学術

2023年4月20日

劇評の大家・渡辺保さんに聞く 「市川團十郎」とは何か

 

 昨年11月、13代目市川團十郎が誕生した。コロナ禍で席数を減らし業績も低迷していた歌舞伎座が、襲名を受けて息を吹き返している。「市川團十郎襲名」とは何がそれほど特別なことなのだろうか。「市川團十郎」とは、「市川宗家」とは一体何なのか。歌舞伎劇評の大家として知られ、東大でも教壇に立っていた渡辺保さんに、歌舞伎と聞いて縁遠く感じてしまう人に向けて解説してもらった。(取材・宮川理芳

 

━━「市川團十郎」はなぜこれほど特別なのでしょうか

 

 理由は江戸時代の元禄期にまでさかのぼります。歌舞伎の演技様式が確立したのが元禄期ですが、この頃歌舞伎は幕府の認可した劇場でしか行うことはできませんでした。江戸中期以降は中村座、市村座、森田座の三つ。それぞれの代表(座元)が、中村勘三郎、市村羽左衛門、森田勘彌で、何か不祥事が起きればこの三人が幕府に呼ばれました。しかし團十郎は名優でありながらどうしても座元になることを許されませんでした。そこで團十郎は二つの方法で、身分は及ばずとも江戸歌舞伎の象徴、いわば「飾り海老」になろうとしたんです。

 

 一つ目の方法が、自ら呪術性を帯びることでした。團十郎が荒事を独占する理由もここにあります。初代團十郎は成田山の不動尊信仰に非常に篤い人で、自ら不動明王に扮(ふん)して舞台に上がりました。現在でも歌舞伎十八番(市川宗家のお家芸)に『不動』という演目があります。今では成田エクスプレスがありますから成田山へはすぐ行けますけれども、当時は遠い地のありがたい神様が目の前で見られるということで、観客のさい銭が嵐のように舞台に降り注いだといいます。いうなれば信仰心を商売に利用したということです。この信仰は明治の9代目の頃まで続いていたようで、こんな話があります。ある時、9代目の楽屋に1組の母子が訪ねてきて、「この子に悪い虫が付いているので一つにらんで悪魔ばらいをしてください」と言う。断れなくて、にらんでやると、虫がポトリと落ちた、と。伝説ですが、そんな母子がいたということ自体信仰があったことの証左でしょう。今回の襲名公演でも口上のときに「にらみ」を見せていましたね。

 

 二つ目の方法が「市川宗家」を作り出すこと。「宗家」という言い回しが使われ始めたのは江戸末期です。座元三家に対抗できる劇団の代表者としての権威づけを行おうとしたのです。結果的に元禄期から明治ごろまで、養子ではなく血筋でずっとつながっていたのは実は市川宗家だけでした。神格化され、ずっと直系でつながる、いわば一種の天皇家のような役割を担っていたんですね。だから「市川團十郎」および「市川宗家」は非常に特殊な地位にあるのです。

 

━━11 代目、12 代目、13 代目と3代にわたって團十郎襲名を見てきたとのことですが、現代の歌舞伎界における市川團十郎はどのような存在といえるでしょうか

 

 難しい質問です。一つ言えるのは、人気商売である歌舞伎は、時代の変化の中でその社会的地位を異にしてきたということ、そしてそのために歌舞伎界における團十郎の立ち位置も変わってきたということです。まずは、信仰の対象ともなる特殊な存在だった歌舞伎役者が、次第に普通の人間として見られるようになったことが挙げられるでしょう。

 

 別の変化もあります。11 代目、12 代目の頃は、名優の呼び声高い9代目團十郎の直接の弟子がまだ多く生きていました。沈滞していた歌舞伎界の再興を願って、そうした長老たちが必死に團十郎を引っ張り上げ、盛り立てようとしていたことを覚えています。そして実際に歌舞伎は奇跡的な復興を遂げました。しかし今回は、長老たちに「團十郎を頂点として歌舞伎の復興を図る」といった熱い思いはそれほど感じられません。歌舞伎界における團十郎の特殊性も薄れているのかもしれません。一方で、今回はむしろ團十郎と同世代の役者たちの活躍が目覚ましい。同世代だからこそ、團十郎に容赦せず負けじと争い合い、結果として非常に見応えのある舞台になっています。これからの歌舞伎の縮図を見せてくれました。

 

襲名公演で賑わう歌舞伎座
襲名公演で賑わう歌舞伎座(撮影・宮川理芳)

 

━━襲名公演では 13代目の当たり役と言われる「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」が2カ月連続で上演されました。13代目の助六をどう見ますか

 

