2024年3月12日

【寄稿】世界から隔絶されたガザ地区 侵攻の経緯とこれからは

 

 イスラエルによるガザ地区への侵攻が始まって5ヶ月余りが経った。死者は2万8000人を超え、多数のジャーナリストが国際法に反して殺害されるなど、人道危機は深まるばかりだ。東大でも、教養学部学生自治会によるガザ侵攻を非難し即時停戦を求める「ガザにおける人道危機に関する決議文」や、生協駒場書籍部での「今こそ知りたい《パレスチナ問題》フェア」など、人道危機の背景を学び向き合おうとする試みが少しずつ結実してきている。パレスチナとイスラエルの歴史、今回の侵攻の経緯や状況を、中東近現代史を専門とする鈴木啓之特任准教授(東大大学院総合文化研究科)に寄稿してもらった。(寄稿)(地図および写真は全て鈴木特任准教授の提供)

 

 

 

 ガザ地区は、世界から切り離された地域である。

 かく言う私も、ガザ地区を訪れたことはない。

 

 

 一方で、ガザ地区は世界を結んできた歴史を持つ。

 いまガザ地区での戦闘に注がれている国際的な関心は、ガザを再び世界に取り戻すことにつながるのだろうか。

 細分化された「パレスチナ」が行き着いた先のガザ地区で、いま起きていることを考えてみたい。

 

 

 1923年、イギリスは東地中海の地域を二つに分割した。第一次世界大戦でオスマン帝国が解体され、旧帝国領の一部がイギリスに委ねられた結果だった。

 ヨルダン川より東側は「トランスヨルダン」と名づけられ、これが後にヨルダン王国になった。一方でヨルダン川と地中海に挟まれた地域には、かつてからこの地域の呼び名であった「パレスチナ」の名称が与えられた。

 イギリス支配下のパレスチナには、ロシア東欧地域や西ヨーロッパから新移民としてユダヤ人が移り住むようになった。1922年には全人口のうち11%を占めるのみだったユダヤ人口は、1945年の段階でおよそ30%に達した。およそ8万人であった人口が、55万人になった形である。

 パレスチナに移り住んだ多くのユダヤ人は、ユダヤ人国家建設を目指すシオニズム思想に共鳴していた。このシオニズムを信奉する人々を、シオニストと呼ぶ。現地のアラブ人とシオニストの軋轢は日増しに高まり、1936年にはアラブ人の武装蜂起「アラブ大反乱」が起きた。現地情勢の緊迫化を受けてイギリスは設立間もない国際連合にパレスチナの取り扱いを委託し、国連総会ではパレスチナの分割が決議された。1947年11月29日のことである。パレスチナにはユダヤ人の国とアラブ人の国ができることが期待された。しかし、これは地元のアラブ人にとっては、イギリスによる植民地支配期に起きた人口バランスの変化を、そのまま甘受せよという宣告になった。

 

 

 分割が決定されたパレスチナでは、戦争が起きた。まずはシオニストとアラブ人のあいだで内戦になり、1948年5月14日にユダヤ人国家「イスラエル」が建国されると、周辺アラブ諸国との戦争(第一次中東戦争)になった。

 こうした争いのいずれも、パレスチナの分割を避けることはできなかった。結果的に、イスラエルが領土をひろげ、その領土に取り込まれずに残った2つの地域が、ヨルダンとエジプトによって管理されるようになった。

 このうち、エジプトが管理することになった場所が、「ガザ地区」である。

 

 

 ガザ地区には、古代から街道の要衝であったガザや、ハーン・ユーニスなどの町が含まれることになった。古代史ではヒッタイトが砦をつくり、中世には中東の大旅行家イブン・バットゥータが訪れた場所である。ガザ地区にはイスラエルから逃れた約20万人の難民が流入し、人口の7割がこうした難民によって占められるようになった。

 

地図1 パレスチナ難民の移動<br /> (初出)歴史学研究会『「歴史総合」をつむぐ』東京大学出版会(2022年)
地図1 パレスチナ難民の移動
(初出)歴史学研究会『「歴史総合」をつむぐ』東京大学出版会(2022年)

 

 エジプト管理下のガザ地区は、幾度もイスラエルによって攻撃された。特に1956年の第二次中東戦争(スエズ戦争)では、一見すると不必要な攻撃がガザ地区に加えられた(ハーリディー『パレスチナ戦争』113頁)。これは、ガザ地区がパレスチナ出身のアラブ人、すなわちパレスチナ人による民族主義運動の一大拠点に変貌していたからに他ならない。実際のところ、パレスチナ解放機構(PLO)に参加していく若手活動家には、ガザ地区の難民キャンプで育った者が多かった。

