ジェンダード・イノベーションとは性差を考慮して研究や開発を行うことで、そこから新たなイノベーションが創造されるという新しい概念だ。これまでジェンダー平等の実現というと「男女は同等である」という点にフォーカスが当てられてきたが、科学や工学などの分野において見過ごされてきた「性差」に目を向け、生み出される成果の恩恵が全ての人々に享受されるような公平な社会にすることがその理念である。そこで、お茶の水女子大学のジェンダード・イノベーション研究所で特任教授を今年の春まで務めていた佐々木成江特任准教授(東大大学院理学系研究科)に話を聞いた。(取材・峯﨑皓大)
性差、そして交差性にも目を向けて
▶ジェンダード・イノベーションという概念が生まれた背景とは
ジェンダード・イノベーションとは、性差に基づくという意味の「ジェンダード」と知的創造や技術革新を意味する「イノベーション」を組み合わせた造語です。11月に東大で開催された東京フォーラム2024にもご登壇されたスタンフォード大学のロンダ・シービンガー教授が2005年に提唱されました。
その背景には、長年、研究や開発において男性が対象や基準となることが多く、性差が見過ごされがちだったことがあります。特に、医学分野では、1977年に米国食品医薬品局(FDA)が「妊娠の可能性がある女性は薬の治験の初期段階から除外されるべきである」というガイドラインを通達したことで、それから10数年間にわたって女性は治験から外されてしまいました。これは、60年頃に起こったサリドマイド事件(鎮静催眠剤やつわり薬であるサリドマイドを妊娠中に服用してしまうと、胎児に奇形が生じてしまうという薬害事件)が大きなきっかけでした。
女性を守るための対策ではあったのですが、残念ながら女性の健康に関するデータが著しく欠如してしまいました。実際、米国では1997年から2000年の間に10の薬が生命を脅かす健康被害のために市場から撤退しましたが、そのうちの八つに関しては、男性よりも女性の方が健康上のリスクが高く、大きな問題になりました。
また、生命科学分野においても女性は性周期によってデータが変動しやすいために、データが変動にくい男性が実験の対象として好まれる傾向があります。これはヒトを対象とした実験だけではなく、動物実験にも当てはまり、私も大学時代に「実験にはオスを使うように」と教えられました。データの再現性は研究者にとって重要です。そのため、多くの研究者は全くの疑問を持つことなく、偏った性のデータの取得をしてしまっているケースが多くみられます。
▶研究の創造性を刺激するために「性差」を新しい視点 として捉える
そのような歴史的背景の中、科学史におけるジェンダー研究の第一人者でおられるシービンガー教授は、医学・生命科学分野だけではなく、さまざまな分野の研究や開発においても同じようなジェンダーバイアスが蔓延(まんえん)していることを指摘し、警鐘を鳴らし始めました。ただ、「科学技術にはジェンダーバイアスが存在する」と伝えると、「ジェンダーバイアス」という言葉にネガティブな響きがあるために、最初はなかなか研究者たちに広まらなかったそうです。研究者は男性が多いので、自分たちが責められているように感じてしまったのかもしれません。
そこで、シービンガー教授は、研究者たちがポジティブな捉え方ができるように、ポジティブな響きをもつ「イノベーション」を組み合わせ、「ジェンダード・イノベーション」という言葉を生み出しました。そして、今まで見過ごしてきた「性差」を新しい視点として捉えることで、研究に新しい問いや新たな領域が開かれ、研究の創造性を刺激することができるという発想の転換を促しました。「科学技術の恩恵を全ての人々が平等に享受できるようにする」という目的は同じなのですが、言葉の持つ力は大きく、2011年からは多くの研究者たちが参加する国際プロジェクトが展開されています。
▶ジェンダード・イノベーションにおける「性差」の視点とは
ジェンダーは、「女性らしさ・男性らしさ」や「性別役割分担」など社会の中で共有されている考え方や価値観、社会規範などから作り出される性で多元的です。ジェンダード・イノベーションでは、この社会・文化的な性であるジェンダーという言葉が含まれていますが、生物学的な性であるセックスの視点も「性差」をみる上で重要になります。
セックスにおいて、性は「男性・女性」「オス・メス」のように主に二つに分類されます。ただ、パリオリンピックの女子ボクシング問題で注目を浴びた性分化疾患のように、「男性・女性」に当てはまらない「インターセックス」の方もいます。SNSなどではジェンダー問題として語られていることが多かったのですが、これはセックスの話で、ジェンダーの視点で語られるべきではありません。
また、セックスとジェンダーは必ずしも一致するわけではありません。近年では、セックスとジェンダーアイデンティティーが一致しないトランスジェンダーの存在も意識されるようになってきており、トランスジェンダーも含むLGBTQ+の方々を対象としたジェンダード・イノベーションも生まれています。
▶セックスとジェンダーの複雑な相互作用