 私は彼の助六を見て、初めてこの作品の本質がつかめたように思います。助六が花道から本舞台へ行く途中で、しばらく唄に合わせて演技をする場面があり、これを「カタリ」と呼びます。これを舞踊と呼ばないのは、この部分は実際に「語る」場面だからです。廓(くるわ)通いをする不良少年としての助六の人生を語っている。自分はこういう男で、こういう日常を生きていて、どう女を口説くかということを語るわけです。歌舞伎はとかく伝統の継承ということに重きを置きがちですが、古典作品であっても本質を捉え現代に通用する演劇にするべきです。セリフがあり動きがあるのだから、その全てに意味があるということを意識し、研究しなくてはなりません。歌舞伎がわれわれにとってシェイクスピアほど「古典」として定着していないのは、その普遍性を役者が表現できていないからだと私は考えます。いわばシェイクスピア作品の古典的解釈を確立したローレンス・オリヴィエの時代のままと言えます。ピーター・ブルックのようにステレオタイプを打破する現代性を持たなければなりません。しかし、助六において 13代目は見事にこれを成し遂げた。カタリの本質に迫ったという点において 13 代目は革命的な芸質を持っていると言えます。

 

━━歌舞伎を見る目はどのように養いましたか

 

 役者の動きをノートにメモを取って分析しました。教えてくれる先生などいませんから全て独学です。劇場は暗いしメモを取ろうと目を離せば次に移ってしまうしで、最初の頃は同じ演目に同じ役者で4回も見に行きました。メモを取り始めたのは、大正、昭和にかけて活躍した大評論家三宅周太郎が「そうせよ」と書いていたから。中学時代からこれを続けています。何十年分のノートはまとめて書籍化もしました。何回も同じ演目を見ていると、いつどのように誰が出てきて、どのセリフの時どう動くかということが頭に入ってきます。するとそれぞれの動きがどのような心情表現をしているのか自然に分かってくるのです。

 

 12月の襲名公演で上演された女方舞踊の大曲「京鹿子娘二人道成寺(きょうがのこむすめににんどうじょうじ)」を例に挙げてみましょう。「くどき」と呼ばれる場面で、白拍子花子が手拭いを手鏡に見立てて化粧をしたあと、手拭いを下手、上手へ順に投げかけるような動きをします。私は昔これを対称性のために右左に振っているのだと思っていたのですが、名女形だった歌右衛門を見て男を追っているのだと気付きました。男は追い縋すがってくる女を疎んじて、右から左に移動しているのです。女はそれを追いかけて注意を引こうとしている。しかし逃げられるから、続く恨み言が自然に引き出されるのです。動きから心情を読み取るこうした鑑賞方法は、歌舞伎に限らず他の演劇でも大いに役立ちました。ジャン・ルイ・バローがやったフランス語の『ハムレット』も、モスクワ歌劇団の『桜の園』も、日本語で台本を暗記していけば言葉が通じずとも動きから心情を読み取ることができました。

 

『観劇ノート集成 第一巻』渡辺保、2970円
『観劇ノート集成 第一巻』渡辺保、2970円

 

━━初心者はどのように歌舞伎を楽しめば良いでしょうか

 

 良いものを見ましょう。悪いものを見ると鑑賞力が落ちます。ただ、何が「良い」公演かを見極めるのは難しいでしょう。ですから「推し」を作ることをおすすめします。歌舞伎は役者を見るものです。そしてその人が出る公演は徹底的に見に行くようにするのです。満遍なく見に行っていたらお金も時間も足りませんが、1人だけならどうにかなるでしょう。私の場合は最近亡くなってしまった吉右衛門でした。徹底的にその人を追いかけていると、次第にその人の癖「仕勝手」が分かり、「仕勝手」からその人の人柄も見えてきます。するとどの役がその人の「ニン」に合うか、つまりどれが「良いもの」かが分かるようになります。先天的な身体的特徴である「柄」と違い、「ニン」というのは役が要求する肉体上の条件で、後天的に訓練して獲得するものでもあります。芸域と言い換えることもできるでしょう。どのような「ニン」を会得するかというのは役者の一生のテーマで、これは皆さんにとっての「自分探し」に近い。運命が与える人間の役割は一つということですね。

 

渡辺保(わたなべ・たもつ) 演劇評論家。1941年初の歌舞伎鑑賞で名優として知られる6代目尾上菊五郎の『義経千本桜』『羽根の禿』『浮かれ坊主』を見て衝撃を受け、以来80年近く歌舞伎を見続ける。慶應義塾大学卒業後、東宝入社。65年『歌舞伎に女優を』(牧書店)で評論デビュー。東大、慶應義塾大学、東京女子大学など多数大学で教壇に立つ。紫綬褒章など受勲多数。日本芸術院会員

 

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