 

 

 1967年の第三次中東戦争は、ガザ地区の運命を大きく変えた。この戦争によって、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(第一次中東戦争の後に、ヨルダンが管理、併合していた)やシリア領のゴラン高原などとともに、ガザ地区はイスラエルの軍事占領下に置かれることになったからだ。

 イスラエル軍の南部方面軍が、ガザ地区の管理を任された。当時の南部方面軍司令官で、後にイスラエル首相になるアリエル・シャロンは、ガザ地区の「テロリスト」を制圧した様子を誇らしげに語っている。「7ヶ月の摘発で、104人のテロリストを殺害し、742人を逮捕することができた」(鈴木『蜂起〈インティファーダ〉』32頁)。

 1987年12月に、占領下のパレスチナ人による大衆蜂起「インティファーダ」がガザ地区から始まったことは、ガザ地区が辿ってきた歴史に照らして当然のことだと言えるだろう。

 

 

 イスラエルはガザ地区を軍事的に占領する一方で、行政や市民サービスには関心を示さなかった。パレスチナ人の市役所がほとんど機能を停止するなかで、社会福祉団体が人々の生活を支える状態が続いていた。

 インティファーダの開始とともに政治運動として立ち上げられたハマースも、組織的な起源を辿れば社会福祉団体の1つだった。1970年代の活動は、難民キャンプでの若者向けスポーツ教育や幼稚園の運営であったという。イスラエルの研究者シャウル・ミシュアルとアブラハム・セラによる書籍『パレスチナのハマース』(日本語訳なし)は、ハマースがそうした社会福祉活動を出発点に、統制された暴力行使と合理性に基づく政治活動を続けてきたことを論じている。社会福祉団体、軍事組織、政党としての3つの顔を併せ持つハマースは、こうしてイスラエルの占領下で誕生した。

 

 

 インティファーダの発生は、イスラエルに占領地を軍事支配し続けることのコストを痛感させた。1993年のオスロ合意と翌年に実現されたパレスチナ暫定自治区の設置は、地域内部からの支配ではなく、外部からの管理を行うための取り組みであったとすら言える。

 実際に、1994年の段階で、ガザ地区周辺のフェンスは、引き続き維持されることがイスラエルとPLOのあいだで取り決められていた(浜中新吾編『イスラエル・パレスチナ』82頁)。西岸地区が離れ小島のように細分化されて統治される一方で、ガザ地区は全体がイスラエルから切り離され、周囲を壁で囲われる状態が続いた。

 

 

地図2 ヨルダン川西岸地区の統治状況 (初出)浜中新吾編『イスラエル・パレスチナ』ミネルヴァ書房(2020年)
地図2 ヨルダン川西岸地区の統治状況
(初出)浜中新吾編『イスラエル・パレスチナ』ミネルヴァ書房(2020年)

 

 

 ガザ地区の切り離し、翻れば世界からの隔絶が完成したのは、2005年のことだ。ガザ地区の中に残っていたイスラエル入植地が国軍を動員した実力行使によって撤去され、ガザ地区の封鎖はより徹底したものになった。ハマースがパレスチナ自治政府内での権力抗争の結果、このガザ地区を実効支配するに至るのは2007年のことである。

 

 

 私が大学で勉強を始めた2006年の段階で、ガザ地区に立ち入ることは「特別なこと」になっていた。

 これは逆も然りで、ガザ地区に暮らす人びとにとって、ガザ地区の外に出ることは「特別なこと」になった。

 こうして世界から隔絶されたガザ地区では、2008年から幾度も戦争が繰り返された。

 ガザ地区の経済や社会は壊滅的な状態に留め置かれ、ハマースの存在を理由にイスラエルによる封鎖と定期的な軍事攻撃が続けられた。

 

 

写真1 ヨルダンの首都アンマンで見つけた「ガザは抵抗する」と書かれたグラフィティ (出所)筆者撮影(2014年9月)
写真1 ヨルダンの首都アンマンで見つけた「ガザは抵抗する」と書かれたグラフィティ
(出所)筆者撮影(2014年9月)

 

