この記事は、工学部システム創成学科E&Eコースに通う三上晃良さん(工・3年)が事故から8年が経った福島第一原発・原発がある福島県双葉郡浪江町を訪れた際に見た現地の状況を伝えてもらう連載の最終回です。
(寄稿=システム創成学科E&Eコース 3年 三上晃良)
東京への帰り道に会話した男性との話をした。彼からは、変化していく社会と原発に、大きく影響を受けた複雑な心象を感じた。彼との話の後、心のそして社会の「変化」と「適応」を考えずにはいられなかった。
福島から東京に帰る時に利用したバスで、隣の席になった男性と話してみた。その男性の話を思い出すたびに心が揺さぶられる。彼は富岡町出身の50代の男性で、現在は東京で働いている。富岡町とは、福島第一原子力発電所が位置している大熊町の隣町でありながら、さらに南の楢葉町との町境に福島第二原子力発電所が立地している町である。福島第一原子力発電所の事故後、避難区域に指定され、全住民が避難を余儀なくされたが、現在は一部の区域を除き避難指示が解除されている。私が福島第一原子力発電所を話題に出すと、ゆっくりと自身の体験を語ってくれた。
「震災では、実家も被災した。私は事故当時東京で働いていたが、富岡町に住んでいた両親はいわき市の方へ移住を余儀なくされた。環境の変化から、自殺者も出るなどとても大変だった」。男性の声は、この辺りから感情的になる。「原発事故前は、富岡町に帰省したら、カラオケとかに故郷の友達が集まっていた。でも、避難区域に指定されているときは、どこにも集まれなかった。今は、富岡町は避難区域から解除されたけど、10分の1も帰ってきてなくて、結局地元では人が集まらない。人生では、こういうことがある、しょうがないと言い聞かせないといけないけれど、やっぱりやるせない」。
その直後に彼は、「原発は宝の山だったんだけどなあ」と嘆いた。この言葉を発した時の彼の微妙な感情を私は忘れられない。「雇用は生まれる、お金は手に入る。本当に、あれしかなかった」。この言葉を発していたときは、彼はもう涙声になっていて、これ以上原発についての会話は続けられなかった。これほど辛い思いになりながら、原発を全否定しなかった。「原発は宝の山だった」。この言葉の背景には何があるのだろうか。実は富岡町を含む磐城地方の歴史が関係していた。
昭和30年代、いわき市を中心とする、磐城地方では、石炭産業が発達していた。しかし、石炭から石油へとエネルギーが変化していくとともに衰退した。街を支える次の産業として、炭鉱地帯の北限地域、富岡町、浪江町周辺で「適応」策として選ばれたものが、エネルギー源としてのつながりがある、原子力発電所だった。実は、有名な映画「フラガール」の舞台となった、いわき市のスパリゾートハワイアンズ設立の発端も、磐城炭田閉山である。
原子力発電所は、国からの補助金等に加えて、炭鉱が閉山になる地域に雇用をもたらした「宝の山」だったのだろう。あの男性や男性の家族には恩恵を受けた人がたくさんいるのだろう、だから全否定をすることはできない。一方で、彼の両親は原発事故で避難を余儀なくされた。彼自身も過去自分が心の拠り所としていた地元のコミュニティを失った。ずっと整理がつかない状態で8年間を過ごしてきたのかもしれない。彼の苦悶の表情を超える感情表現を私は見たことがない。彼は、原子力発電所の事故の最大の被害者なのかもしれない。
男性は「若い人は良いねえ、まだまだ柔軟な頭を持っていて、もう私みたいな50代を超えた大人は、考えを大きくは変えられない」。とも言っていた。年配になる程一般に適応し辛いので、負荷が大きい。また大学入学と同時に、山口から東京に出てきた時、私は東京での生活に慣れることに苦労したが、友達はさほど苦労していなかった。同年代でも適応能力に差がある。事故による放射性物質の放出は社会状況を一変させ、経済的、精神的な被害をもたらす。このような負の側面は心に留めるべきだろう。
更に、時代は急速に変化しており、安価に再生可能エネルギーが利用できるようになりつつある。再生可能エネルギーは、原子力発電の強みの一部、CO2排出量、エネルギーセキュリティ(石油等のエネルギー源を、その供給元である海外の政治社会情勢に大きく左右されないように、確保すること)の面で競い合える。原子力発電や、火力発電を利用減少させ、再生可能エネルギーの技術革新に投資をし、新しい産業を作っていくことも時代の「変化」に対する「適応」策だろう。もし原子力の利用が、現在の雇用形態や、技術、利権構造に固執しているだけになれば、社会の変化に対応できなく、より大きな経済的不利益を被るかもしれない。さらに加えて、原子力発電は、事故が起こらなくとも、建設から廃炉まで100年単位の事業である。社会の変化が早く、短期的な収益が評価軸となる現代社会とは適合しない、そのような可能性も指摘されている。
一方で、公害や事故後、その利用を止めることなく、機械の改良や、制度の改良で乗り越えてきた例も多くある。私の出身地の山口県宇部市では昔、石炭産業の煤塵で多くの人々が健康被害を受けた。宇部市は石炭の利用を止めることなく、産官学の連携による制度づくりや集塵装置の改良によって、大気汚染を克服した。福島第一原子力発電所の事故では、地震、津波等に対する工学的な弱点が理解された。また、原子力規制の組織や、規制基準等の社会システム的な欠陥も明らかになった。失敗を踏まえ、社会システムと技術を改良し、原子力産業が培ってきた技術を利用し続けていくこともできるのではないか。これも「適応」の選択肢の一つでは、とも思う。
福島県磐城地方の炭鉱が閉鎖された後も、石炭発電が経済的な利点等で、日本を含めて、世界的に利用されている。原子力発電も様々な利点と、産業を考慮してか、現在の国の政策では両方を利用していくことになっている。果たしてこのままで良いのか、私達自身でも、考えていくべきだろう。
私たち若者は、しがらみが少なく、未来を見据えて行動できる。社会がそして気候が急速に変化していく中で、過去の失敗や経験は参考にし、様々な場所、年代の人々に配慮しながらも、私たちの世代にとってどのエネルギーを使うのが良いのか、個人のレベルでも、国レベル、世界レベルでも見極め、最良の選択をしていけるように努力していきたい。更に様々な立場の人で、エネルギーや原子力に関して考え、議論できるような場を作っていきたい。
最後に、この新聞記事を書く時に協力してくださった、学科の教授、東京電力職員の方、東京大学新聞の中井さんに感謝をしたい。