東大が20年ぶりの授業料値上げに踏み切った。「世界の誰もが来たくなる大学」を目指すために、授業料改定に伴う増収分で教育学修環境を持続的に改善しなければならないと説明する。
国立大学の財政を取り巻く環境は厳しい。5月の東大の値上げ検討の知らせを追いかけるように、翌月には国立大学協会が「もう限界です」との声明を出した。産学連携や国からの受託研究が拡大し、理工系を中心とした研究経費獲得の仕組みができつつあるのは確かだが、教育に使える予算は、運営費交付金と連動する形で伸び悩む。米国に倣った資金運用を試みる東大基金も、不足する財政を補える規模には至っていない。東大側の自助努力に対し、国の予算を動かす際の頼みの綱となる国民的議論は停滞気味だ。20年間で約100億円減少した運営費交付金に期待するよりも、値上げによる確実な約13.5億円の増収を選びたい東大経営陣の気持ちは理解できる。
一方、東大側の説明は大学経営に関わる抽象的な議論ばかりで、学生の実像を考えているようには見えない。約10万円は過去最大の値上げ幅となるが、数十年にわたり国民の実質賃金は横ばいのままだ。授業料免除の対象者を世帯年収600万円以下にまで拡大する学生支援策は評価できるが、世帯収入に応じた免除拡大が万能ではないことも肝に銘じておかなければならない。家庭は裕福であっても、保護者との関係や価値観の違いなどの事情で学費を自弁しなければならない学生もいる。そうでなくとも、地方出身学生などの自宅外通学者は、家賃も物価も高い東京での生活で授業料以外の経費がかさむ。とりわけ女性の場合、セキュリティー面で家賃の低い物件を選ぶのも不安だ。藤井輝夫総長は学費問題を機に学生の苦しい就学状況を認識したとして調査と支援の拡充をこれから進めていくと話しているが、そもそも学生の実像の認識が不十分だったと自覚しながら値上げを決定することには疑問が残る。
東大が受験生の実像を捉えられているのかも気掛かりだ。改定後の授業料は来年度の学部入学者からの適用となる。藤井総長は例年11月の募集要項で次年度からの授業料を示しているため、正式決定から適用までの期間の短さに問題はないとの見解を示す。しかし授業料値上げに伴い来年度入学者の資金計画は、学部4年間で約43万円のズレが生じる。改定の正式決定が9月末だったことを踏まえれば、入学までの半年でそれだけの額を捻出する計画を立てなければならない。文部科学省は、入試に関する変更で志願者の準備に重大な影響を及ぼす場合は、2年程度前に予告することを求めている。資金面での周知期間が試験面での周知期間より短いことは、本当に問題ないと言えるのだろうか。
確かに東大は、世帯年収600〜900万円までの条件付き一部免除拡大に加え、資金計画の相談窓口開設を発表しているため、支援の拡大は受験生の安心材料になるかもしれない。しかし具体的な中身も実施時期も10月末時点で未定である。これでは学生支援策が不確かなままで、東大への進学を断念する受験生も出てくるだろう。
「世界の誰もが来たくなる大学」を目指していながら包摂性に乏しいプロセスとなったことには違和感を覚える。なるほど東大の受験生や在学生の家庭は、比較的裕福な場合が多い。東大執行部の発言からは「取れるところから取る」米国型の大学経営の発想も読み取れるが、学生支援策は米国ほど充実していないのが現状だ。奨学金制度が他国と比べ見劣りする中で、教育の機会均等を保障してきた国立大学を名乗る以上、全国に散らばる小さな数字にも目を向ける必要があるはずだ。
肝心の教育学修環境の改善策でも学生の実像に踏み込めていない。11月現在、東大は学修環境について意見を募集する調査フォームを開設している。テーマごとの東大の取り組みに対する総合的な評価が5段階で問われた後、自由記述欄が設けられているだけの簡素な調査だ。テーマも教育・研究や学生生活という漠然としたもので、総合評価がどう生かされるのかも疑問である。例えば、既存の「駒場Ⅰキャンパスライフ改善サイト」で出ている意見を踏まえるなど具体的な意向調査もできたはずだ。漫然と調査を行うだけではアンケートとしての実効性に欠ける。また総長対話後のアンケートに対する大学側の結果公表・回答では、一括で総長がコメントする形式が採られた。授業料改定案の内容評価に関する数量的分析がなかったばかりか、実際に学生から挙げられた意見の提示も乏しく、「対話」の結果の示し方として適切には思えない。多かった意見として明示した図書館の利用環境改善に関しても「速やかに検討します」と述べるにとどまる。逆に増収分を学修支援システムUTONEの強化に当てる必要性は示されない。
そのUTONEも、学生からの評判が芳しくないと森山工理事・副学長が話している。東大ではすでに二つのシステムUTAS、UTOLを学生が用いている。そこにUTONEまで加わる煩雑さに学生が納得できるかは疑問だ。またUTONEのスケジュール管理、タスクマネージャー機能も、東大が提供する必要性を見出せない。3年前に策定したUTokyo Compassに沿っているという理由だけで、そもそもの必要性を再検討することもなく開発が進む。予算が限られる中で、印象論や海外の事例だけで議論を進めていないだろうか。
