本の学生はほぼ間違いなく接種していますが、接種歴のない海外からの留学生は参加できませんでした。
また2009年には、全国的に新型インフルエンザが流行し、毎日全ての学生が体温を測って報告し、マスクの着用を必須として開催しました。コロナ禍を経た今振り返れば珍しくない光景ですが、当時は驚きましたね。
もう一つは11年の東日本大震災の時で、この時は三つの理由で開催が危ぶまれました。一つには東京も危険だという声があったからです。当時はまだ原発事故に関する言説がどこまで真実なのか分からず、世の中が混乱していました。二つ目は原発事故による電力不足の問題です。これには、一部の研究室展示などの電力消費の多い企画をとりやめることで対応しました。そして最後の一つが、震災でつらい思いをしている人がいる中で「お祭り」をやっていいのか、という声です。当時の委員会としては、震災で苦しい時だからこそ、自分たちの日常をしっかり楽しもうという考えに至ったのだと思います。
──オンラインで開催された意義は
さまざまな災難を乗り越えてきた五月祭も、コロナ禍でついに中止となるかと思われました。しかし、委員会の尽力の成果もあり、延期した上で9月にオンラインでの開催となりました。形態はどうあれ何とか開催できたことは、素直にうれしかったです。
しかし当時の委員会の人たちにとって、キャンパスで開催され続けてきた五月祭のかたちが自分たちの代で途絶えてしまうことは、相当つらかったでしょう。新しい学園祭のかたちが生まれたことはポジティブに捉えたいですが、手放しで喜べる話ではないですね。
オンライン開催は、動画の編集や公開を一般の学生が自由にできる時代が来ていたからこそできたことです。私は過去2回の五月祭に、五月祭の歴史を紹介する動画を企画として出展しましたが、キャンパスには行かずにオンラインで公開するのは、新しい参加の仕方で面白いなと思いましたね。
──今年から入構制限なしで開催できるようになりました
昨年の駒場祭では、多くの人がキャンパスに集ってにぎわい、コロナ以前の雰囲気が戻っていて、学園祭の雰囲気って素敵だなと改めて実感しました。五月祭にも昨年以上のにぎわいが戻ってくるのが楽しみです。
キャンパスでの開催について、小規模なサークルにとってこそ学園祭の場は大事だという話があります。知名度のある運動部や大規模なサークルは、独自に開催する試合や演奏会である程度の集客が見込めます。
しかし、そういった動員力を持たないが、魅力的な活動をしている小規模なサークルが東大にはたくさんある。それらの大小さまざまなサークルが学園祭という同じ場に集まるから、何万人もの来場者がキャンパスに足を運び、普段では起こり得ない出会いが生まれます。オンラインだと、通りがかったサークルとの偶然の出会いって、なかなか難しいですよね。
──オンライン開催で新たに見えてきた側面は
今回も昨年に引き続きハイブリッド開催です。講演会などオンラインで配信できる企画は配信を継続するので、より多くの方に参加の機会を提供でき、五月祭の裾野が広がっていくのは良いことだと思います。
その一方、ハイブリッド開催により「キャンパスに来たからこそ体験できることの価値」がより高まるとも思っています。企画を出す立場からすると、対面で来てもらう方には、オンラインで経験できる以上のもの、対面で来て良かったと思ってもらえるものを提供しないといけないと思うんです。このことは、多くの企画が改めて考えさせられると思います。
五月祭テーマから歴史を振り返る
第96回五月祭のテーマは「はなみどり」。五月祭には昔からテーマが掲げられてきた。五月祭で初めてスローガンが採用されたのは1942年。「大東亜戦と学生」を主題に、戦時下の学生を鼓舞した。その後50年から再び制定されるも、政治的活動を規制する大学からの要請で、56・57年には「スローガン」をプログラムやポスターに載せることが禁止されてしまう。このような対立は58年から次第に緩和に向かい、59年から五月祭にテーマなどが見られるようになる。
──テーマの傾向は