個人は、セックスとジェンダーの複雑な相互作用により成り立っています。例えば、女性はうつ病の発症率が男性の2倍です。その原因として、生物学的な要因だけではなく、女性は性的暴行や家庭内暴力などを受ける可能性が高いといった社会的要因も関係してきます。痛みに関しても、男性は強くて毅然(きぜん)としていることを期待され、小さい頃から「転んでも泣いてはいけない」というような教育をされがちです。そのため、女性よりも痛みを表現することに消極的かもしれません。また、医師は、女性の痛みを心理的なものと捉え、男性よりも抗うつ薬を処方し、鎮静剤の処方が少ないということも知られています。
ジェンダード・イノベーションでは、セックスとジェンダーをしっかり区別して分析することを求めていますが、これら二つの視点は混同されがちです。例えば、新型コロナウイルス感染症が流行した際、各国の感染者の情報が公開されているサイトにおいて日本の男女比率のデータは掲載されていませんでした。これは、厚生労働省がデータ収集をする際に、性別を答える欄で「男」「女」「その他」の三つの選択肢を提示してしまったからです。疾患を考える上で生物学的な性は欠かせない情報で、国際的に見ても診断上の必須項目です。おそらくトランスジェンダーなどの性的マイノリティーの方に配慮した選択肢だったとは思うのですが、医学分野でのセックスとジェンダーの混同は日本の医療レベルの低下にもつながりかねません。一方で、医学や生命科学の分野においては、セックスの分析が主流となりやすく、ジェンダーの視点も入れていく努力が必要とされています。ジェンダー研究の専門家の方々との文理融合がとても重要になってくると思います。
▶交差性という新たな視点でより多様な人々に対応
近年、ジェンダード・イノベーションでは、「性差」だけではなく、「交差性」という新たな視点を取り入れてます。「交差性」は、英語でインターセクショナリティですが、ジェンダー、セックス、民族、年齢、社会経済的地位、セクシュアリティ、地理的位置などによる差別が重なり合ったり、または交差している形態を指します。例えば、AIを用いた男女を区別する顔認証の精度について検証した結果、エラー率は肌の色が濃い女性で35%、肌の色が濃い男性で12%、肌の色が薄い女性で 7%、肌の色が薄い男性で1%未満というデータが得られました。つまり、「女性」と「肌の色が濃い」という二つの条件が重なると、認識の精度が極端に悪くなってしまうということです。この研究結果を受けて、マイクロソフト社はすぐにデータセットを見直し、翌年には肌の色が濃い女性のエラー率は、約20分の1までに減少しました。このように「交差性」という視点を追加することで、より多様な人々に対応できる科学技術の発展を目指すことができます。
医学のみならず工学やさまざまな分野にも活用 本当に「性差」なのか見極めて
▶さまざまな分野での研究事例
同じ病気でも男女で病態や治療が違うことがあり、性差医療という分野が広がっています。例えば、狭心症では、男性は心臓の太い血管が狭窄(きょうさく)することで生じる典型的なタイプが多く、一般的な造影剤検査で発見できます。しかし、女性は、微小血管の異常によるタイプが多く、造影剤検査では発見できないために診断が困難でした。現在では、新しい検査法や治療法も開発されています。
また、病気の発症のしやすさも男女で異なることがあります。骨粗しょう症は、女性の病気と考えられがちですが、骨粗しょう症による骨折の20%以上は男性です。また、股関節骨折1年後の男性の死亡率は女性の約2倍も高くなっています。男性では、70歳以上で骨折のリスクが上がることから、70歳からの骨粗しょう症検査が推奨されます。
さらに、マウスを使った痛みの研究では、オスだけではなく、メスも用いたことで痛みの経路に性差があるという大発見がありました。また、細胞にも性差があり、幹細胞治療において、細胞の性別を考慮する必要性も分かってきています。
工学の分野では、しばしばサイズが問題になります。自動車の衝突実験に用いる男性のダミー人形は175cm、78kgと平均的な成人男性の値なのですが、女性のダミー人形には145cm、49kgで非常に小柄です。また、ドライバー席には、男性の人形を使用することが基準となっています。しかし、同じような衝撃の衝突事故において重傷を負うリスクが女性の方が高いということが研究によって明らかになり、欧米では改善の動きがでてきています。
また、海外製のある医療機器なのですが、欧米の男性を基準に作られているため、手が小さい日本人の医師、特に女性には扱うことが困難でした。しかし、女性医師が日本人医師の男女別の手の大きさや握力、操作に必要な力などのデータを論文にすることで、医療機器メーカー側がアジア人の女性の手の小ささに気付き、機器を改善しました。その結果、女性医師だけではなく男性医師も使いやすくなり、かつ手術の成功率も高まり患者にとっても大きな恩恵がもたらされました。
一方、AI の分野ではジェンダーに関する問題が生じやすくなっています。例えば、AI自動翻訳において、「私は外科医です」を日本語からフランス語に翻訳すると勝手に男性名詞の外科医が使われ、「私は看護師です」では女性名詞の看護師が使われることがあります。これは、機械学習のトレーニングに使用されるデータ自体に、外科医は男性がなるもの、看護師は女性がなるもの、というジェンダーバイアスが潜在的に含まれているためです。すでに改善が試みられ、一部の言語では男性名詞か女性名詞を選択できるようになっています。