今回の学費問題において学生は、授業料負担と教育学修環境改善の両面で当事者であるはずだ。東大の説明を聞く限り、経営陣が学生の実像を適切に把握できていたのか疑わしい。唯一行われた総長対話のテーマ「総長と授業料および東京大学の経営について考える」が象徴するように、現実の複雑性を大学経営の問題に矮小化し、単なる経営論で解決を図るかのような東大の姿勢も見え隠れする。受験生や在学生への説明責任を果たしつつ、地に足を着けて教育学修環境や学生支援を改善していかなければならない。東大は学生本位の教育を肝に銘じ、今回の学びとするべきだ。
学内の言論空間に根差した自治構築へ 60年代的「闘争」幻想から脱却できるかが鍵
学費問題では東大が示す授業料改定案と並び、学生の動きにも注目が集まった。値上げ案の報道があった5月15日中に、X上で五月祭学費値上げ阻止緊急アクション(現・学費値上げ反対緊急アクション)が結成されるなど対応の速さも際立つ。翌日には東京大学教養学部学生自治会(自治会)が教養学部に質問書を提出。また自治会は総長対話までに学生投票を実施し、前期教養課程で2409票(投票率約37%)を集めた。緊急アクションが全国的に展開したオンライン署名の呼び掛けには11月3日現在、約2万9000人が応じている。
学生団体による活動が目立った一方、今回の「反対運動」が学生の実像を結んだものであったかについては一考の余地がある。自治会が実施した学生投票も、票数の上では60年代大学紛争の熱狂を彷彿とさせるが、真に学生の自主性が反映された票数とはおよそ言い難い。自治会が各クラスの自治委員を動員して投票を呼び掛けなければ成立すらしなかっただろう。各クラスを代表し自治委員会(自治会の最高議決機関)を構成する自治委員ですら、自治会への関心が高いとは言えない。総長対話から4日後の6月25日の自治委員会会議は定足を満たさず流会している。議長はこれを受け「(学生自治は)一部の好き者によって動かされるものではなく、全ての会員の手によって動かされる」と理念を説く。しかし当の自治委員会事務局(会議を運営する組織)は、国会を模倣して自治委員を「先生」と呼ぶような組織だ。これでは一部の好き者が運営している機関と捉えられかねないだけに、どれほどの自治委員に議長の思いが伝わったのかは疑問だ。
総長の強いリーダーシップが強調される大学経営の下で、学生の声が軽視されてきたことはしばしば指摘される。60年代には各学部に存在していた自治会も時代とともに消え行き、精力的な活動が見られるのは前期教養課程の自治会だけだ。当該の自治会ですら学生の言論空間の欠如を嘆きはしても、それを構築するための努力を行ってきたように見えない。そもそも自治会は、学生の意見を制度的にくみあげ、大学当局に突きつける役割に強く規定されている。学生投票はその例だが、自治会の活動で一般の学生が能動的に参画する制度はほとんど見当たらない。自治会という枠組みの中で、学生はアンケートに答えるだけの受動的な存在にならざるを得ないのが現状である。これは、9月に開かれた駒場での大学執行部と自治会の懇談会で相原博昭理事・副学長から出た「学生は大学のお客さんだと思っている」という発言に重なる。自治会は「学生は構成員であって学内で発言権を持つのだ」と力説し、相原理事をうなずかせたが、当の自治会もロッカー貸し出しなどのサービスを享受するだけの顧客としてしか学生を包摂できていない。
交渉相手たる大学当局との二項対立の中でしか自らの存在を定立できないジレンマを自治会は抱えている。自治会が事実上消滅した本郷での集会では、学生たちが自治会の意義を再認識したと異口同音に発言していた。しかし学費問題が紛糾することもない「平穏な」キャンパスにおいて学生自治を存続させることは並大抵のことでない。東大当局との対立を学生全体で共有できるかのような「闘争」に酔いしれることは、もはやできないのである。言論空間が失われた責任を「学生の無関心」に単純化するのではなく、その再構築に向けた自省的な努力が求められる。自治会は本来、学生一人一人が主体的に構成する共同体であるはずだ。全ての学生がその地位や交渉を正当化する以上の役割を保持できなければならないのであって、自治会が「“自治の精神を失った”学生に代わる当局との交渉」でしか公共性を発揮できないのは問題だ。
総長が公言する「学生と共に考える仕組み」の構築に向け、学生の言論空間の構築は急務となっている。現状では自治会を指して「偏った意見を持った組織」と言う声も少なくない。仮に学生自治に関わろうとしても、自治委員会は拘束時間が長いばかりか、規則の細かい文言の修正を追認するだけの会議に終わるのが現状だ。学生自治の基礎知識も共有できていないため「面倒な」学生自治への関与のハードルは高いままだ。こうした問題を乗り越え総長の耳には届かない小さな学生の声も包摂できるような自治再建を目指さなければならない。
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全学的な自治活動が隆盛した60年代に学生たちは安田講堂に立てこもった。今夏は対照的に、安田講堂に籠城する藤井総長を一部の学生が取り囲んで抗議するかのような構図だった。総長が掲げる「対話」にせよ自治会が掲げる「自治」にせよ、本来は青空の下で対等に行われる議論に基づくべきだ。これからの自治は60年代への原理的回帰によっては得られない。バリケードを作っての「闘争」の時代は終わったのだ。学生主体の開放的な言論空間に根差した新しい自治の実現に向け、学費問題の教訓を羅針盤にしたい。