テーマの設定が確認できる最初の事例は1942年の「大東亜戦と学生」ですが、どのような位置付けで設定されたのか詳細は分かっていないので、後の「統一テーマ」とは区別して捉える必要があるでしょう。
戦後、50年からは「スローガン」として平和に関する言葉が掲げられました。しかし、大学からは「平和という言葉は政治的」と難色を示されてしまい、プログラムやポスターへの掲載は認められませんでした。
そして59年に初めて統一テーマ「帝国主義段階における日本社会の現状解明」が設定され、プログラムにも初めて掲載されました。それ以降はずっと統一テーマが掲げられますが、初期の60年代は平和、自由、民主主義、大学とは何か、というような思想を伝えるテーマが多く、徐々にその激しさを増していきます。
70年以降は学生運動が鎮静化し、ロックコンサートが始まったり、徐々に模擬店が増えてきたりして、いわゆる大衆的な「お祭り」としての五月祭に変わっていきます。それでも当時はまだ、五月祭常任委員会の学生たちは学生運動と近い関係にあったんですね。そのため、政治的主張を込めた檄文調のテーマが、80年の頭まで依然として続きます。
80年代になると、五月祭常任委員会の中にも、学園祭を学生運動や政治的主張から距離を置きたいという学生が増えてきました。この頃からテーマの雰囲気も変わっていきます。政治的なメッセージを伝える統一テーマは必要ないという声が高まり、設定しない年も見られるようになりました。
それ以降は、キャッチフレーズ的なテーマが、設定されたりされなかったりという時期に入ります。この頃は委員の人数が少なく、企画が参加するためのインフラを提供することこそが委員会の役割で、委員会が主導して五月祭全体の方向性を決めたりする必要はないという価値観が強まった時代でもありました。だからこそ、この時代はテーマがなかったり、あっても押しつけがましいものではなかったりしたのだろうと思われます。
その後、委員の人数が増え始め、委員会による企画やキャンパス内の装飾、グッズ販売などと委員の活動の幅が広がっていく中で、五月祭全体に統一感を持たせるべく再びテーマが設定されるようになったと言えます。最近のテーマは学園祭全体に一つのデザインの統一感を与えるために設定されているようですね。
──注目のテーマ、お気に入りのテーマは
「平和と豊かな生活を求めて」(52年)、「(略)『大国日本』の復活」(64年)、「(略)ベトナムの友に呼応して」(68年)など、それぞれの時代背景を映すものが印象的です。「舵を切れ、秒速2秒の流れの中で」(90年)は、冷戦終結や平成改元など、世界や日本がめまぐるしく変化している世相をうまく言い表しています。
2009年のテーマ「Academic Pandemic」も印象的です。これは、五月祭を起点にアカデミックな雰囲気を感染症のように広く社会に広げたいという意味を込めたテーマでした。しかし偶然にもこの年に新型インフルエンザが大流行し、東大が不謹慎なテーマを掲げているとニュースにも取り上げられてしまいました。
2012年のテーマ「Our Campus is Your Canvas」は、当時委員だった私が考えたものです。キャンパスという場を、委員会にとっても各企画にとっても、自分たちが創りたいものを描くキャンバスにしたいという願いを込めたテーマで、個人的に思い入れがあります。
全体を通して、その時々の五月祭常任委員会の「五月祭をどういう場にしたいか」という思いが、それぞれのテーマに込められていると思いますね。
今回の五月祭(5月13・14日)では、佐藤さんら五月祭常任委員会卒業生、教育学研究科の大学院生からなる「五月祭百年を祝う会」が、五月祭百周年記念企画「五月祭百年史」を開催。五月祭の歴史についての説明パネル、過去の五月祭のプログラム表紙、関連する新聞記事などを見ながら歴史を振り返ることができる。場所は教育学部棟1階ラウンジ。併せて動画もオンラインで公開する。
佐藤寛也(さとう・ひろや)さん 東大本部DX推進課主任として働きながら東大大学院教育学研究科博士課程に在籍。東大の学園祭について研究し、過去の五月祭では「五月祭百年史」の企画を出展