 2023年10月から始まった戦争は、ガザ地区をさらに分割し、最終的にはガザ地区という地域そのものを消滅させかねない事態にまで発展している。

 10月7日にガザ地区からイスラエルへと流入したハマースなどに属するパレスチナの武装戦闘員は、周辺のキブツなどに到達し、イスラエル軍との戦闘を展開した。

 この戦闘の結果、イスラエルでは民間人800人以上を含む1200人が殺害された。また、およそ240人の人々が人質としてガザ地区に連れ去られた。

 イスラエル軍によるガザ地区への本格的な空爆は翌日から開始され、10月末からは地上部隊がガザ地区内部に展開するに至った。人質の解放を条件とする休戦が11月末に1週間実施されたが、その後は戦闘が継続する状態が続いている。

 地上部隊が展開する前に、イスラエル軍はガザ地区を北部と南部に分けて、北部の住民に退避を通告した。さらに12月にはガザ地区をさらに細分化した地図を公表し、区画ごとに攻撃を実施していくことを発表している(ただし、攻撃は全地域におよび、細かい区画の地図で示された「人道地帯」が名ばかりのものであることが明らかになった)。ガザ地区の消滅を、住民らは現実に起こり得るものとして恐れている。

 

 

地図3 ガザ地区と周辺地域 (出所)UN OCHA, BBC, The Wall Street Journalなどを参考に筆者作成
地図3 ガザ地区と周辺地域
(出所)UN OCHA, BBC, The Wall Street Journalなどを参考に鈴木特任准教授が作成

 

 

 24年2月16日時点で、ガザ地区では死者が少なくとも2万8000人を超えた。ガザ地区の人口がおよそ220万人であることから、「100人に1人」以上が戦争で命を落としたことになる。他にも、あらゆる指標が、「過去最悪」の事態を記録し続けている。国際ジャーナリスト保護委員会が発表するジャーナリストの犠牲者数、国連が記録し続ける職員の死者数、世界保健機関(WHO)が危機を訴える十数万人規模での下痢や呼吸器疾患、皮膚疾患の確認など、挙げるべきことが多くある。

 

 

 しかし、何よりも深刻であるのは、世界がガザ地区での戦争を止める手段を持たないことが明らかになったことだろう。イスラエルの自衛権擁護を頑なに守り、停戦の呼び掛けに反対するアメリカの姿勢は、国際社会からイスラエルに働きかけるための有効な手段を奪ってしまった。国連安保理でのたび重なる拒否権の行使は、「グローバルサウス」と総称されるようなアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの諸国からの失望を招いた。一方で、ブラジルによる国連安保理での停戦決議の提起(アメリカの拒否権で否決)、南アフリカによる国際司法裁判所へのイスラエルの提訴など、非中東諸国による働きかけが活発になっている点は特筆すべきだろう。

 

 

 かねてから、パレスチナ人や中東の世論は、先進国による「ダブルスタンダード」を批判してきた。人権や民主主義の価値観を称揚しながら、なぜイスラエルによる非人道的な行動を抑制しないのか、という疑念である。昨今のガザ情勢をめぐる言説のなかで、このダブルスタンダード批判が世界的に広く受けいれられる様子が見られている。ウクライナ危機への世界(や日本を含む各国政府)の対応に照らして、イスラエルによるガザ攻撃への対応があまりにかけ離れているという批判である。

 

 国際規範や国際法を今後も有効に運用していくためには、たとえ相手がどのような属性を持つとしても、原則を平等に適用していく必要がある。

 世界から隔絶されたガザ地区で起きている出来事は、世界の今後を左右しかねない重要なものだ。

 日本を含めた世界は、ガザ地区を隔絶された状態から解き放ち、世界の一部として取り戻していく必要がある。

 

 

鈴木啓之(すずき・ひろゆき)特任准教授(東京大学大学院総合文化研究科/東京大学中東地域研究センター)。  15年大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本女子大学)、同海外特別研究員(ヘブライ大学ハリー・S・トルーマン平和研究所)を経て19年より現職。著書に『蜂起〈インティファーダ〉』(東京大学出版会)、共編著に『パレスチナを知るための60章』(明石書店)。
鈴木啓之(すずき・ひろゆき)特任准教授(東京大学大学院総合文化研究科/東京大学中東地域研究センター)
15年東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本女子大学)、同海外特別研究員(ヘブライ大学ハリー・S・トルーマン平和研究所)を経て19年より現職。著書に『蜂起〈インティファーダ〉』(東京大学出版会)、共編著に『パレスチナを知るための60章』(明石書店)。

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