また、モビリティの分野でもジェンダード・イノベーションが生まれています。通常の道案内アプリではその道が安全かどうかまでは考慮されていません。インドでは、ある集団強姦(ごうかん)致死事件をきっかけに、一般市民たちが周囲の安全性を評価し、そのデータをアプリに提供することで、二つの場所を結ぶ最も安全なルートを計算し、提示します。また、安全性に関する情報は市当局と共有され、5000カ所以上の照明が改善されています。
この他にもジェンダード・イノベーションは、さまざまな科学技術分野でその力を発揮します。ぜひ、ご自身の興味がある分野や研究分野で、これまで性差が考慮されてきたか調べてみてください。
ちなみに私の専門は分子細胞生物学で、細胞内小器官であるミトコンドリアの研究をしていますが、ミトコンドリアにも性差があります。ミトコンドリアは独自のDNAを持ち、母方のミトコンドリアDNAしか子に遺伝しません。母性遺伝というのですが、これは生殖過程で父方由来のミトコンドリアやミトコンドリアDNAが消失するからです。母性遺伝の研究では、この父方に起こる現象が注目されていたのですが、最近、母方のミトコンドリアが急激に増加することを発見しました。ジェンダード・イノベーションに出会ったおかげだと思います。
▶本当に考慮すべき性差なのかを見極める
性差を考慮することは重要なのですが、安易に何でも女性用、男性用を作ることは、逆に性別の固定概念を製品やサービス自体に植え付けてしまい、とても危険です。区別すべき性差なのか、区別すべきではない性差なのか、しっかり見極めることが重要です。ジェンダード・イノベーションが取りあげるのは安全や健康の向上など有益なイノベーションを生み出すための区別すべき性差です。
また、人工関節の例ですが、膝の形に解剖的な性差があるとして男性用と女性用が販売されていますが、身長で補正すると差がなくなるため男女の差ではありません。背の高い女性が女性用、背の低い男性が男性用を選択すると不利益が生じます。研究の最初の入り口として男女の性差に着目することは良いのですが、男女で違いがある身長、筋肉量、骨密度などで補正した上でもなおそこに差が存在するのかを調べることは、研究の質と利用者の安全を確保するために非常に重要です。
多様な人々にとって公正で包摂的な社会を目指して
▶ジェンダード・イノベーションを推進するために
シービンガー教授は、ジェンダード・イノベーションを推進するための科学基盤として、資金提供機関、査読付き国際ジャーナル、大学の三つの柱を挙げています。
資金提供機関に関しては、2010年にカナダ保健研究機関が研究費の申請において性差分析を要求し、その後、欧米諸国や韓国などの資金提供機関も同様の取り組みを開始しています。それらの多くは、生物・医学系の研究を対象としていますが、欧州委員会は、全ての分野において性差分析を検討することを21年に義務化しました。
査読付き国際ジャーナルに関しては、2016年より生物や医学分野の多くの査読付き国際ジャーナルが性差分野や交差性分析の報告を要求するようになりました。工学やコンピューターサイエンスなどの他分野のジャーナルも追随しはじめており、医学系出版社のエルゼビアは昨年2300誌に対象を広げています。
大学に関しては、性差分析や交差性分析の方法や最新の知見や方法論を学ぶための教育プログラムを実施する必要があります。まだ事例は少ないですが、海外では医学やコンピューター科学の分野において教育プログラムをコア・カリキュラムに導入する試みがなされています。一方、日本では2020年に制定された「第5次男女共同参画基本計画」に「性差を考慮した研究・技術開発を求める」という文言が入り、その後の政策に「ジェンダード・イノベーション」という文言が記載されるように政策提言を行っていますが、具体的な取り組みは欧米に比べてまだまだ遅れています。欧米の取り組みの中で効果的であった施策を調査しながら、政策に生かしていきたいと思っています。
また、お茶の水女子大学にジェンダード・イノベーション研究所を設置するために2019年より学長補佐として所属し、設置された22年からは特任教授として活動してきました。今年の4月からは、東大でミトコンドリアの研究を再開しつつ、横浜国立大学で学長特任補佐として、学内や横浜市におけるジェンダード・イノベーションの推進にも携わっています。また、最近、東大やお茶の水女子大学の学生たちが、ジェンダード・イノベーションの観点から研究開発を志す学生団体を立ち上げ、とても頼もしく思っています。
▶多様な人々にとって公正で包摂的な社会を目指して
日本ではジェンダー平等を達成するために、男女は一緒、とにかく平等に扱うことが重要視されることが多いと思います。これは、もともと差がないのに不平等に扱ってしまう事例が多いからです。ただ、もともと差があるようなものを平等に扱ってしまっても差が埋まりません。ジェンダード・イノベーションでは、まず差があるかどうか調べて、もし差があったらそこを埋める研究や技術開発を進める、つまり、公正という視点が重要視されています。また交差性の視点も入れることで、より多様な人々に対応することが可能になります。このようなジェンダード・イノベーションにより開発された製品やサービスをしっかりと社会に溶け込ませていくことで、多様な人々にとって公正で包摂的な社会の実現につながると信じています。